ライバルについて

一条真也です。

今日、冠婚葬祭互助会の同業であるベルコの齋藤斎社長が北九州を訪れました。
そして、サニーライフの大西孝英社長とともに松柏園ホテルに来られました。
そこで今夜、わたしが加わった3人で松柏園で食事をしました。



ブログ「全互協忘年会」に書いたように、ベルコの齋藤社長は全互協の副会長を務められ、わたしと同い年です。わたしの著書を愛読していただき、このたび『葬式は必要!』(双葉新書)と『最期のセレモニー』(PHP研究所)を500冊づつ購入して下さいました。
また、サニーライフの大西社長も同年代で、わたしが4年間にわたって全互協の九州ブロック長を務めたとき、よくサポートして下さいました。現在も、広報・渉外委員会の委員として、委員長であるわたしを支えて下さっています。



ベルコさんもサニーライフさんも、わが社のホーム・グラウンドである北九州市で冠婚葬祭業を展開しています。北九州市は、日本における冠婚葬祭業の最激戦地として知られているのです。ですから、両社ともサンレーのライバルということになります。
ライバル会社の社長を2人も自社の施設に呼んで食事を共にしたということを驚く人もいるかもしれません。しかし、わたしにとっては何ら驚くことではありません。
なぜなら、経営においても人生においてもライバルの存在というものは絶対に必要だからです。ドイツの哲学者ニーチェは「汝の敵には嫌うべき相手を選び、軽蔑すべき相手を決して選ぶな。汝は汝の敵について誇りを感じなければならない」と言い、フランスの詩人ヴァレリーは「われわれの敵はわれわれに活気をつけてくれる」と語りました。どんな世界にしろ、一流になるためには尊敬できるライバルの存在が不可欠です。
会社においても、手ごわい競合他社があってこそ、初めて強くなることができます。



今夜、3人でいろんな話をしました。
ブログ「裸の島」で紹介した、日本映画の名作の話もしました。
齋藤社長は、『葬式は必要!』を読んで「裸の島」の存在を知り、非常に感動されたそうです。わたしも、「裸の島」ほど、葬儀の必要性を見事に描いた映画はないと思います。
ぜひ、「裸の島」をリメイクしないかという話で盛り上がりました。
いま、「手塚治虫ブッダ」をサポートする件で東映、またCM製作の件で電通と付き合いがありますが、両者と相談してみてはどうかという意見も出ました。
「裸の島」の新藤兼人監督は100歳近いながらも健在です。
ぜひ、「裸の島」のリメイクを作って、冠婚葬祭業界をあげて盛り上げていければ素晴らしいと思います。ちなみに、オリジナルでは殿山泰司乙羽信子が夫婦を演じましたが、リメイク版では吉岡秀隆中嶋朋子の「北の国から」コンビ、あるいは堺雅人松たか子の実力派コンビなど面白いのではないでしょうか。



それから、3人で日本の戦国時代の話などをしました。
齋藤社長は、織田信長にとても関心があるようです。「もし信長が本能寺の変で死ななかったら、日本はどうなっていたか」という話で盛り上がりました。
齋藤社長は、「もちろん鎖国はなく、日本は産業革命をいち早く起こしていたかもしれない」と述べていました。大西社長は、「鎖国が行われないことによって、日本は清帝国の属国になっていたかもしれない」と言われていました。
わたしは、信長が接触したイエズス会の罠にはまり、日本はヨーロッパの植民地になっていたかもしれないと言いました。また、信長は「天下布武」の人だけれども、自分は「天下布礼」をめざしたいと心の中で思いました。それは、非常に充実した時間でした。



日本の戦国時代といえば、上杉謙信武田信玄と14年にわたって戦いました。
合戦さなかに信玄の死が伝えられると、謙信は食べていた箸を取り落として「敵中の最もすぐれた人物」を失ったとさめざめと泣いたといいます。
そして、家臣たちが「今、武田を撃てば勝てる」と浮き足立つのを、「人の落ち目を見て攻め取るのは本意ではない」と戒めたそうです。
この謙信は、川中島で何度も激闘を繰り広げた信玄に対して終始気高い見本を示したことで知られます。信玄の領地は、海から隔たった山間の甲州でした。
彼は塩の供給を東海道の北条氏の所領に仰いでいました。
北条氏康はそのころ、あからさまに信玄と戦っていたわけではありませんでしたが、信玄の勢力を弱めたいと願っていたので、この重要な物資の供給を断ってしまいました。
謙信はその敵である信玄の窮状を聞き、自領の海岸から塩を得ることができるので、これを商人に命じて価格を公平にした上で分けてやりました。
あまりにも有名な「敵に塩を送る」の故事ですね。



