『俺俺』

一条真也です。

『俺俺』星野智幸著(新潮社)を読みました。
著者は1965年にロサンゼルスで生まれ、早稲田大学第一文学部を卒業後に新聞記者を経て、メキシコに留学した人です。
97年に「最後の吐息」で文藝賞、2000年に「目覚めよと人魚は歌う」で三島由紀夫賞、03年に『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞を、それぞれ受賞しています。

   
                社会の中で人が生き抜く意味とは


本書は、まことに奇妙な小説です。
第1章「詐欺」の冒頭には次のように書かれています。
「携帯電話を盗んだのは、あくまでもその場のなりゆきだった。盗んで何をするというつもりもなかった。たんに、マクドナルドのカウンター席で俺の左側にいた男が、うっかり俺のトレーに自分の携帯を置いただけのことだ。俺がトレーをあまり左に押しやっていたので、そいつは自分のトレーと勘違いしたのだろう。俺は席を立とうとするまでその紺色の携帯に気づかず、トレーを持ち上げたときに初めて見つけた。」
こんな感じで、なりゆきで他人の携帯電話を盗み、それに電話をかけてきた他人の母親を相手になりゆきでオレオレ詐欺をしてしまう主人公。
しかし、驚くべきことに、気づいたら、彼は本当にその男になってしまっていたのです。
実家には別の俺がいて、どんどん俺が増殖してゆくという摩訶不思議な世界。
読んでいるうちに、安部公房の『人間そっくり』とか眉村卓の『ぬばたまの』の世界に似ていると思いました。でも、携帯電話やマックや吉野家が登場する本書は、まさに「俺とは何か」を問う現代的な小説なのです。



読んでいるうちに、だんだん気持ちが悪くなってきます。
自然と、「自己同一性」という言葉が頭に浮かびます。
「自己同一性」は「セルフ・アイデンティティ」とも呼ばれ、心理学者のエリク・エリクソンが提唱しました。
自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保たれる概念です。
エリクソンによれば、青年期において人間は自分自身を形成していきます。
つまり、「自分とは何か」「これからどう生きるのか」「どんな職業につくべきか」「社会の中において、自分は何をすればよいのか」などの問いを通して、自分自身を作り上げていくのです。そして、「これこそが本当の自分だ」といった実感を得ることが大切です。
その実感のことを、エリクソンは「自我同一性」と呼びました。



ネタバレになるので詳しくは書けませんが、本書では主人公が自我同一性どころか自己同一性までもが壊れてしまい、最後には「俺って誰よ?」というふうにアイデンティティそのもがなくなってしまいます。
人間として、自分が誰だかわからなくなるほど怖いことはないかもしれません。
ましてや記憶喪失症とか認知症とかいうのではなく、本書の主人公はオレオレ詐欺で他人になりすましたことが原因だったのです。
他人に「なりすまし」た罪によって、自分を喪失するという罰を受けたのです。
わたしは、この小説はネット上で他人に「なりすまし」たり、匿名ブログで無責任な言説を垂れ流している者たちへの警告の書ではないかと思いました。



本書の最後に書かれた次の一文が心に沁みます。
「時代が違うから俺たちには関係ない、なんて思っちゃいけない。これは他人事じゃない。おまえたちが忘れたとたん、おまえたちもたちまち俺俺になっちまう。俺俺は、おまえたちが現在や昔を見ないようにして忘れちまうことを、こっそり待っている。だから、頼む、覚えておいてくれ。そして自分たちが誰だか、忘れないでくれ。」
本書は、「人間とは何か」「人間関係とは何か」、そして「社会とは何か」を読者に突きつける問題作であると思います。


2010年8月12日 一条真也