怪力乱神を語り、無記に反す

一条真也です。

夏休み特集ということでもないのですが、これから「幽霊」に関する本を続けて紹介したいと思います。ブログ「雨の日、霊を求めて」にも書いたように、「グリーフワークとしての怪談」を現在のテーマにしており、その関連書籍をたくさん読んだのです。
しばらく「幽霊」に関する本の書評ブログが続きますが、どうか驚かないで下さいね。


わが書斎の「怪力乱神」研究書コーナー



また「幽霊」の本を読んだら、その流れで「ESP」や「UFO」や「UMA」の本も読んでしまいました。言うまでもなく、ESPは「超感覚的知覚」、UFOは「未確認飛行物体」、UMAは「未確認生物」のことです。それらは総称して「オカルト」と呼ばれます。
もっともオカルトをそのまま鵜呑みにして紹介するトンデモ本ではなく、オカルト現象の本質について考察したノンフィクションの類を選んでいます。
いずれにしても、死者の霊だとか死後の世界だとか、超能力やUFOだとか、怪獣や雪男だとかの怪しげなブログ記事が連続してアップされることになります。
そのような不可思議な現象を、孔子は「怪力乱神(かいりょくらんしん)」と呼びました。


孔子は「怪力乱神」について語らなかった



世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)にも書きましたが、『論語』の「述而篇」には、「子、怪力乱神を語らず」という言葉が出てきます。
「怪」は尋常でないこと、「力」は力の強いこと、「乱」は道理に背いて社会を乱すこと、「神」は神妙不可思議なことです。すなわち、「人知で推しはかれず、理性では説明できないこと」という意味になります。孔子は、このような人知では推し量れないこと、理性では説明できないことがらについては決して語らなかったといいます。



では孔子は、どういうことを語ったのでしょうか。
それは、この語らなかったことの反対のことです。
つまり、人知、理性で説明できる「当たり前のこと」を語っていたのです。
わたしは、孔子はけっして怪力乱神を否定していたわけではないと思います。
しかし、いくら考えても不可解で判らない問題というものはあります。
そのような問題に振り回されるより、まず自分の考えが及ぶ範囲から考えていくということで、あえてその埒外にある怪力乱神を語らなかったのでしょう。


ブッダは「無記」を貫いた



孔子と並ぶ「人類の教師」といえば、ブッダが思い浮かびます。
孔子の「怪力乱神」のごとく、ブッダには「無記」という言葉があります。
仏典によれば、ある男がブッダに聞いたそうです。「この世界は、どうなっているのか? 霊魂は存在するのか? 死んだらどうなるのか?」と。
それに対して、ブッダは「わたしは、そのような質問には答えない」と述べたそうです。



そして、ブッダは言いました。「目の前に毒矢が刺さって苦しんでいる男がいる時に、その矢はどこから飛んできたのか、誰が放ったのか、毒は何なのかと詮索しても仕方がない。それよりも、男の苦しみを解いてあげることの方が大切だ」と。
このブッダの姿勢にならって、「霊魂があるか」「死後どうなるのか」「どうして、わたしたちは、ここにいるのか」という問いに対しては、「無記」を貫く。これが、仏教の根本思想です。その後、歴史的発展の中で、仏教の実践において「極楽」や「地獄」の概念が派生しました。しかし、仏教の根本的な思想が、これらのことについて「無記」を貫いていることは変わりません。



わたしは、孔子ブッダをこよなく尊敬する人間です。
でも、これからあえて「怪力乱神」について考えてみたいと思います。
「無記」の教えに反して、あえて霊魂や死後の世界について述べてみたいと思います。
ところで、ブログ「『こころの再生』シンポジウム」の様子が「京都大学こころの未来研究センター」のHPに掲載されています。どうぞ、こちらをクリックして御覧下さい。
そのシンポジウムでも、わたしは「幽霊」の話をさせていただきました。なぜなら、「幽霊」および「怪談」という文化には、グリーフケアとしての機能があると思うからです。
わたしが「怪力乱神」を語り、「無記」に反することの背景には、「愛する人を亡くした人」のためのグリーフケア・サポートのヒントが得られないかとの思いがあります。
そのことを頭の隅に置かれて、これからのブログ記事をお読み下さい。


2012年7月29日 一条真也