謙信はもともと熱心な仏教信者でしたが、それだけに大将としての権謀術数ぶりもさることながら、戦い方は情け深く公平で、相手の非に付け込まなかったといいます。
それはまさに、江戸時代に確立する武士道の源と言えます。
かの徳川家康も、敵である信玄が陣中に没したと聞いたとき、「まことに惜しい人を亡くしたものだ。信玄は古今の名将で、自分は若い時からその兵法を見習ってきた。いわば私の師とも言える。その上、隣国に強敵があれば、政治でも軍事でも、それに負けないようにと心がけるから、自分の国もよくなる。そういう相手がいないと、つい安易に流れ、励むことを怠って弱体化してしまう。だから、敵ではあっても信玄のような名称の死は、まことに残念であり、少しも喜ぶべきことではない」と家臣に言ったそうです。



家康といえば「海道一の弓取り」と言われたように、戦の名手で、ほとんど戦って負けを知らない武将でした。秀吉でさえも、小牧・長久手の合戦では、局地戦において一敗地にまみれています。その家康にして完敗したのが武田信玄でした。
三方ヶ原の合戦がそれで、両軍の軍勢にも差があったとはいえ、名人芸のような信玄の戦いぶりの前に、善戦むなしく家康自身が九死に一生を得るといった姿で打ち破られました。その直後に強敵が突然に死んだわけで、手を打って喜びたいところです。
しかし家康は、そんな目先のことではなく、もっと大きな観点から、信玄を自分の真の実力を鍛えてくれる師ととらえ、だから信玄のような相手がいてくれることが、自分の長久の基礎を作るためには必要だと考えたわけですね。



信玄という武将、よほど敵からも一目置かれていたようですが、彼について詳しく描いた『甲陽軍艦』には、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」とか「人の使いようは、人を使わず、わざをつかう」などの有名な語句とともに「敵の悪口はいうな」が信玄の言葉として紹介されています。
なぜ、敵の悪口を言ってはいけないのか。敵とはそもそも相容れない相手であって、ののしりあうのは当然とまでは言わないにしても、いたしかたないのではないか。
そこには、まず、敵をののしることで相手を憤慨させ、逆に相手を強大化させてしまうといけない、という計算も含まれているかもしれません。しかし、その根本には、信玄と謙信の間にあるような互いへの尊敬の念こそが、武士の戦いには必要であると考えていたのではないでしょうか。



また信玄の日頃のそういった考え方が謙信の心に届き、塩の一件や、信玄死去の際の慟哭につながったように思います。
徹頭徹尾、フェアプレイ精神に生きた謙信に比べ、家康はその晩年に代表されるようにアンフェアな印象があります。
「国家安康、君臣豊楽」の文字を徳川家への呪いの言葉とした方広寺梵鐘の鐘銘事件は前代未聞の言いがかりですし、それによって大坂冬の陣を強引に起こしました。
大坂方との和解によって冬の陣が終わった後も、詐欺まがいの手口で大坂城の内堀を埋めたところなど、当時の家康はまるで暴力団の親分そのものです。
しかし、その家康でさえ、信玄の日頃の考え方には敬意を表していました。
後の徳川幕府において儒学が取り入れられ、武士道が完成するが、それには信玄の思想も影響していたのではないでしょうか。
また家康は、大坂冬の陣に続いて大坂夏の陣を仕掛け、ついに豊臣家を滅ぼしました。そのとき、大坂方の真田幸村軍は一人も降参せず壮烈な最期を遂げました。
幸村の首実験を行なった際、居並ぶ武将たちの前で家康は敵である幸村を褒めたたえ、その頭髪を抜いて「幸村にあやかれよ」と武将たちにとらせたといいます。



わたしは、以前、「競合他社についての短歌」を詠みました。
「転ばずにひたすら前に進むため気を張れるのも敵のおかげよ」という歌です。
わたしは、たとえライバル会社であっても良い点はどんどん素直に学ぶことを心がけています。また、つねづね社員にもそう訴えています。
さらに、どんなにいわれのない誹謗中傷を他社から受けても、法的手段に出ることはあっても、絶対に相手の悪口は言わないように決めています。
そんな会社はいずれ自滅することがわかっているからです。



今夜は、2人の同業の社長さんをお招きし、おいしいお酒を飲むことができました。
業界を良くするための話も大いにさせていただきました。
やはり、同じ仕事に就いているという「職縁」は強い絆だと痛感しました。
齋藤社長、大西社長、今夜は有意義な夜でした。
これからも、正々堂々と戦いましょう!
今後とも、どうぞ、よろしくお願いします。


2011年1月28日 一条真也