生協と互助会

一条真也です。

隣人祭り・夏」を開催することになりました。
8月6日(金)・7日(土)と、北九州市八幡西区のサンレーグランドホテルで開催します。
平和紙芝居の上演、平和パネル展、各種屋台などの盛りだくさんな内容です。
メインは、世界平和を祈って2万本のロウソクの灯りをともす「ピースキャンドル」です。


               生協と互助会のコラボによる「隣人祭り


このイベントは、わが社とエフコープ生協さんとのコラボです。
エフコープ生協さんは九州最大の生協として知られていますが、冠婚葬祭互助会であるわが社とは以前から提携関係にあります。
今年1月にはエフコープ生協さん主催の講演で、わたしは講師を務めさせていただきました。演題は、「葬儀とは何か〜“あの人らしかったね”と言われるお葬式」でした。
おかげさまで、多数の生協会員さんにご参集いただきました。
わたしは、生協と互助会はともに相互補完的な存在であり、それぞれが、これから来る「ハートフル・ソサエティ」を部分的に表現していると思っています。


               生協の会員さんに向けて講演しました


「人間は社会的動物である」と言ったのはアリストテレスですが、近年の生物学的な証拠に照らし合わせてみると、この言葉はまったく正しかったことがわかります。
人間が生物学的に成功したのは、ひとえに共同体とその協力行動のおかげです。
ただしここでいう共同体とは、構成メンバーが互いに直接顔を合わせることのできる範囲、すなわち、村である。もともとは血縁関係を基本にして構成されてきたこのような共同体は、相互協力行動や相互利他行動、つまりは「相互扶助」の単位でもあります。

共同体に属さず、放浪の旅を続ける者もいます。
いわゆる「旅人」や「異邦人」ですが、こういった存在に対し、共同体の人々はいい知れぬ不安を抱きます。異邦人に対する愛や親切さを「フィロクセニア」と呼ぶます。
「隣人愛」といってもよいですが、当然ながらフィロクセニアはホスピタリティに通じます。
逆に、よそもの嫌いの感覚を「ネオフォビア」といいますが、人間誰しも本能的に持っている感覚です。チュニジア生まれの社会学アルベール・メンミは、このネオフォビアこそが人種差別の根底にある感覚だと喝破しています。
 


ところが現代の大都市というのは、こういったよそ者、旅人、異邦人が大集合してできたものです。そこには相互扶助も共同体も、そもそも存在しえないのです。
だが一方で、都市には「匿名性の快楽」とでもいうべき都会の気楽さというものがあります。匿名性の快楽は、おそらくは共同体からの拘束と表裏一体をなすのでしょう。
古今東西どんな共同体でも、無礼講の緩衝地帯とか、年二回の村祭りとか、そのためのガス抜きシステムを内在化してきました。
いかに共同体を人間の心が求めているといっても、共同体からの制約を受ける一方では息苦しくなります。だから、日常(ケ)の共同体生活を維持するためにこそ、そこからの逸脱(ハレ)が必要となるのです。そして都市とは、こういった定期的ガス抜きシステムの部分だけを肥大化させたものとも考えられます。
つまり都会の生活とは毎日がハレであり、それゆえに都会生活者は疲れるのです。
都会の長所を活かしたまま、共同体を復活させることは可能でしょうか。
かなり困難な問題だが、そこを突破しないと社会は機能しなくなってしまいます。
もちろん昔ながらの共同体を復活することはできませんし、またその必要もありません。
従来の共同体と同じ役割のものが再生できれば、それでよいでしょう。
インターネットなどの電子メディアは、ひょっとしたらその機能を代替しうるかもしれなません。考えてみれば、いろんなホームページの最後に張ってある「リンク」というシステムは、きわめて相互扶助的であると言えますね。



第二次世界大戦後、日本の企業はまさに共同体の役割を果たしてきました。
そこは、所属する人々にとって、働く場であるだけではなく、生活の場でした。
大企業であれば、住居も学校も娯楽も老後の世話も、すべて、カイシャという名の共同体が担っていました。しかし経済成長の鈍化などさまざまな理由で、企業にそれだけの力はなくなってしまいました。
倒産やリストラによって、別の共同体に移るよう強制されても、もはや戻るべき共同体は残されていません。企業共同体に身も心も捧げていたあいだに、血縁共同体や地域共同体はほとんど崩壊してしまったのです。
結局、二十一世紀における私たちの課題というのは、共同体の新しい形を構築していくことなのです。もちろん、インターネットはその可能性の一つですが、実生活においても共同体の新しい形が求められています。
 


実生活での新しい共同体像を幼稚園、小中学校、あるいは老人会などに求める人もいます。しかし、それでは年齢的にあまりにもセグメントされすぎてしまいます。
むしろ、日本では生活協働組合、そして冠婚葬祭互助会に注目するべきでしょう。
生協も互助会も、ともに「相互扶助」そのものをコンセプトとし、日本人の豊かな生活の実現を目指す組織です。
生協はモノ、互助会はサービスと提供するものは違えども、国民の豊かさに貢献する点では同じです。生協と互助会の機能をドッキングさせれば、かつての日本の「村」がよみがえってくるような気さえします。
その意味で、今度の生協と互助会のコラボによる「隣人祭り」は大きな可能性を秘めているのです。


2010年8月2日 一条真也