「KENjIの春」

一条真也です。

九州では桜が満開となり、春爛漫です。
今日・明日あたり花見をする人も多いでしょう。
東北の被災地には、まだ春は訪れていないでしょうか。
そんなことを考えながら、DVD「イーハトーブ幻想〜KENjIの春」を観ました。


                   「KENjIの春」のDVD


                    「KENjIの春」より


わたしは毎年、桜の花が満開になる季節にこのDVDを観ています。
1996年、宮沢賢治生誕100周年を迎えました。
それを記念して賢治の生涯をアニメ化し、テレビ岩手で放映された作品です。
登場人物を漫画家ますむらひろし監修の擬人化した猫のキャラクターに置き換えた点などは、1985年のアニメ映画『銀河鉄道の夜』と共通しています。
主題歌を含む音楽は上々颱風が手がけ、素晴らしい仕上がりとなっています。
監督・脚本は、マクロスシリーズなどのSFロボットアニメ作品で知られる河森正治です。
この作品では、主人公ケンジを通して自然と人間の交感を描きました。


もともと、「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二さんから紹介してくれた作品です。
鎌田さんは、2007年10月25日に書かれた「ムーンサルトレター」第26信で、「昔、宮沢賢治についての映画をほぼ全部見たけど、実写映画は耐えられんかった。一番よかったのは、何と言っても、あのマクロスの監督・河森正治さんの作った『KENjIの春』やった。これは100回くらい見てるけど、何回みても素晴らしい! 優れている! 凄い!」と絶賛されています。 また鎌田さんは、「ここまで宮沢賢治のシャーマニスティックな感覚を深くいきいきと描いた作品は知りません」とも感想を述べています。
それで、わたしも早速DVDを購入し観賞したわけですが、一発でハマりました。
鎌田さんのように100回とはいきませんが、それ以来、春が来るたびに観ています。


                    「KENjIの春」より



鎌田さんの言葉通り、この作品には賢治のシャーマニスティックな感覚が見事に描かれています。特に、賢治が詩作をするときの自然との交感シーンが素晴らしい!
注文の多い料理店』の「序」で、賢治は自分の物語は「虹や月あかりからもらつてきたのです」と書いています。これをアンデルセンの『絵のない絵本』の模倣ととらえることもできますが、じつはもう一つの見方もできます。そして、その見方のほうが賢治の創作の秘密と密接に関わっていると、わたしは思います。
すなわち、「虹や月あかりからもらつてきたのです」という言葉が比喩でも誇張でもなく、事実そのものだったのではないかという見方です。賢治は虹や月あかりからのメッセージを受けとれる一種の霊能力者だったのではないかということです。



森荘巳池氏という、岩手県盛岡市在住の直木賞作家がいます。
花巻農業高校時代に賢治の文学仲間だったことでも知られていますが、その森氏が賢治の霊的能力について明かしています。
森氏が『春と修羅』に対して好意的な評論を書いたことがきっかけで、賢治は森氏の自宅をよく訪れて文学談義をしたそうです。
その際、賢治は色々と不思議な体験を話してくれたというのです。たとえば、木や草や花の精を見たとか、早池峰山で読経する僧侶の亡霊を見たとか、賢治が乗ったトラックを崖から落とそうとした妖精を見たとか、そういった驚くべき体験です。
また、賢治が窓の外を指さして「あの森の神様はあまり良くない、村人を悩まして困る」と語ったこともあるそうです。
賢治には、迷った霊魂が見えたようです。今でも花巻の地元では、賢治のことを「キツネ憑き」と呼んで敬遠する人々がいるそうで、宮沢家の人々も賢治の不思議な能力については知っていましたが、タブーとしてけっして語らないそうです。 



さて、賢治の生前に出版されたのは童話集『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』の2冊だけです。しかし、賢治は『春と修羅』を「詩集」ではなく「心象スケッチ」と呼びました。出版社が間違って印刷した「詩集」の文字を自らの手でブロンズ粉で消してまで、賢治はあくまでそれが「心象スケッチ」であることに固執しました。
それは賢治の謙遜や照れであると従来とらえられてきましたが、じつは本当に「心象スケッチ」ではなかったのでしょうか。想像力を駆使して詩作を行うことと、心で見る光景をそのまま記録することとは明らかに違います。
賢治は日常的にさまざまな神秘を目にし、それをスケッチしていただけなのかもしれません。実際、『春と修羅』の「序」には、「ただたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで」と告白されています。
これまでの賢治研究者の多くは、この言葉をそのまま受け取りませんでした。
そのために、大きな思い違いをしていた可能性があるのです。つまり、宮沢賢治とは、文学者というよりも異界を見ることのできた幻視者であった。そのことを抜きにして、賢治の本当のメッセージを理解することは絶対にできません。
春と修羅』の「序」には、次の有名なくだりが出てきます。 



わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い証明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の 
ひとつの青い証明です 
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)   (『春と修羅』序)



これらの謎に満ちた言葉は、あまりにも難解だとされてきました。
しかし、賢治が霊能力者であったことを頭に置いて読むならば、目から鱗が落ちるかのように、その意味が立ち上がってきます。
神秘学の世界では、人間とは複合体です。すなわち、肉体とエーテル体とアストラル体と自我とから成り立っている存在が人間なのです。
このことは、偉大な神秘哲学者であるルドルフ・シュタイナーが講演の度に毎回繰り返していい続けたことでもありました。
それほど人間にとって重要な事実であり、神秘学の基本中の基本だからです。
つまり、人間とはまさに透明な幽霊の複合体なのです!
そして自我とは、「幽霊の複合体」でありながらも、統一原理として厳然と灯る主体に他なりません。賢治は、このことを自分の体験によって実感していたのです。
ちなみに、複合体の一つである「アストラル体」とは「幽体」とも呼ばれます。
臨死体験などでの「幽体離脱」を「アストラル・トリップ」ともいいます。そして、どうやら賢治は人生のさまざまな場面でアストラル・トリップを繰り返していたようなのです。


                    「KENjIの春」より


銀河鉄道の夜』は、高い霊能力をもっていた賢治が書いた大いなる臨死体験の物語であると、わたしは以前から思っていました。
そして、そのことを『涙は世界で一番小さな海』(三五館)に書きました。
海は、地球上でつながっています。北九州に面した関門海峡玄界灘も、あの大津波が襲った東北の太平洋の海とつながっています。
そして、被災者の方々が流す涙と、被災者を想うわたしたちの涙もつながっています。
東北に早く暖かい春が訪れますように・・・・・。


             「幸福」と「死」を考える、大人の童話の読み方


2011年4月9日 一条真也