『葬式は、要らない』

一条真也です。

たった今、島田裕巳著『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)を読み終えました。
わたしは知らなかったのですが、とても売れているようですね。
なんでも新聞に大きな広告も打たれたとか。
このブログで紹介した内海準二さんと中野長武さんから「当然、もう読んだでしょ」と言われ、あわてて書店で購入した次第です。特に中野さんは島田氏担当の編集者でもあり、現在も新しい本を三五館で作っているそうです。
島田氏には、わたしも以前お会いしたことがあります。
法蔵館という出版社のパーティーで、鎌田東二さんに紹介していただきました。
そのとき、島田氏はオウム真理教サティアンを訪問したばかりで、そのことをスピーチで話されていました。
その後、かの「オウム真理教事件」が起き、島田氏の人生は一変しました。
オウムに騙されたことは宗教学者として確かに汚点ではありますが、島田氏は『オウム〜なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)という540ページにもおよぶ大冊を著しました。
わたしも読みましたが、大変な力作であり、深い感銘を受けました。
この一冊によって島田氏の宗教学者としての「禊ぎ」は果たされたと思います。

さて、『葬式は、要らない』ですが、一読して、「このタイトルは版元がつけたものではないか」と思いました。
なぜなら、島田氏はけっして「葬式は、要らない」とは述べていないからです。
内容も、葬祭業者批判というより仏教界批判の色合いが強いと言えます。
特に、戒名や墓の問題に島田氏の批判は厳しく向けられています。


    『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)と『ロマンティック・デス』(幻冬舎文庫


一部の葬祭業者が過剰反応しているようですが、島田氏の意見は、別に過激なものではないと思います。
葬式にしても不要というより、いたずらに華美にしないことを提唱しています。
この本を読んで、わたしは自分の著書を連想しました。
『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』です。
『葬式は、要らない』と同じ幻冬舎から刊行されていますが、こちらは幻冬舎文庫です。
芥川賞作家で臨済宗の僧侶である玄侑宗久さんが解説を書いて下さいました。
じつは、この本で、わたしもけっこう仏教界を批判しているのです。「最近は根性の入っていないサラリーマン坊主が多くて困る」などと書いたりしています。
それに対して、玄侑さんは、「そうした存在は認めるにしても、一方では営利に偏り、夢も持たない葬儀屋が『背に腹は替えられない』場面で暴利を貪っているケースも目にする」と葬祭業界をチクリと刺しながらも、「ともかく我々は同じ葬祭人として、今や一条氏のようにロマンを持つことを求められている」と書いて下さいました。
本当に、心から嬉しかったです。


わたしは、人間にとって葬儀は絶対に必要なものであると確信しています。
一般に、葬儀には主に4つの役割があるとされています。
社会的な処理、遺体の処理、霊魂の処理、そして、悲しみの処理です。
悲しみの処理とは、遺族に代表される生者のためのものです。
残された人々の深い悲しみや愛惜の念を、どのように癒していくかという処理法のことです。通夜、告別式、その後の法要などの一連の行事が、遺族に「あきらめ」と「決別」をもたらしてくれます。
愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。
しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていきます。 
親しい人間が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。
残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。
心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残るのです。
この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。
まさに、葬儀を行なう最大の意味はここにあります。

しかしながら、日本の葬儀に何の問題もないとは考えていません。
日本の葬儀は、実にその9割以上を仏式葬儀によって占められています。
ところが最近になって、仏式葬儀を旧態依然の形式ととらえ、もっと自由な発想で故人を送りたいという人々が増えています。
今のところは従来の告別式が改革の対象になって、「お別れ会」などが定着しつつありますが、やがて通夜や葬儀式にも目が向けられ、故人の「自己表現」や「自己実現」が図られていくに違いありません。

