古代の葬送ロマン

一条真也です。

ブログ「ネアンデルタール人」で、わたしたち現生人類はネアンデルタール人のDNAを受け継いでいたという大ニュースを前に書きました。
今回、それに次ぐ大ニュースがありました。
今朝、わたしの弟が「朝日新聞」の記事を見せてくれて知りました。
北九州市小倉南区の「城野遺跡」から出土した弥生時代の石棺に武器らしいものを持つ人物画が描かれているというニュースです。
これが、古代日本の葬送儀礼の大きな手がかりになるというのです。


               7月22日付「朝日新聞」朝刊より


城野遺跡は北九州市芸術文化振興財団の埋蔵文化財調査室が発掘してきましたが、昨年、九州最大級の方形周溝墓が発見されました。
周りに溝を巡らせた墓ですが、そこから子供用の石棺が見つかりました。
石棺の内側赤い顔料が塗られていました。
また、頭側の板には、朱の上から人物の絵が薄く彫り込まれていたということです。
その人物は20センチほどの上半身のみですが、右手に武器、左手に盾のようなものを持っていました。こういった発見は、一般に農耕儀礼の跡として見られるそうです。
しかし、東京大学設楽博己教授(考古学)は、「石棺にあったということは、墓の中で邪霊をはらうものと考える方が理解しやすい」と述べています。
すなわち、農耕儀礼ではなく葬送儀礼であった可能性が高いというのです。



さらに人物の特徴から、古代中国の文献である『周礼』に登場する呪術師の「方相氏」ではないかと、複数の研究者から指摘されているそうです。
方相氏といえば、四つ目の仮面をかぶって戈と盾を持っていたことで知られます。
律令時代の日本において、方相氏は宮中で鬼を追い払う「追儺(ついな)」の儀式にも採り入れられました。そう、節分の豆まきのルーツですね。
何より重要なのは、方相氏に葬送の棺を先導する役割があったとされていることです。


               7月22日付「朝日新聞」朝刊より


この人物が、もし方相氏だとしたら、律令時代ではなく、500年近くも前に日本に入ってきたことになります。つまり、弥生時代に入ってきたことになるわけです。
朝日新聞編集委員中村俊介氏は、次のように書いています。
弥生時代の日本列島には、中国や朝鮮半島から先進文化が押し寄せた。『魏志倭人伝』には中国と交流があったという30のクニが記載されている。その多くの位置は不明だが、今回の発見で北九州市周辺に外来の複雑な思想を理解できた知識層の存在と国際交流をしたクニのひとつを想起することも不可能ではない」



わたしが、この記事を読んで真っ先に考えたのは儒教の存在です。
方相氏が登場する『周礼』は、もともと儒教の書物です。
『周礼』は、『儀礼』『礼記』とともに「三礼」とされています。
それらの内容は、いずれも葬送儀礼を中心としたものです。
日本人の中には儒教が宗教ではないと思っている人が多いですが、儒教は立派な宗教です。東京大学末木文美士教授(宗教学)は、著書『日本宗教史』(岩波新書)に次のように書いています。
「そもそも儒教は倫理であって、宗教ではないのであろうか。今日、そのような見方は否定されている。そもそも『儒』は巫祝(シャーマン)の意であり、呪術儀礼や葬礼に関わることを職掌としていたとされる」
そう、儒教が宗教であることの最大の証明とは、ずばり葬儀を行うことなのです。
葬儀を宗教ではなく、単なる習俗として見る人もいますが、葬儀とは紛れもなく宗教儀礼の根幹です。「死および死後の説明」を形にしたものこそ葬儀であり、特に儒教は葬礼を何よりも重視したのです。



もともと「原儒」と呼ばれた古代の儒教グループは葬送のプロフェッショナル集団であり、正式な儒教創始者とされる孔子の母親も葬儀や占い、あるいは雨乞いに携わる巫女でした。つまり、シャーマンですね。
儒教の発生そのものが葬送儀礼と分かちがたく結びついていたのです。
中国文学者の故・白川静氏といえば、近代日本が生んだ「知の巨人」です。
その白川氏は、哲学者の梅原猛氏と対談した『呪の思想』(平凡社)という対談集を残しています。その対談集の中で「儒家」と「墨家」の対立について語り合った後、両氏は次のような興味深い会話を交わしています。



(白川) 孔子は葬式屋であった訳ですよ。
(梅原) ほう。
(白川) 葬式屋と言うたらおかしいけれども、儒教の文献で、『礼記』四十九篇のうちの大部分はね、葬式の儀礼なんですよ。葬祭なんです。
(梅原) そうですね。
(白川) それを儒教が担当しておった。それで、墨子集団は、一種の工人集団であった。 あの、「ものづくり」です。
(梅原) 墨子は「ものづくり」ですか。そして孔子は葬式屋であると。



               よみがえる古代の葬送儀礼集団「原儒」


孔子の母はシャーマンであり、その母親に影響された孔子のグループは葬送儀礼を何よりも重視しました。その「原儒」の思想が海を渡って弥生時代の九州に入ってきた可能性もあるのではないでしょうか。
そもそも、方相氏が「原儒」であった可能性は高いと思います。
シャーマンといえば、古代日本には卑弥呼というシャーマンがいましたね。
もしかして、卑弥呼シャーマニズムは原儒のシャーマニズムの影響を受けている?
さらに、邪馬台国はやはり北九州にあったのでは?
わたしの夢というか妄想は、どんどん膨らんでいくのでした。
最後に、城野遺跡が発掘された城野という土地は、わが社の創業の地でもあります。
これも何かの因縁なのでしょうか?
いずれにせよ、今回の大発見によって、日本の葬送儀礼文化を研究する上で北九州は最重要地域になったようです。


2010年7月24日 一条真也