『月面上の思索』

一条真也です。

『月面上の思索』エドガー・ミッチェル著、前田樹子訳(めるくまーる)を読みました。
著者は、非常に有名な元・宇宙飛行士です。
これまでに12人の宇宙飛行士が月世界を歩きましたが、その中の1人です。
1971年1月、アポロ14号による月ミッションで、ミッチェルは月着陸船の操縦士という大任を果たし、人類史上6番目に月面を歩いた人間となりました。本書は、彼の波乱万丈の自伝であり、人類の過去と未来に思いを馳せる思索の書です。


               アポロ14号宇宙飛行士の思索の旅


わたしが三度の飯より月が好きなことを御存知の方も多いと思います。
そんなわたしにとって本書はきわめて興味深い内容で、400ページを超える大冊ながら2時間ちょっとで一気に読めました。
著者のエドガー・ミッチェルは、月面に立った宇宙飛行士の中でもユニークな存在として知られています。なぜなら、彼は月面上でエピファニー(突然の悟り)、すなわち神秘体験をし、地球に帰還後は超能力の研究者となったからです。また、UFO問題の世界でも発言を繰り返し、米国政府はUFOに関する重大な情報を隠蔽していると主張し続けています。しかし、本書でわたしの心を最もとらえたのは、書名にもあるように彼が月面上で何を思索したかという部分でした。
本書の冒頭を、ミッチェルは次のように書き出しています。
「1971年1月、私は宇宙船に搭乗して、素晴らしく透きとおった、空気のない世界へ行った。そこは不毛な灰色の土地、そして地平線はいつも見かけよりももっと先にある。無音だけを知っている静止状態の世界だ。その世界の風景の中に立つと、人間の視点は変わってしまう」


月面でエドガー・ミッチェルは何を体験し、何を感じたか。
本書には、以下のような彼の言葉が紹介されています。
「突然、月の縁の向こうから、一瞬ではあったが、かぎりなく深い壮麗さを湛えた、長く、ゆっくりとした動きがあった。その瞬間が延長していくように感じられた後、ブルーとホワイトのきらめく宝石、繊細で優美な空色の球体がゆっくりと渦を巻く白いレースのヴェールをつけて、漆黒の神秘の深海に小さな真珠のように、静かに昇ってくる姿を現した。これが『地球』だとわかるまでにどれほどかかったろうか――ふるさと」
現在のわたしたちは、「かぐや」のハイビジョンカメラが捉えた「ふるさと」の映像を簡単に見ることができます。月面に昇る「満地球」の姿は、あまりにも感動的です。ミッチェルは、「私の目に映ったわがふるさとの惑星は、神性の閃きだった」と述べています。


それから、ミッチェルたちは地球に帰還します。彼は次のように語っています。
「帰郷する24万マイルの宇宙空間を航海中、星や、そこから私がやってきた惑星を凝視していたとき、何の前触れもなく、私は宇宙を知力のある、愛しい、心安らぐ存在として経験した」
「地球へ帰還するあの3日の旅程で私が経験したことは、宇宙の“結合性”(ユニティ)という圧倒的な感覚に他ならない。調和のエクスタシーについて書かれてきたことを、私は実際に感じた。私の身体の分子と宇宙船自体の分子は、天空で燃えていた古代の星のひとつ――溶鉱炉――で、いつでも使えるようにずっと前に生産されたのだという考えが私に起こった。そして宇宙航海者としての私たちが存在していることも、また宇宙自体の存在も偶然ではなく、知的なプロセスが働いているという感覚があった。私は宇宙を、ある意味で意識体として感知した。この考えは巨大すぎてその場で言い表わせないように思えたが、今でもおよそ表現することは不可能だ。たぶん私がそこからつかんだもののすべては理解の深まりであり、それについてのもっと的確な表出手段であったのかもしれない。だがエピファニーの最中でも、私は神秘的または超俗的な理由づけをこの現象にあてはめたりはしなかった。むしろ、脳が自発的に情報を再組織して、あれほど異様なまでに奇妙な経験を起こし得ることに好奇心と興奮を覚えたのである」


さらにミッチェルは、「私たちは技術者として月へ行った――そして、人道主義者として帰郷した」と述べていますが、その背景には次のような思索がありました。
「宇宙人の観点から地球を眺めたことのあるわずかな人間は増加しつつあり、私はその一人である。天空には上下や東西はない。地球は、輝く天体をちりばめた広大無辺の虚空のただなかに存在する、美しいブルーのほんの一点にすぎない。私たちはこれら天体のたったひとつに住んでいる。私たちの知っているかぎり、もっとも整った天体のひとつである。天空からの眺めでは、1971年に地球は平和で調和しているように見えたが、すべてが見えたとおりでなかったことは言うまでもない。人間の生存さえ脅かす対立が下方に隠れていたのである。私たちが生命として知っているものを一瞬の通告で抹殺してしまう準備ができていたし、人びとの知らない環境危機が潜んでいたりした。菌類のように繁殖するこれらのジレンマに共通の根源は、相矛盾する古びた欠点だらけのイデオロギーとドグマであり、そのルーツは古代に遡ると私は考えている」



