「告白」

一条真也です。
話題の日本映画「告白」を観ました。
うーん、ものすごく後味の悪い映画ですね。
こんな作品は、久しぶりです。一種のダーク・ファンタジーだと思いました。

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この映画に関しては、色々と書いていたらネタバレになる危険大です。
はっきり言って、非常に感想が書きにくいですね。
松たか子が演じる中学の女教師は、シングルマザーでした。
でも、幼い娘が学校のプールに落ちて亡くなります。
調査の結果、警察は事故死と判断しました。
しかし、彼女は娘が教え子から殺されたという真実を知ります。
そのことを最後のホームルームで告白し、犯人である教え子への復讐を宣言するという衝撃のオープニングから物語は始まります。
冒頭からいきなりのハイテンションに度肝を抜かれますが、まったくテンションを下げないまま一気にラストまで持っていったのには驚きました。
シナリオは中島哲也監督が自ら手がけたそうですが、さすがですね。

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でも、それ以上に驚かされたのは、主演の松たか子の圧倒的な存在感でした。
かつて、これほど存在感のある女優が日本にいたでしょうか。
わたしは、「裸の島」や「鬼婆」に出演した乙羽信子を思い浮かべました。
でも、「告白」の松たか子は、「裸の島」ではなく「鬼婆」の乙羽信子を連想しました。
それぐらい、鬼気迫るというか狂気の“復讐鬼”を見事に演じていたからです。
わたしはもともと、彼女の兄の市川染五郎を贔屓にしています。
妹の松たか子については、なんだかトレンディ・ドラマの女優といった軽いイメージしかなかったのですが、「K−20 怪人20面相・伝」を観て以来のファンになりました。
この兄妹は本当に演技がうまい!
父である松本幸四郎の教育が良かったのでしょうね。
それとも、もともとの血筋のせいでしょうか。
いずれにせよ、松たか子が現在の日本映画界において最高の女優の一人であることは疑いないと思います。



さて、この映画そのものに関しては、さまざまな意見がネットなどで乱れ飛んでいますね。はっきり言って、この映画は「好き」か「嫌い」かのどちらかだと思います。
そして、わたしはこの映画が嫌いです。
「こんな映画、作るべきではない」という感想がヤフー映画のレビューにありましたが、わたしもそのレビュアーに共感します。
しかしながら、また、これほど、人の心をかき乱し、嫌な気分にさせるというのも意味があるのかなとも思います。
つまり、この映画は、観る者に問題提起をしているのです。
その問題提起とは、「なぜ人を殺してはいけないのか」であり、「命は重いのか」であり、「復讐は許されるか」などです。
いずれも「倫理」あるいは「モラル」に関っています。
つまるところ、「人間はもともと善なる存在か、悪なる存在か」という問題に集約されるかもしれません。



古代中国の孟子は、人間誰しも、あわれみの心を持っていると述べました。
幼い子どもがヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとします。
(「告白」の女教師の娘は、井戸ではなく、プールに近づいたわけですが。)
誰でもハッとして、井戸に落ちたらかわいそうだと思います。救ってやろうと思います。
それは別に、子どもを救った縁でその親と近づきになりたいと思ったためではない。
周囲の人々にほめてもらうためでもありません。
また、救わなければ非難されることが怖いためでもありません。
してみると、かわいそうだと思う心は、人間誰しも備えているものです。
さらには、悪を恥じ憎む心、譲りあいの心、善悪を判断する心も、人間なら誰にも備わっているものです。
かわいそうだと思う心は「仁」の芽生えである。
悪を恥じ憎む心は「義」の芽生えである。
譲りあいの心は「礼」の芽生えである。
善悪を判断する心は「智」の芽生えである。
人間は生まれながら手足を四本持っているように、この四つの芽生えを備えています。
これが、あまりにも有名な「性善説」の根拠となった「四端の説」です。
孟子は「人間の本性は善きものだ」という揺るぎない信念を持っていました。



人間の本性は善であるのか、悪であるのか。
これに関しては古来、二つの陣営に分かれています。
東洋においては、孔子孟子儒家が説く「性善説」と、管仲韓非子の法家が説く「性悪説」が古典的な対立を示しています。
ちなみに荀子の「性悪説」とは「性善説」の変形ですが。
西洋においても、ソクラテスやルソーが基本的に「性善説」の立場に立ちましたが、ユダヤ教キリスト教イスラム教も断固たる「性悪説」であり、フロイトは「性悪説」を強化しました。共産主義をふくめてすべての近代的独裁主義は、「性悪説」に基づきます。
毛沢東は、文化大革命儒教書を焼かせました。「性悪説」を奉ずる独裁者にとって、「性善説」は人民をまどわす危険思想であったのです。



わたしは、人間の本性は善でもあり悪でもあると考えます。
そして、13歳というキーエイジは、善と悪の二差路に立っているようなものかもしれません。13歳の少年少女は、天使にもなり悪魔にもなるのです。あえて正論を吐くなら、その中間的存在を善なる道に導くことこそが「教育」だと思います。
いずれにせよ、この映画に対するコメントそのものが、その人の倫理観を示すことになります。人間に対する考え方、命に対する考え方を示すことになります。
わたしが一番怖かったのは、「何も感じなかった」というコメントが多かったことでした。
ある意味で、ベストセラーになった『葬式は、要らない』と同様に、映画「告白」も、日本人の倫理感を問う試金石なのではないでしょうか。
蛇足ながら、この映画の原作であり、2009年度本屋大賞を受賞した湊かなえ著『告白』の版元は、拙著『葬式は必要!』と同じ双葉社です。



この映画は一種のダーク・ファンタジーだと言いました。
同じ中島哲也監督の「嫌われ松子の一生」にも通じる世界です。
それでも、あの映画には救いがありました。
最後に人間への信頼のようなものがありました。
だから「嫌われ松子の一生」は、わたしの大好きな映画です。
でも、「告白」には救いもなく、人間への信頼もありません。
このような映画が作られ、ヒットする時代背景をよく考えなければならないでしょう。



最後に、この映画を観て、わたしは「隣人」や「近所づきあい」について考えました。
シングルマザーであった主人公は、幼い子どもを預ける先がなく、学校に連れて来なければなりませんでした。
もし、彼女に気軽に子どもを預けられる隣人がいれば、どうだったか?
彼女は、一時は犬を飼っている高齢者宅に預けていました。
でも、ある事情により、それが不可能になりました。
その結果、悲惨な事件が起こったわけです。
わが子を安心して預けられる隣人社会の実現、それこそ「最小不幸社会」にも通じる道だと思います。


2010年6月19日 一条真也