『はじめての宗教論 左巻』

一条真也です。

『はじめての宗教論 左巻』佐藤優著(NHK出版新書)を読みました。
右巻では、キリスト教の基礎知識についての解説がなされました。
この左巻では、現代に生きているキリスト教が論じられています。
具体的には、「宗教はなぜテロリズムと結びつくのか」「人間は近代、ひいては宗教を超克できるのか」といったテーマに、「主として近代以降の自由主義神学のありかたを検討すること」を通して迫っています。


                    ナショナリズムと神学


本書の目次構成は、次のようになっています。
序章:キリスト教神学は役に立つ――危機の時代を見通す知
第1章:近代とともにキリスト教はどう変わったのか?
第2章:宗教はなぜナショナリズムと結びつくのか?
第3章:キリスト教神学入門①――知の全体像をつかむために
第4章:キリスト教神学入門②――近代の内在的論理を読みとく
第5章:宗教は「戦争の世紀」にどう対峙したのか?
第6章:神は悪に責任があるのか? ――危機の時代の倫理



本書には、キーパーソンがいます。フリードリッヒ・シュライエルマッハーです。
1768年に生まれて1834年に亡くなったドイツの神学者で、「近代プロテスタント神学の父」「自由主義神学の父」などと呼ばれました。
シュライエルマッハーによれば、宗教の本質は形而上学ではなく、道徳でもありません。つまり思惟(形而上学)でも行為(道徳)でもないというのです。
では、宗教の本質とは、いったい何なのでしょうか。
シュライエルマッハーは、それは直観であり、感情であるといいます。
彼の主張にはポイントが2つあって、1つは形而上学と宗教との軋轢を解消すること、もう1つは宗教が道徳に回収されることを防ぐことでした。



そして、直観であり感情としての宗教は、ナショナリズムというものに近づいていきます。著者は、次のように述べています。
キリスト教的な人間観では、人間はその本質において
超越的なものにあこがれる存在であり、超越的なものと自己同一化していく存在であると考えます。唯物論を信じている人間はいても、しかし、完全に唯物論的に物事を物質の連関だけで考えるような人間はいない。つまり、キリスト教的な人間観では、無宗教的な人間というのは本来おらず、本質的において人間は超越的です。人間はいずれかの宗教を信じている。自分自身は無宗教だと思ってもそれは無宗教という名の宗教にすぎません。自分の信仰や世界観を徹底的に理詰めで説明できる人はいないということになります。すると、もっとも主流の宗教というのは、宗教としてではなく、慣習として意識されるようになるのが常です」
そして著者は、そのような主流の宗教を2つあげます。
1つは、現代における「拝金教」です。もう1つは、近代におけるナショナリズムです。



ナショナリズムは「民族主義(nationalism)」と訳されますが、「民族(nation)」の語源はラテン語の「ナチオ(natio)」です。
これはかつて大学にあったのですが、ナチオが政治的意味を持つようになったのは、15世紀のフス派の反乱からだそうです。著者は、次のように述べています。
「近代の民族や国民国家の起源に関しては、フス派の反乱について押さえておかなければわかりません。フス派の反乱というのは原基形態で、似たような出来事がその後も繰り返し起こります。そして徐々に、ドイツやフランスなどの民族が煮詰まっていくわけです。その集大成が1789年のフランス革命です」
著者によれば、どの民族が国際的に尊敬されるかは、どれくらい富を持っているかで決まるそうです。ですから、近代以降、アジアが貧しくなってから西欧に馬鹿にされるようになりました。それ以前のマルコ・ポーロの時代には、西欧人はアジアに憧れていたのです。その意味において、経済力というのは非常に重要でした。



もう1つ、民族について考える上で、著者は「道具主義」を取り上げます。
道具主義を簡単に説明すると、エリート層が自らのポストを守るために大衆を操作することで、民族が創られていくという考え方です。
ナショナリズムというものを、目的を果たすための道具として利用するわけです。
これは操作主義や構築主義などに密接に関わっていますが、近代においてはナショナリズムが先行して国民国家が生まれてくるというのです。
道具主義の代表的な思想家に、べネディクト・アンダーソンがいます。
ナショナリズムの起源と流行」というサブタイトルのついた主著『想像の共同体』で、アンダーソンは出版資本主義によってナショナリズムが生まれてくる道具主義的な考え方を明らかにしました。さらに、著者は次のように述べます。
「アンダーソンの道具主義的な考え方によれば、ネイション・ビルディングの際に必要なのは出版資本主義だけではありません。そこでは、的のイメージが物を言うのです。明確な敵(彼ら)が存在し、そのイメージに抵抗することによって『われわれ』は一丸となる。つまり、民族が形成される過程においては、『彼ら』対『われわれ』の構図が、すなわち『敵のイメージ』が不可欠なのです。チェコ人にとってはドイツが、ポーランド人にとってはロシアが、アイルランド人にとってはイギリスがそれぞれ『敵のイメージ』を形成してきました。
この見方を応用すれば、中国にとって、日本が『敵のイメージ』となっていることは明らかでしょう。この状態は、中国の近代化が完結するまで続くはずです。だからこそ、小泉政権下時代に生じた靖国問題がようやく沈静化したところで、尖閣問題が浮上してきたのです」
この説明は非常に明快です。さすが外交のプロだった人の卓見であると思いました。