ミッチェルは、人類が進化する上できわめて重要な側面は、“内観の度合い”であると考えます。そして、その発展は紀元前6世紀頃、ほとんど同時に生きていたにもかかわらず互いの存在を知らなかった3人の人物によって起こったといいます。
彼らは、存在することの神秘について、それぞれ独自に熟思黙想しました。
その3人とは、仏教の開祖である古代インドの釈迦、古代ペルシアのゾロアスター、そして古代中国の老子です。彼らは相互関係を持たずに研究していていましたが、ミッチェルによれば、3人の聖人はマインドと存在の本性について、批判的、内観的、分析的な思想を記録した最初の例だというのです。
いわば、釈迦、ゾロアスター老子は「人類最初の宇宙人」なのかもしれません。この時代までの人間は厳しく内観することを知らなかったとして、ミッチェルはこう述べます。
ネアンデルタール人の洞窟に残された埋葬儀式の遺物は、死後の生命の過程に対する関心を示した最古の証拠である。彼らの言語は充分に高度化していなかったから、十万年前には意味のある程度に内観的な話を交わすことはできなかった。だが突然、紀元前六世紀初頭から、このよくある現象が全世界に起こったのである。四つの異なる文化――中国、インド、ペルシア、ギリシア――が一斉に、それぞれ異なる結論に達して人間の精神的属性の異なる面を強調しながらも、人間の本性と精神の役割について似たような知的対話に参加しはじめた。まるで世界中の人の意識が、にわかに好奇心と理解の新しい出発点を展開させたかのようだった」



ミッチェルは、紀元前6世紀の四大文化の中で、人知を超えた神秘経験の解釈あるいは意味が変化したと指摘します。神秘経験の無批判な承認から調査、分析、理解へと変わり、そこから哲学が出現したというのです。
「中国の老子、インドの釈迦、ペルシアのゾロアスターギリシア初期の哲学者の影響下で、批判的な分析が根づいた。彼らは互いに数十年以内の差で、内的経験の性質について独自に探求しはじめた。象の尾、脚、耳、鼻を調べている四人の目の見えない男の寓話のように、それぞれの文化は全体の異なる面を強調したものの、充実した人生に必要とされる美徳に関しては、驚くべき一致が見られる」
このあたりは、拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)のテーマとも重なる部分が多く、興味は尽きません。


それにしても、釈迦や老子はともかく、ゾロアスターに対するミッチェルの高い評価には注目すべきものがあります。
このゾロアスターは、かのニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』の発言者ですが、謎の哲人であり聖人です。ゾロアスターのドイツ語読みが「ツァラトゥストラ」なのですね。
また、リヒャルト・シュトラウスによる名曲「ツァラトゥストラかく語りき」もよく知られていますが、この曲はアーサー・C・クラーク原作でスタンリー・キューブリックが監督した映画「2001年宇宙の旅」のオープニングで使用されました。



ミッチェルによれば、老子のアプローチは存在全体において相互関連する仕組みを観察し、自然界の動きと自己とが調和することを重視します。また、釈迦の教えに従う者はマインドの訓練によって物質的欲望から離脱し、内的経験をコントロールすることを学びます。では、ゾロアスターはどうか。ミッチェルは、次のように述べます。
ゾロアスターは自然界での出来事の方向に影響を与えられるよう意図性の力を生かすことを学び、多大な影響力を持った信奉者を送り出した。イエスが誕生したとき、ゾロアスター教のペルシアから三人の博士(マギ)がやって来た。彼らは卓越した能力を持っていたと推定されるが、このマギという言葉から“魔術師”という用語ができたのである。ギリシアの学者たちはマインドの合理的な思考能力に焦点を当てていたが、ソクラテスもまた、アテネで高名な学者として自身の地位を確立する前は、ペルシアにあるゾロアスター教派の達人だったと言われている」



ゾロアスター教は「拝火教」とも訳されますが、誕生したペルシアでは廃れ、現在はインドの一部に信者を残すのみです。
日本におけるゾロアスター教研究の第一人者は、宗教学者の中別府温和先生です。
中別府先生は宮崎公立大学の学長でもあるのですが、じつは、わたしの家庭教師を昔やっていただいていました。高校時代に主に英語を見ていただいていたのですが、そのときの休憩時間に中別府先生からさまざまな宗教の話を聞いたことが、現在のわたしの宗教観に影響を与えていることは確実だと思います。
そして、中別府先生の話の中でも、専門であるゾロアスター教の話はきわめて魅力的な内容でした。いつか、わたしはゾロアスターについて調べてみたいです。


ミッチェルは、地球に帰還後の彼は超能力の研究に打ち込みます。特に、イスラエル生まれのユリ・ゲラーとの出会いがミッチェルの人生に影響を与えます。
本書には、ミッチェルが実際に目撃したユリ・ゲラーのさまざまな超能力が登場します。
しかし残念ながら、既存の科学を一変させる決定的な証拠は残せませんでした。
また、超能力の他にも、臨死体験や生まれ変わりなど、本書の後半はニューエージ思想のオンパレードといった観があります。
そして、きわめつきはUFOです。ミッチェルは、どうやらUFOの存在を信じているばかりか、米国政府が地球外生命についての重要情報を隠蔽していると考えているようなのです。この話題で今でもマスコミによく登場するミッチェルですが、このため彼を「トンデモさん」と見る人々も多いわけです。
超能力もUFOも、その存在を完全に否定することは誰にもできません。
しかし、わたしは超能力やUFOの話題よりも、ミッチェルが月面上あるいは宇宙空間で思索した内容のほうがずっと神秘的であり、心からワクワクさせられました。


2010年9月20日 一条真也