『強く生きるために読む古典』

一条真也です。

宮崎県の延岡市に来ています。
今日は、延岡市および日向市に新設する紫雲閣の用地を視察しました。
現在、宮崎県といえば鳥インフルエンザが騒がれています。
しかし、宮崎の地鶏炭火焼とチキン南蛮を食しましたが、美味しかったです。
さて、『強く生きるために読む古典』岡敦著(集英社新書)を読みました。


                 「武器」と「仲間」としての古典


著者は学生時代は新左翼の活動家でしたが、その後、イラストレーターとして活躍し、雑誌編集者を経て、現在は文筆家です。
本書は、ウェブマガジン「日経ビジネスオンライン」(日経BP社)の連載コラムからいくつかの文章を選んで作られたそうです。



本書のカバーの見返しには、次のように書かれています。
「高校三年で肉体労働の現場に転がり込んだ著者は、一冊の古典を読む。ヘーゲルの『小論理学』だ。その哲学書は、日々の土木作業で疲れ切った若者に『未知の地平にジャンプするための勇気』を教えてくれた。
正しい理解を目ざすのではなく、自分が生き延びる助けになるように本を読む。そのとき、難解・重厚と思われた古典は、人生を戦うための武器となり、仲間となる。いわば、生きるための読書だ。その実践記録である本書は、『未読の古典にチャレンジするための勇気』を私たちに与えてくれる」
たしかに、本書は生き延びるために読むべき本を紹介する異色のブックガイドとなっています。著者は、自分自身のことを「できそこない」と表現します。



そんな自分の読み方には強いバイアスがかかり、読みが浅いと分析します。
あるいは反対に、どうでもいい細部に過剰な読み込みをするともいいます。
「ぼくの理解や解釈を聞けば、笑い出す人もいるに違いない」と謙遜する著者ですが、わたしは本書を一読して、著者の読みの深さと内容の説明力に驚きました。どんな難解な古典でも、著者の手にかかると、とても内容がわかりやすく理解できるのです。



たとえば、「はじめに」には、マルクスの『資本論』第一部第一篇第一章の冒頭が次のように紹介されています。
「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる」(岡崎次郎訳)
非常に難解な文章ですが、ここでマルクスは「〜として現われる」と書いています。
そして、その「現われ」を前提にして、話を進めようとしています。
同じように文末に注意して第一章を読んでいくと、「〜として現われる」「〜のように見える」「〜として表現される」といった書き方がたくさん出てくることに著者は気づいたといいます。著者は、「なぜマルクスは、そんな書き方をするのだろう」と疑問に思います。
亡命中のマルクスはいつも無理解に悩む少数派であり、おそらく周囲の誰とも話が噛み合わなかったと推測されます。
ですから、「資本主義とは、コレコレこういうものだ!」と自分固有の考え方を直球で相手にぶつけるような言い方はしませんでした。
それは一瞬の爽快感をもたらしこそすれ、和解不能の意見の相違を浮き彫りにして、後には埋めようのない断絶を残すだけです。
そこでマルクスは、ひとまず自分の主張を控えます。心の底では納得などしていませんが、周囲の見方や意見を「とりあえず」認めて、「わかった、資本主義社会の中で生きるあなた方の目には、事態はこのように見えているのですね」と話の口火を切り、「ということは、こういう理屈で成り立っているわけですね。だとしたら、やがてこういう困ったことになっていきますよ」と話を進めていくのです。著者は、次のように述べています。「まず周囲の人々の見方に乗り、その延長上で矛盾を明らかに示し、最終的に否定する。断絶を避け、周囲に合わせながら、ついには自分の意見を納得してもらうのだ。
これが話が通じない相手と、なおも対話を進めるためのマルクスの方法だ。
資本論』は、もちろん経済学の古典だが、ぼくは勝手に『意思の疎通が難しい状況での対話の進め方』を教わっているのである」



本書には、10冊の古典が取り上げられています。
プルーストの『失われた時を求めて』、レヴィ=ストロースの『野生の思考』、ドストエフスキーの『悪霊』、マンスフィールドの『園遊会』、ヘーゲルの『小論理学』、カミュの『異邦人』、法然の『選択本願念仏集』、カフカの『城』、マルクス・アウレリーウスの『自省録』です。その中で、たとえば、『野生の思考』の読み方を見てみましょう。
いわゆる「未開」の民族はけっして幼稚で頭が悪く、科学的な考え方などできないと長く思われてきましたが、それに異を唱えた本です。
彼らには、「野生の思考」があり、彼らなりの科学的考察を行っているというのです。
レヴィ=ストロースは、その「野生の思考」に特徴的な方法を「ブリコラージュ」と呼び、次のように書いています。
「神話的思考〔=野生の思考〕の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手もとには他に何もないのだから。したがって神話的思考とは、いわば一種の知的な器用仕事(ブリコラージュ)である」(大橋保夫訳)
ブリコラージュはの意味は、フランス語の辞書を引くと「日曜大工」となっています。
でも、レヴィ=ストロースは、「出来合いのものを組み合わせて、ひとつの秩序ある構造(=単なる寄せ集めではないもの)を作りあげること」として使っています。
これは別に難しい話ではなく、日常生活の中で誰でもやっていることです。
例えば、布の切れ端を縫い合わせてコースターやバッグを作ったり、「パンクファッション」として安全ピンやチェーンを装身具として使うことも立派なブリコラージュです。



