『孟子』

一条真也です。

今日は、朝からずっと『葬式は必要!』を書いています。
なぜ、こんな本を書くのかというと、理由は簡単。
わたしは、葬式は必要であると心の底から考えているからです。
では、なぜ葬式が必要なのでしょうか。
葬儀というものの意義を説いた人に、孔子孟子がいます。
儒教の祖である孔子は、人間にとって最も親しい人間とは、その字のとおり「親」であると述べました。そして、その最も親しい親の葬儀をきちんとあげることこそ「人の道」の基本であるという価値観を打ち出しました。
孔子の後継者である孟子も、親の葬儀に何よりも価値を置きました。
孟子』のなかで、彼は昔の習俗について述べています。
かつて、親を埋葬しない人々がいた。親が死ぬと、彼らは死体を集めて溝に投げ入れるだけだった。ところがある日、その場を通りかかると、狐が死体を喰らい、蝿や蛆が死体にたかっているのを目にした。すると、とたんに額に冷汗が噴き出し、彼らは、それ以上は見ようとしなかったというのです。



孟子は、「顔面に冷汗が流れたのは、他人の目を気にしてそうなったのではない。その反応は彼ら自身の心のもっと深いところから湧きあがったのだ」と解説します。
そのためか、彼らはスコップと土車を取ってきて、急いで死体を埋めなおしました。
そして、「埋葬をきちんと行なうことは、単なる習慣の問題ではない。それは、親子の絆を証しているのであり、死ですらそれをほどくことができないのだ」と結論づけるのです。
古代の中国人たちは自分たちのあり方のルールとして「礼」というものを持っていましたが、葬儀を最重要視することで、「死」がこの「礼」の基準となっていきました。
人間はその一生において、さまざまな社会的関係を作っていきます。
一般人なら、成人式、結婚式、葬儀、祭祀といった、いわゆる冠婚葬祭です。
このなかで、冠(成人式)は一般庶民にまで徹底したわけではありません。
また結婚しない人間もいますし、祖先の祭祀をしない者もいます。
しかし、必ず避けられないものは「葬」です。
すなわち、葬礼こそ一般人の「礼」の中心なのです。
それでは、諸礼のモデルとなる最も重要な葬礼はどのように組み立てられているのかといえば、親の葬礼を基準とするのです。
なぜなら、一般的にいって、親が子よりも後で亡くなるという特別な事情を除くと、人間はほとんど必ず親の死を迎え、葬礼を行なうからです。
この必ず経験する、親に対する葬礼を基準として、それを最高の弔意をあらわすものとします。逆に言えば、最も親しいがゆえに、最も悲しむわけです。
このように、親の葬礼を行なうことこそは、すべての「礼」の中心となる行為であり、「人の道」を歩むことに他ならないのですね。

                 「人の道」のすべては、ここに



また、孟子といえば、「性善説」で知られています。
孟子は、人間誰しも、あわれみの心を持っていると述べました。
幼い子どもがヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとします。
誰でもハッとして、井戸に落ちたらかわいそうだと思います。
救ってやろうと思います。それは別に、子どもを救った縁でその親と近づきになりたいと思ったためではありませんね。村人や友人にほめてもらうためでもありません。また、救わなければ非難されることが怖いためでもない。
してみると、かわいそうだと思う心は、人間誰しも備えているものなのです。さらに、悪を恥じ憎む心、譲りあいの心、善悪を判断する心も、人間なら誰にも備わっているもの。
かわいそうだと思う心は、「仁」の芽生えである。
悪を恥じ憎む心は、「義」の芽生えである。
譲りあいの心は、「礼」の芽生えである。
善悪を判断する心は、「智」の芽生えである。
人間は生まれながら手足を四本持っているように、この四つの芽生えを備えているというのです。これこそ、有名な性善説の根拠となった「四端の説」です。



孟子は「人間の本性は善きものだ」という揺るぎない信念を持っていました。
人間の本性は善であるのか、悪であるのか。
これに関しては古来、二つの陣営に分かれています。
東洋においては、孔子孟子儒家が説く性善説と、管仲韓非子の法家が説く性悪説が古典的な対立を示しています。
西洋においても、ソクラテスやルソーが基本的に性善説の立場に立ちましたが、ユダヤ教キリスト教イスラム教も断固たる性悪説であり、フロイト性悪説を強化しました。
そして、共産主義を含めて、すべての近代的独裁主義は、性悪説に基づきます。
毛沢東が、文化大革命孔子孟子の本を焼かせた事実からもわかるように、性悪説を奉ずる独裁者にとって、性善説は人民をまどわす危険思想であったのです。


「孔孟」と並び称せられるように、孟子孔子の精神的後継者です。
わたしが尊敬する吉田松陰は、孟子の研究者でした。
孟子』という本は、『論語』とともに、何度でも繰り返し読むべき本だと思います。


2010年3月13日 一条真也