怒りについて

一条真也です。

東京から帰ってきました。
今朝は地震で目が覚め、その後も大きな地震がありました。
ホテルのエレベーターが止まったり、飛行機が飛ばないのではないかと心配しました。
1泊2日の間に、自覚しただけで5回も地震を経験し、「やっぱり、東海地震は近いかもしれない」などと思いました。あくまで個人的な感想ですが。


それから、東京の地下鉄に乗り、乗客のストレスが高まっていることに気づきました。
三五館の星山社長いわく、「毎日、地下鉄に乗るたびに一触即発状態の連続です」と言われていました。どうやら、「マナー世界一」にも限界がありそうです。
イライラして他人に八つ当たりする行為は最低です。
イライラといえば、「イラ菅」というニックネームを持つ菅首相は、石原都知事に陳謝したとか。昨夜、銀座線の乗っていた会社員風の2人が「どっちが首相か、わかんねえな」と言っていました。しかし、報道などで事情を知れば、当然のことだと思います。
わたしは東急エージェンシー時代から、媒酌人であった故・前野徹氏が非常に懇意だったため石原慎太郎氏とは何度かお目にかかりました。また、父の佐久間進は前野氏がプロデュースした「石原慎太郎都知事を囲む創業経営者の会」のメンバーでした。
おそらく、石原都知事の怒りは相当なものであったと推察されます。



ちなみに、地震とは「大地の怒り」かもしれませんね。
東日本大震災の発生以来、もうひとつ、注目すべき怒りがありました。
北野武氏の怒りです。19日の「ニュースキャスター」という番組で大いに怒っていました。あれは演技などではなく、本当に怒っていたと思います。
北野氏の言うことは、すべて正論でした。最も注目すべきは、大震災の被災地において、遺体から貴金属などを盗んだり、被災地の家屋に空き巣に入るような輩を「打ち殺してもいいと思う」と発言したことでしょう。テレビで堂々と「打ち殺してもいい」と発言するなど、普通は考えられませんが、わたしは心の中で快哉を叫びました。
政治家のわざとらしい作業着姿の欺瞞についても、まったく同感です。
被災地での会見ならまだしも、東京で会見するのに作業着など不要です。
単なるパフォーマンスに過ぎません。国民も、白けてしまいます。
いずれにしても、堂々と正論を述べて、怒りを表明することは素晴らしいと思います。
それを何ものも怖れずに出来る人こそが超一流の人物なのかもしれませんね。



わたしは、かつて『孔子とドラッカー』(三五館)で、「怒り」について書きました。
意外に思われるかもしれませんが、リーダーシップにとって怒りは重要な要素です。
西ドイツの首相であったアデナウアーが、アメリカ大統領のアイゼンハウアーに会ったとき、3つのことを言ったそうです。
第1は、「人生というものは70歳にしてはじめてわかるものである。だから70歳にならないうちは、本当は人生について語る資格がない」ということ、第2には、「いくら年齢を重ねて老人になっても、死ぬまで何か仕事を持つことが大事だ」ということ。
そして第3に、「怒りを持たなくてはいけない」と言ったといいます。



これには、いささか奇異に感じる人は多いのではないかと思います。
ギリシャの数学者ピタゴラスの「怒りは常に愚行に始まり悔恨に終わる」という言葉を引くまでもなく、怒ったり、腹を立てるということは、普通は好ましくないこととされています。できるだけ腹を立てずに穏やかに生き、円満に他人と接することが一番だと誰もが考えるのでしょう。しかし、アデナウアーは「怒りを持て」と言うのです。
松下幸之助は、アデナウアーの発言に対し、「これは単なる個人的な感情、いわゆる私憤ではないと思う。そうでなく、もっと高い立場に立った怒り、つまり公憤をいっているのであろう。指導者たる者、いたずらに私の感情で腹をたてるということは、もちろん好ましくない。しかし指導者としての公の立場において、何が正しいかを考えた上で、これは許せないということに対しては大いなる怒りを持たなくてはいけないといっているのであろう」と述べています。



アデナウアーは、第二次世界大戦でどこよりも徹底的に破壊しつくされた西ドイツを世界一といってもよい堅実な繁栄国家にまで復権再建させた人物です。
その西ドイツの首相として、これは国家国民のためにならないということに対しては、強い怒りを持ってそれに当たったのでしょう。
占領下にあって西ドイツは、憲法の制定も教育の改革も受け入れないという確固たる自主独立の方針を貫きました。その根底には、首相であるアデナウアーのそうした公憤があったのではないかと松下幸之助は推測しています。
日本においては、あのヒロシマナガサキの原爆投下に対して真剣に怒りを表明した指導者はいません。そして、西ドイツとはまったく正反対で、戦後の憲法も教育改革もアメリカの言いなりでした。前野徹氏は、2002年に刊行した著書『最後の首相 石原慎太郎が日本を救う日』(扶桑社)で石原首相誕生を熱く訴えられましたが、もし石原氏が日本国の首相だったらアメリカに対して怒りを表明してくれたかもしれません。
 


多くの首相を指導した安岡正篤も、指導者には怒りが必要であると説きました。
もちろん怒るといっても、下らない私憤から出る怒りではありません。人間の良心から出る、民族で言うならば民族精神・民族的良心・民族的道心から発する怒りです。
時局に限らずすべてのことに阿って、私心・私欲を欲しいままにしようとする佞人・奸人に対して、佞策・奸策に対して、良心から慨然として怒りを発するのです。
詩経』に「文王赫怒」という名高い言葉があります。
殷の末、紂王を中心にして政治が極度し頽廃し堕落して、人民が苦しんでいた時に、文王はその暴政に対して赫然として怒りを発して決起し、百姓は救われました。
ですから、一国の首相は首相としての怒りを、会社の社長は社長としての怒りを持たなくてはなりません。ましてや難局に直面し、難しい問題が山積みしているとき、リーダーはすべからく私憤にかられず私情にかられず、公のための怒りをもって事に当たらなければならないのです。



以上のようなことを『孔子とドラッカー』に書きましたが、この本がしばらく前から品切れとなって多くの読者の方々にご迷惑をおかけしていました。
昨日、三五館の星山社長と打ち合わせをさせていただいた結果、新しく生まれ変わって出版されることになりそうです。
新しい原稿も加筆し、カバーデザインも改めて、増補新装版として出す予定です。
最近も、成長企画プロデューサーの生田知久氏が 自身の書評ブログで、同書のことを「隠れた名作」と評価してくれています。
孔子とドラッカー』の増補新装版を、どうぞ、お楽しみに!


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2011年3月23日 一条真也