死は最大の平等

一条真也です。

NHKドラマスペシャル「坂の上の雲」の第7回「子規、逝く」を観ました。
香川照之演じる正岡子規は、子規は寝たきりの自分の世界を「病牀六尺」と呼び、そこから日常の出来事や 感想などを新聞「日本」に連載しました。
子規は、新しい俳句の創造をめざして、その生のギリギリ限界まで奮闘しました。
しかし、ついには、母、妹、そして愛弟子・高浜虚子のいる家で息絶えました。



およそ、子規ほど壮絶な生を生き抜いた人は、そうはいないでしょう。
『病床六尺』を読むたびに、わたしは胸がしめつけられるような思いがします。
本木雅弘演じる秋山真之は、海軍大学校で戦術を教えていましたが、東京・根岸の「子規庵」で病床に伏す子規を訪ね、病と闘う子規の姿に感動します。
郷里・松山の幼なじみである真之の訪問に喜ぶ子規は、広い海で活躍する帝国海軍の軍人も、狭い病床で寝たきりの自分も、ともに平等であると述べます。どちらも、「ちっぽけな命」を持っている者同士であるというのです。となると、ちっぽけな命を持った人間がこの世を卒業してゆく「死」もまた平等です。真人は、明治文学界の巨人であった子規のささやかな葬儀に出向き、その墓参りをしました。映画「おくりびと」で主演し、世界中の人々から喝采を浴びた本木雅弘さんの亡き親友を悼む演技に、感動しました。



今夜のドラマで子規の臨終の場面を観ながら、「死は最大の平等である」というわが社のテーゼを思い起こしました。そう、わたしは、この言葉をよく使います。
箴言で知られるラ・ロシュフーコーが「太陽と死は直視することができない」と語ったように、太陽と死には「不可視性」という共通点があります。
わたしは、それに加えて「平等性」という共通点があると思っています。
太陽は、あらゆる地上の存在に対して平等です。
太陽光線は、美人の顔にも降り注げば、犬の糞をも照らすのです。
わが社の「サンレー」という社名には、万人に対して平等に冠婚葬祭を提供したいという願いを込め、「SUNRAY(太陽光線)」という意味があります。
「死」も平等です。「生」は平等ではありません。生まれつき健康な人、ハンディキャップを持つ人、裕福な人、貧しい人・・・・・「生」は差別に満ちています。
しかし、王様でも富豪でも庶民でも乞食でも、「死」だけは平等に訪れるのです。
世界の海を軍艦で疾走した軍人も、狭い病室で息絶えた俳人も、平等に死ぬのです。 



子規の臨終の夜は、満月だったそうです。
原作でも、ドラマでも、蛍のような子規の人魂がすーっと夜空の満月に向かって昇ってゆくという場面がありました。まるで、「月への送魂」そのもののようなシーンでした。
その場面は高浜虚子が目撃しており、彼は「子規逝くや 十七日の 月明に」 という句を残しています。明治35年(1902)9月19日の夜中のことでした。
このように、太陽も月も、ともに「死の平等性」と深く関わっています。
そして、もうひとつ、太陽と月と関わりの深いものがあります。それは「雲」です。
絵画や詩といった芸術作品を見ればよくわかりますが、太陽も月も、かたわらに雲があってこそ荘厳となり、美しくなります。
つまり、雲には太陽や月の存在感を際立たせるという、重要な役割があるのです。



その「雲」を描いた壮大な物語が、司馬遼太郎の『坂の上の雲』です。
富国強兵策のもと、息せき切って先進国に追いつこうと奮闘努力した時代、明治。
この物語は、遅ればせながら近代国家の仲間入りを果たした日本にあって、文と武のそれぞれの世界で大きな足跡を残した正岡子規秋山好古、真之兄弟の3人を中心に、昂揚の時代に生きた群像を描いた大河ロマンです。
正岡子規は、短い人生ながら、俳句の革新運動をやった人です。
秋山好古は、日本の陸軍の騎馬軍団をつくった人です。日露戦争で、世界最強のコサック騎馬隊を向こうに回して少数ながらも戦い、勝ちを制することはできなかったが、負けなかった日本の陸軍機動隊の最高指揮官です。
その弟の秋山真之は、日本連合艦隊の参謀で、日露戦争の海戦において、海軍の戦略・戦術を全部まかされた人です。彼の作戦で、バルティック艦隊と太平洋艦隊というロシアの2つの大艦隊を全滅させ、日露戦争を勝利に導いた軍事的天才です。
とにかく日露戦争は、世界史に残る奇跡の戦争でした。
当時のロシア軍は世界最強の軍隊であり、日本海海戦はそれまでの人類最大の海戦、さらに奉天の戦いは世界最大の陸戦でした。