さて、自由主義神学者としてのシュライエルマッハーの政治思想は民主主義です。
彼は共和制を志向しており、君主の下で強権的な形で統合されることを嫌います。
そのために、彼は「自由主義思想家」と見なされ、一時期ベルリン大学を追われそうになりました。いろいろな考え方、さまざまな教派が切磋琢磨することによって、キリスト教そのものが発展していくのだという彼の考え方はまさに自由主義的であり、市場における競争原理ときわめて近いところにあります。
著者は、シュライエルマッハーを論じる際に、カール・バルトの著書『19世紀のプロテスタント神学』に基づいて論じます。
20世紀を代表する神学者であるバルトは、この本で、シュライエルマッハーの意義を正確に捉えつつ、シュライエルマッハー神学と批判的な対話を行ったのです。



この本のポイントは、キリスト教ヒューマニズムの関係です。
キリスト教は人間をどのように捉えるかといった問題で、たとえばナチズムはアンチ・ヒューマニズムで、マルクス主義ヒューマニズムだといいます。
ではキリスト教はどうかというと、原罪を持っている人間を手放しに肯定するということはありません。すなわち、キリスト教ヒューマニズムの立場ではないのです。
人間には限界があり、弱いもので、悪である。よって、人間を礼賛するヒューマニズムは否定されなければならないという認識です。
キリスト教とは、もともとアンチ・ヒューマニズムなのです。



しかし、カトリックプロテスタントでは認識が少々異なります。
著者は、次のように説明します。
カトリックは『創造の秩序の神学』です。創造の秩序を重視するため、人間に関わるものにも神の意志が働いていると見る。そのため、ヒューマニズムにも良いヒューマニズムと悪いヒューマニズムがある。共産主義は悪いヒューマニズムキリスト教ヒューマニズムは良いヒューマニズムです。他方、プロテスタンティズムから見ると、ヒューマニズムは全部ダメです。そしてアンチ・ヒューマニズムキリスト教が独占しようとします。したがって、他のアンチ・ヒューマニズムを認めません」
ここで登場するのは、ナチズムです。ナチズムとは「血と土地の神話」にすべてをゆだねるという考え方のアンチ・ヒューマニズムだというのです。
自然にすべてをゆだねる一種のエコロジーと言えますが、プロテスタンティズムはこういった自然主義によるアンチ・ヒューマニズムを認めないわけです。



本書で著者が最も主張したいことは何か。それは、第6章「神は悪に責任があるのか?」で述べられている以下の部分ではないでしょうか。
「現代の宗教は宗教を手放しで素晴らしいと捉えるものであってはなりません。シュライエルマッハー以降、キリスト教を含め宗教が内包する人間の自己投影の危険性に常に敏感であることが、啓示ゆえに要請されているわけです。だから、宗教批判は宗教について語る大前提なのです」
このことを神学的用語で表現した人物こそがカール・バルトであったと著者は言います。
バルトが組み立てた現代神学の基本構成はいまだに崩れていないとして、著者は次のように述べます。
「バルトが時代遅れになったと言う人は、バルトの本質を捉え損ねています。マルクスが時代遅れという人も同様でしょう。マルクスによって解明された、資本主義を成り立たせる労働力の商品化の理論は、資本主義が存在する限り、乗り越え不能だからです。それと同様に、近代的合理性が現代人の思考を支配している限り、バルト神学は乗り越え不能なのです」
本書は、シュライエルマッハーやバルトの神学という超難解な宗教思想を整理して、一応わかりやすく説明してくれます。
さすがは「知の怪物」と呼ばれるだけあって、著者の教養レベルは凄まじいですね。



個人的には、わたしは第2章で展開されている占星術錬金術の話題が面白かったです。たとえば、著者は占星術について次のように述べています。
「天動説と地動説はどちらが正しいか。当然、皆さんは地動説だと思うでしょう。しかしたとえば、占星術というのは、西洋占星術も東洋占星術もいまなお天動説に基づいています。地球も動いているけれど太陽も動いているわけです。火星も金星も動いている。だからたぶん、両方正しいことになる。要するに何を静止しているものと捉えるかという視座の問題です」
また、錬金術については次のように述べています。
錬金術の構えというのは、なんらかの作業を行って、いくつかの条件が重なることによって必ず一つの結果が出てくる。これは魔術の手法です。そして、魔術の手法というのは基本的には近代自然科学の手法と一緒です。錬金術では、こういったことをやるとこういう結果になるという因果関係を推定しますが、その発想が科学の基礎になっている。このように錬金術というのは、近代以前の一大知的体系だったわけです。東洋で言うところの神仙の術に近いのです」
「現代においても錬金術は生きています。錬金術をとおしてすべての非金属が金になったらどういう状況が生じるか。金の価値は皆無になります。つまり、ネズミ講とかレバレッジを使う金融工学とかも、その考え方の基本に錬金術があります。なんらかの魔術的な操作を加えることで、自分の獲得する価値を増殖させているわけです」



わたしは、これらの文章を読んで、拙著『法則の法則』(三五館)を連想しました。
その本にも、ほぼ同じようなことを書いたからです。
また、著者によれば、シュライエルマッハーの重要な仕事の一つにプラトンの翻訳があり、それを通じて彼の中にネオプラト二ズム的な流出論が入り込んだのではないかと推測しています。「新プラトン主義」と訳されるネオプラト二ズムは、プラトン哲学にストア主義などを融合して3世紀以降に成立した、きわめて神秘主義的傾向の強い学派です。また、「法則」というものと非常に深い関わりがあり、『法則の法則』でも大きく紹介しています。同書では、ナチスおよびヒトラーについても論じていますが、ここにもキリスト教の影響が強く見られました。
すなわち、『法則の法則』は「キリスト教とは何か」を追及した本でもありました。
本書に通じる部分も多々あるのではないかと思います。


                     キリスト教とは何か


2011年2月5日 一条真也