著者は、さらにユニークな例をあげて、西洋近代科学とブリコラージュとの方法の差を際立たせます。ここに、近代科学者とブリコルール(ブリコラージュする人)がいるとします。この2人がエプロンをつけ、料理を始めたらどうなるか。2人の手順は、どのように異なるのでしょうか。著者は、次のように2人の料理法について書いています。
「近代科学者は、カレーを作る計画を立てる。彼は、まず材料をリストアップするだろう。鶏肉、タマネギ、ターメリック、クミン・・・・・。マーケットへ行き、一から材料を手に入れていく。そして、彼の頭の中にあった当初のプランどおりに加工しようとする」
「ブリコルールは違う。彼は近代科学者と異なって、頭の中でプランを立てる前に、まず冷蔵庫を開けてみるだろう。すると、昨夜の残り物、肉ジャガが少しあった。お、カレーのルーも少しだけあるな。冷凍うどん、これは一玉ある。
ならば、とブリコルールは肉ジャガを温めて、それにカレーのルーを加えるだろう。うん、カレーライスには足りないが、ゆでたうどんにかけるには十分な量になったぞ。少し甘めのカレーうどんができた!」
こんなふうにブリコルールは、バラバラの残り物を組み合わせて、新しい一品を作りあげるというのです。著者は、ここで注意すべき点として、「ひとつのものの使い回し」や「流用」がポイントではないと述べています。そうではなく、雑多なもの、残骸、ガラクタの単なる寄せ集めでしかなかったものから、「ひとつの構造のある全体、ひとつの意味ある秩序を作りあげること」がポイントであるというのです。
わたしは、著者の「ブリコラージュ」の説明に感心しました。
これほど、わかりやすいレヴィ=ストロース入門は初めてです。



その著者の説明上手ぶりは、ヘーゲルの『小論理学』においても発揮されます。
ヘーゲルは、対話をモデルとした思考法である「弁証法」で知られます。
わたしも大のヘーゲル・ファンなのですが、著者も「ヘーゲル弁証法は役に立つ、と思う。しかも、スケールが大きくておもしろい」と述べます。
なぜなら、それは「対話をモデルとした思考法」でありながら、さらには「(対話の進展に似ている)物事の変化・発展の法則性」をも指しているからだというのです。



ヘーゲル弁証法の特徴は、思考や物事の発展を三段階、あるいは三項図式でとらえることです。たとえば、次のように。
(1)ひとつの意見がある。
(2)その反対意見が出て、対立する。どちらが正しいか迷う。
(3)対立する意見を統合して、第三の、より優れた意見になる。
これが(1)→(2)→(3)と進展していきます。



その各段階で出される意見を「正・反・合」、あるいは「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」と言ったりします。これを説明するとき、著者は次のような具体例をあげます。
(1)ぼくは、目覚ましにコーヒーを飲もうと思った。
(2)しかし「健康のために牛乳を飲むべきだ」と妻に言われ、どうすべきか悩んだ。
(3)結局カフェオレにしたら、目も覚めたし、体にも良かった。
わたしは、こんなに明快な弁証法の説明を見たことがありません。感動しました!



著者は、もうひとつ、具体例をあげます。
(1)新しい仕事を始める(あるいは、新しい技術を導入する。
最初はのんきに、うまく行くと思っている。
(2)トラブル発生。批判される。
新しく始めたことは間違いだったのではないかと迷いが生じる。
(3)批判を反映して、改善する。
迷いは消えて、やっぱりこの仕事(技術)は正しかったのだと確信する。
こんな経験は、ビジネスマン&ビジネスウーマンなら誰にでもあるでしょう。
ヘーゲルは、日々働く人々にも貴重なアドバイスを与えてくれるのです。



弁証法を知りたければ、ヘーゲルの『小論理学』を読めと言われます。
タイトルに「小」がついてはいますが、やはり難解な内容であることは事実です。著者は「訳がわからない」本と表現していますが、どれほど訳がわからないか、岩波文庫版の次の一文をお読み下さい。
「無はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであるから、逆にまた有と同じものである。したがって有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が成(Werden)である」(松村一人訳)
いったい、この文章は何を言おうとしているのでしょうか。
「成とは、有と無の統一である」などと言われても、意味がわかりません。
何回読み直しても理解できなかった著者は、自分で次のような具体例を考えました。
「『おとなに成る』という例を考えてみる。今、おとなで『ある』ということは、もう子どもでは『ない』ということだ。こういう『ある』と『ない』の統一が『成る』ということの意味なのだろうか」
これも、非常にわかりやすい解釈ですね。
わたしは、これを読んで、「無」とか「有」の後に「縁」をつけることを思いつきました。
「無縁」と「有縁」と「成縁」という3つのコンセプトを立てると、現代社会のさまざまな問題点が立ち上がってくるように思います。
このように、本書は多くのヒントをわたしに与えてくれました。
また、大学での講義、一般の講演、社員への訓話などの場面においても、わたしにとって大いに役立つ本でした。みなさんも、ぜひ一読されることをおすすめします。


2011年1月29日 一条真也