『錯覚の科学』

一条真也です。

『錯覚の科学』クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ著、木村博江訳(文藝春秋)を読みました。ブログ『選択の科学』で紹介した本がなかなか面白かったので、同じ版元の「科学」書ということで読んでみたのです。
「あなたの脳が大ウソをつく」というサブタイトルがついています。

    
                  あなたの脳が大ウソをつく


著者の2人は、アメリカの心理学者です。
彼らは、12年前にハーバード大学の学生を集めてある実験を行いました。
それは、バスケの試合のビデオを被験者に見せ、片方のチームがパスを通した回数を数えさせるというものでした。簡単な実験ですが、じつは仕掛けがありました。
試合中、ゴリラの着ぐるみを着た学生がコートに乱入したのです。
彼はカメラに向かって胸を叩くポーズまでしました。ところが、なんと被験者の約半分はゴリラにまったく気づかなかったのです。そればかりか、実験後に同じ映像を被験者に見せると、「ビデオがすり替えられた」と言い出す者まで出る始末でした。


著者は、この驚くべき結果について次のように書いています。
「驚いたことに、およそ半数の参加者がゴリラに気づいてなかった! その後実験は条件も参加者の顔ぶれも、実験をおこなう場所も変えて、何度もくり返された。だが、結果はいつも同じだった。約半数の人がゴリラを見落とすのだ。なぜ、目の前にやってきて、こちらを向き、胸を叩いて立ち去るゴリラが見えないのだろう。なにが、ゴリラの姿を消してしまうのか。この見落としは、予期しないものに対する注意力の欠如から起きる。そこで科学的には、“非注意による盲目状態”と呼ばれている。視覚系の損傷で起きる盲目状態と区別して、こう呼ばれているのだ。ゴリラが見えないのは、視力に問題があるからではない。目に見える世界のある一部や要素に注意を集中させているとき、人は予期しないものに気づきにくい―たとえそれが目立つ物体で、自分のすぐ目の前に現れたとしても。つまり被害者は、パスを数えるのに夢中で、目の前のゴリラに対して『盲目状態』になっていたのだ」


この実験の詳しい内容を知りたい方は、下記アドレスをクリックして御覧下さい。
(The Invisible Gorilla) http://www.theinvisiblegorilla.com/
ヒトの注意力がいかにあてにならないかがよくわかりますが、著者はこれを「注意力の錯覚」と呼びました。著者は、さらに人間の注意力について次のように述べます。
「私たちは周囲の世界の、ある部分は生き生きと体験する。そして自分が注意を集中させているものは、とりわけ鮮明に見える。だが、その鮮明な体験が、自分には身の回りのあらゆる情報を細部にいたるまで見逃さないという、誤った自信を生んでしまう。実際には、まわりの世界の一部は鮮明に見えていても、現在熱中していることから外れた部分は、まったく見えていないのだ。実験の鮮明さが精神的な盲目状態を生み出し、私たちは視覚的に目立つものや異常なものがあれば、絶対に自分の注意を引くはずだと思い込む。だが、実際にまったく気づかないことが多い」
この実験結果は認知科学の学術専門誌『パーセプション』に「私たちのあいだにいるゴリラ」というタイトルで掲載され、大きな反響を呼びました。
それ以来、各地で実験され、各地で実験され、心理学の世界で大きな話題になりました。現在も多数の論文に引用されています。
ちなみに、本書の原題は『The Invisible Gorilla』といいます。



本書には、「注意力の錯覚」の他にもさまざまな心理的錯覚を取り上げています。
わたしたちに影響をあたえる日常的な錯覚は6つあるとされています。
すなわち「注意力の錯覚」、「記憶力の錯覚」、「自信の錯覚」、「知識の錯覚」、「原因の錯覚」、「可能性の錯覚」です。
「記憶力の錯覚」とは、わたしたちは自分が体験したことを鮮明かつ正確に記憶できると思っているが、じつは記憶はゆがむことが多いことです。
「自信の錯覚」とは、自信ありげな態度を、相手の知識や能力のあらわれとして反射的に受け入れてしまうことです。
「知識の錯覚」とは、自分の知識の限界を自覚せず、見慣れたものについては十分知識をもっていると錯覚することです。
「原因の錯覚」とは、偶然同時に起きた2つのことに因果関係があると思い込むこと。
「可能性の錯覚」とは、自分の中に眠っている大きな能力を、簡単な方法で解き放つことができると思い込むことです。



