「無縁社会」という呪い

一条真也です。
サロンの達人」こと佐藤さんが、「無縁社会」についての示唆に富んだ提言をブログに書かれています。「『無縁社会』という言葉を使うのはやめましょう」という記事です。


                  佐藤修さんのブログ記事


佐藤さんは、次のように書かれています。
「最近、無縁社会という言葉がよく使われるようになりました。私はそのことをとても残念に思います。たしかに、一見、無縁社会であるように感じさせる事件は少なくありません。しかし、本当に無縁社会と言っていいのでしょうか。言葉は現実を説明すると同時に、新たな現実をつくりだします。そこに大きな懸念を感じています」
わたしは、佐藤さんのこの意見に全面的に賛成です。
言葉には魂が宿ります。いわゆる「言霊(ことだま)」と呼ばれるものです。
現在、葬儀の世界で一般的になってきた「家族葬」や「直葬」という言葉は、ある業界誌の編集長がつけたとされていますが、これはご本人も認めておられるように、結果として失敗だったと思います。



家族葬」は、もともと「密葬」と呼ばれていました。
身内だけで葬儀を済ませ、友人・知人や仕事の関係者などには案内を出しません。
本来、一人の人間は家族や親族だけの所有物ではありません。
多くの人々の「縁」によって支えられている社会的存在です。
ですから、「密葬」には「秘密葬儀」的なニュアンスがあり、出来ることなら避けたいといった風潮がありました。それが、「家族葬」という言葉を得ると、なんとなく「家族だけで故人を見送るアットホームな葬儀」といったニュアンスに一変し、身内以外の人間が会葬する機会を一気に奪ってしまったのです。
直葬」に至っては、通夜も告別式も行わず、火葬場に直行するというものです。
これは、もはや「葬儀」ではなく、「葬法」というべきでしょう。
そして、「直葬」などというもったいぶった言い方などせず、「火葬場葬」とか「遺体焼却」という呼び方のほうがふさわしいのではないかと思います。


               「無縁」と「有縁」を短歌に詠み込みました


さて、「無縁社会」ですが、もともと「無縁社会」という日本語はおかしいのです。
なぜなら、「社会」とは「関係性のある人々のネットワーク」という意味です。
ひいては、「縁ある衆生の集まり」という意味なのです。
「社会」というのは、最初から「有縁」なのです。ですから、「無縁」と「社会」はある意味で反意語ともなり、「無縁社会」というのは表現矛盾なのです。
どうも、「無縁社会」という言葉には、心霊番組「あなたの知らない世界」のように、無理矢理に人を怖がらせようとする意図があるように思えます。
というのも、NHKの一連の番組作りを見ていると、どうも、そこには「絶望」しかないように思えるのです。どう考えても、「希望」らしきものが見当たらないのです。
いたずらに「無縁社会」の不安を煽るだけでは、2012年に人類が滅亡するという「マヤの予言」と何ら変わりません。それよりも、わたしたちは「有縁社会」づくりの具体的な方法について考え、かつ実践しなければなりません。



たしかに、現在の日本の現状を見ると、「無縁社会」と呼ばれても仕方がないかもしれません。では、わたしたちは「無縁社会」にどう向き合えばよいのか。
さらに言うなら、どうすれば「無縁社会」を乗り越えられるのか。
わたしは、その最大の方策の一つは、「隣人祭り」であると思います。
隣人祭り」とは、地域の隣人たちが食べ物や飲み物を持ち寄って集い、食事をしながら語り合うことです。都会に暮らす隣人たちが年に数回、顔を合わせます。
わたしは、「隣人祭り」によって、無縁社会を有縁社会にしたいと強く願っています。
現在、わが社は「隣人祭り」を含む隣人交流イベントを年間300回開催しています。
おそらく日本で最も多く隣人交流イベントの開催をしているのではないでしょうか。



先日のNHK「無縁社会」特集番組には、内閣府参与の湯浅誠氏が出演していました。
湯浅氏は、「もう血縁や地縁に期待するのは無理なので、日本人は新しい縁を探さなけれなならない」といったような発言をされていたと記憶しています。
たしかに、今後は趣味の縁である「好縁」や、ボランティアなどで志をともにする「道縁」などの存在が重要になってくると思います。しかし、それよりも、まずは崩壊しかかっている「血縁」や「地縁」を再生することが最優先なのではないでしょうか。
わたしたちは、「血縁」や「地縁」をあきらめてはならないのではないでしょうか。
第一、本当に「血縁」や「地縁」が消滅してしまった民族や国家など、それこそ存在している意味がありません。そのように、わたしは思います。
「遠い親戚より近くの他人」という諺があります。でも、孤独死や無縁死を迎えないためには「遠い親戚」も「近くの他人」もともに大切にしなければなりません。
そのための冠婚葬祭であり、隣人祭りであると思っています。
いま、あらゆる縁を結ぶ「結縁力」が求められているのではないでしょいうか。



ブログ「自殺フォーラム」で紹介したフォーラムでも、わたしは「有縁社会」について発言しました。そのとき、わたしは「ゆうえん」社会と言ったのですが、その後、佐藤修さんから「うえん」社会という読み方が一般的ではないかとの指摘を個人的に受けました。
「有縁社会」には二通りの読み方があることは知っていました。
でも、わたしは社員への訓話とか講演などで話す機会が多いのですが、「うえん」では「迂遠」などと勘違いされる恐れがあります。
さらには、あろうことか「むえん」と聴き間違えられることもあり、わざと「ゆうえん」と言っていました。これなら、一発で意味がわかります。



おそらく、「うえん」と読んでいる人には仏教関係者が多いのではないでしょうか。
もともと「無縁」も「有縁」も仏教用語ですが、僧侶には訓読みにするという習慣があるようなのです。一般的に「ちょくそう」と読まれている直葬をわざわざ「じきそう」と読んだりすることなどが好例です。もしかしたら僧侶の世界では、「音読みするのは俗人」という考え方があるのかもしれません。
ブログ「44周年創立記念式典」に書いたように、昨日、わたしは次のような短歌を詠みました。「人はみな無縁にあらず 人の世を有縁にするはわれらのつとめ」
この短歌では字数の関係もあり、「ゆうえん」ではなく、「うえん」と呼びました。
やはり、短歌の場合は「うえん」のほうがしっくり来ますね(笑)。

 
                   「呪い」と「祈り」の法則とは 


いずれにしろ、言葉の問題は非常に重要です。
なぜなら、言葉は「呪い」にもなり、「祈り」にもなるからです。
昨日、「暴力装置でもある自衛隊」というとんでもない暴言がありました。
わたしは、「暴力装置」という言葉は、「無縁社会」と同じく「呪い」だと思いました。
いま、言葉が「呪い」として使われることの何と多いことか!
そして、内閣の中枢にいる官房長官が「呪い」を発してよいのか!
わたしは、自衛隊とは「平和装置」であると思っています。
言葉は実体化します。それが「引き寄せの法則」というものです。
詳しくは、拙著『法則の法則』(三五館)をお読み下さい。「呪い」と「祝い」についても説明しています。ちなみに三五館からは、もうすぐ、「隣人祭り」や「有縁社会」についての著書を刊行する予定です。お楽しみに!
暴力装置」というのは、呪いです。「平和装置」というのは、祈りです。
無縁社会」というのは、呪いです。「有縁社会」というのは、祈りです。
わたしたちが迎えるべき社会は、もちろん、有縁社会です。


2010年11月19日 一条真也