司馬遼太郎によれば、その奇跡が起こったのは、何よりも明治人たちに徹底的な楽天主義があったからでした。明るい未来を信じて、前に進むしか道がなかったのが明治という時代でした。司馬は、『坂の上の雲』のあとがきにこう書いています。
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」
日露戦争で奇跡の勝利を得た日本は、その成功体験が仇となりました。アジアの国として初めてヨーロッパの強国の一角を崩し、せっかく坂をのぼって見晴らしのいい場所に出たのに、その後、坂道を転げ落ちるように太平洋戦争における敗戦へと向かいます。
日本史上初の敗戦はまさに明治維新にも匹敵する社会の大変革であり、その後、再び坂の上の白い雲をめざした日本人は奇跡の経済復興、そして高度成長を果たします。
まさにこの2度目の坂を登る時期に書かれた『坂の上の雲』は多くの楽天家たちの心をつかみ、彼らはさまざまな「プロジェクトX」に果敢に挑戦していったのです。



残念ながら、現在の日本は「第二の敗戦」などといわれ、政治も経済も諸外国のなすがままで、まったく活気がありません。坂の底もいいところで、見晴らしは最悪です。人々の心にもどんよりとした悲観主義があるようです。
今こそ、もう一度、天を見上げて白い雲をさがさなければならない。そして、勇気を出して坂を登って行かねばならないのではないでしょうか。日本という国家だけではありません。わたしたち個人もまた、自分なりの白い雲を見つけなければなりません。
その白い雲を「希望」と呼ぶか、「信念」と呼ぶか、または「人生の目的」と呼ぶか、それは各人の自由です。しかし、そういった坂の上の雲を持たずに送る人生など、なんと空しいものでしょうか。そのように、わたしは思います。
人生は白い雲をめざして歩く旅のようなものです。芭蕉は「道祖神のまねき」にあって、取るもの手につかず、奥の細道の旅へと出発しますが、わたしたちはみな、自分だけの白い雲をめざして人生という旅を続けてゆきたいものです。



しかし、人間というのは坂をのぼるだけではありません。
その峠をすぎて秋風の中をゆっくりと坂道を谷底に向かってくだってゆくときもあります。
木登りでも登山でも、「のぼり」より「くだり」が大事と言われますが、人生もまったく同様で、坂をくだる老年期というものが非常に大切なのです。
そして、坂をくだってくだってくだりきったとき、わたしたちは再び雲に出会います。
ただし、その雲の色は白ではなく、この上なく高貴な紫色です。
わが社の「紫雲閣」というセレモニーホールの名前は、仏教の「紫雲」に由来します。
辞書を引くと、紫雲とは「紫色の雲。めでたい雲。念仏行者の臨終のとき、仏がこの雲に乗って来迎するという」と出ています。つまり、わたしたちが死ぬときに極楽浄土から迎えにきてくれる仏様の乗り物が紫雲なのです。



もともと、「来迎」という考え方は浄土教に由来します。五色の雲に乗った阿弥陀仏が、人の臨終の際に、二十五菩薩を引き連れて迎えにくるという華麗な来迎幻想。
それは、死後もなお現世の享楽を維持したいという貴族や、現世では得られなかった至福の時を得たいと願う民衆の魂を魅了しました。彼らは、死に臨んで念仏を唱え、来迎図に描かれた阿弥陀の手と自分の手を糸で結びました。
来迎を待つ者を、親鸞は「いまだ信心を得ぬもの」と否定しました。宗教的にはそのとおりかもしれませんが、人は夢を見たいものです。死後への幸福なロマンを抱くということは、「ホモ・フューネラル」である人間の本能であると思います。



死は最大の平等」であり、紫雲こそは平等の乗り物です。人生という旅が終わるとき、すべての人のもとには紫の雲に乗った仏様が迎えにくるのです。
わたしは紫雲閣において、そのお手伝いをさせていただきたいと願っています。
人が亡くなっても「不幸があった」と日本人が言わなくなる日を信じて、わたしにとっての坂の上の雲をめざしてゆきたいと思います。


坂のぼる上に仰ぐは白い雲  旅の終わりは紫の雲  (庸軒


2010年12月12日 一条真也