わたしは、葬祭業とは一種の交通業ではないかと思います。
お客様を、「この世」というA地点から「あの世」というB地点までお送りするわけです。
目的地に行くにはロケットから飛行機、船、バス、タクシー、そして自転車やテクシーまで、数多くの交通手段があるのです。
それが、さまざまな葬儀です。
飛行機しか取り扱わない旅行代理店など存在しないように、「魂の旅行代理店」としての葬祭業も、お客様が望むかぎり、あらゆる交通機関のチケットを用意すべきです。
わたしは、2004年2月に「北九州紫雲閣」をオープンさせましたが、そこでは、あらゆるスタイルの葬儀を行なうことが可能です。
従来の仏式葬儀はもちろん、本格的な神殿と教会も設け、神葬祭およびキリスト教式もできます。
また、海洋葬、樹木葬宇宙葬、月面葬、DNA葬をお望みの方には、そのお世話をさせていただくことができます。
もちろん、音楽葬、ガーデン葬、その他もろもろのスタイルの葬儀もすべて可能です。
わたしが『ロマンティック・デス』で提案した「月への送魂」もプランの一つとしてエントリーしています。
島田氏は、葬式の代わりに花火を派手にあげるPL教団のセレモニーを紹介していますが、「月への送魂」の迫力と感動はこれをはるかに上回ります。


でも、どの葬儀が絶対に正しいということはありません。
北九州紫雲閣はそのように、いわば、葬儀の百貨店、葬儀の見本市のような場所なのです。セレモニーホールの本質とは、死者の魂がそこから旅立つ、魂の駅であり、魂の港であり、魂の空港ではないでしょうか。
わたしがめざしたのは、あらゆる魂の交通機関の中心となる「ソウル・ターミナル」です。

ともあれ、島田氏が『葬式は、要らない』で提起した数々の問題の解決策は、すべて『ロマンティック・デス』に書かれています。
月に地球人類の合同墓を作るという「月面聖塔」を含めた「ムーンハートピア・プロジェクト」がすべてを解決します。読んでいただければ、『ロマンティック・デス』が先に書かれた『葬式は、要らない』のアンサーブックであることがわかると思います。
そのことを幻冬舎の編集者は知っているのでしょうか?

最後に、島田氏は『葬式は、要らない』の冒頭に、「葬式は贅沢であるーーこれが、本書の基本的な考え方であり、メッセージである」と書いています。その後も、何度も「贅沢」という言葉が出てくるので、どうやらキーワードのようです。
たしかに、葬式は贅沢だと、わたしも思います。
でも、それは良い意味でです。それは、人間関係の贅沢につながっているからです。

アカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」が話題になりましたが、人は誰でも「おくりびと」、そして、いつかは「おくられびと」です。
一人でも多くの「おくりびと」を得ることが、その人の人間関係の豊かさを示すのです。
その意味で葬儀の場とは、人生のグランドフィナーレであるとともに、良い人間関係の檜舞台に他なりません。
現在、人間関係を良くする試みとして「隣人祭り」が世界的に注目されています。
その隣人祭りが生れたフランスの作家であるサン=テグジュペリは、「真の贅沢とは、人間関係の贅沢である」と述べています。
贅沢、大いに結構じゃありませんか。
みんなで人間関係の贅沢、こころの贅沢をめざそうじゃありませんか!
島田氏も本の最後に、「一人の人間が生きたということは、さまざまな人間と関係を結んだということである。葬式には、その関係を再確認する機能がある。その機能が十分に発揮される葬式が、何よりも一番好ましい葬式なのかもしれない。そんな葬式なら、誰もがあげてみたいと思うに違いない」と書いています。まったく同感です。
思うに、昨日取り上げた「無縁社会」も「葬式無用論」も結局は同根の問題です。
その背景には共同体の崩壊があり、人間関係の希薄化があるのです。
このままで良いはずがありません。
わたしは、なんとか、安心して老いることができる社会、安心して死ぬことができる社会、そして安心して葬式があげられる社会を実現するお手伝いがしたいと思います。
それこそが、人間尊重思想を広める活動としての「天下布礼」であると信じています。

ということで、今日は大阪に行き、葬祭業最大手である公益社の古内社長と対談いたします。それでは、行ってきます!


2010年2月19日 一条真也