それにしても、人間とは多くの錯覚に陥るものですね。
人間の脳には限界があることがよくわかりますが、著者は、次のように述べています。
「日常的錯覚には共通点がある。どの錯覚も、私たちに自分の能力や可能性を過大評価させる。そしてもう一つ、すべての錯覚に共通して言えることがある。いずれの錯覚でも、私たちは自分が簡単にできることを、うまくできることと混同しやすい。心理学用語で言うと、私たちは情報を処理するときの“容易性”を、自分が沢山の情報を深く、正確に、巧みに処理できるあかしと受け取る。だが処理の容易さには、錯覚がひそんでいる。たとえば私たちは、記憶を呼び戻すときに苦労を感じない。そして記憶が簡単に甦ることは実感するが、蓄えられたあとの記憶の変形は実感しない。記憶の変形は、私たちの意識下で起きるのだ。そこで難なく呼び戻せる記憶の容易性を、自分の記憶の正確さ、完全さ、永続性と誤解する。知覚、注意力、自信、知識などの知的作業でも、容易性が同じような誤解を招く。そしていずれの場合も、錯覚が深刻な結果をもたらす」



著者によれば、自分のことは自分が一番よくわかっているという思い込みが間違いのもとだそうです。同時に、その思い込みは危険でもあります。本書では、こうした錯覚がいつどのようにわたしたちに影響をあたえ、どんな結果をもたらすかを教えてくれます。また、その影響をのがれ、最小限にとどめるにはどうすればいいかも探っています。
ブログ「エッシャーの滝」で、M・C・エッシャーのだまし絵について書きました。
本書では、エッシャーのだまし絵「無限階段」に代表される“目の錯覚”になぞらえて、“錯覚”という言葉を意図的に使っています。著者は次のように述べます。
「だまし絵は、全体として見たときに変だと気づいても、部分に目をやると相変わらず階段がちゃんと描かれているように見えてしまう。同じように、日常的な錯覚も長くあとを引く。自分がいったん思い込んだことは、誤りとわかってもなかなか変えられない。私たちは、自分の日々の行動に影響をあたえるそれらの思い込みを“日常的な錯覚”と呼ぶことにした。携帯電話を使いながら車を運転しても、自分は道路に十分注意できると思う―そんなとき、私たちは錯覚に動かされている。私たちは人が記憶ちがいをすると、すぐに嘘をついていると思う。それも、錯覚の作用だ。リーダーを選ぶとき、候補者の中でいちばん自信ありげな人物を選ぶのも、錯覚の影響である。新しいプロジェクトで、完成予定期日に確信をもつのは、錯覚のせいかもしれない。じつのところ、日常的な錯覚は、人の行動のあらゆる領域に入り込んでいる」



それぞれの錯覚についての実例も興味深いです。
たとえば、「記憶の錯覚」とは、他人の印象深い体験談を別の人に話しているうち、あたかも自分が体験したことのように思いこんでしまうケースです。
2008年、ヒラリー・クリントンは大統領選の時、「ボスニア紛争の際、ヘリで着陸した途端、狙撃兵の銃火を浴びた」という体験談を披露しました。
しかし、ワシントンポストが実際の着陸映像を検証すると、ヒラリーは観衆に手を振りながら安全にホテルまで移動していのです。
「ウソつき」と指弾されたヒラリーは、それが原因で選挙戦において劣勢となりました。
 


著者いわく、人間は過去の体験を思い出すとき、その体験をリプレイしながら記憶を取り出しているそうです。このメカニズムのため、他人の印象深い体験談を思い出すときも、同じプロセスを経て記憶が再生されてしまいます。その過程でミスが生じてしまい、あたかも他人の体験を自分の体験であるかのように思い込んでしまうのです。つまり、ウソをついたのはヒラリー本人というよりも「ヒラリーの記憶」なのです。
他にも、「えひめ丸」がアメリカの潜水艦に下から衝突され沈没させられた事件の謎も解けました。沈没させた潜水艦の艦長は、目では船が見えていたのに、脳が船を見ていなかったのです。さらに、レイプ事件の被害者が全く別人を“犯人”と特定したために起きた冤罪事件には考えさせられました。
本書を読むと、裁判に対する見方が大きく変わります。
目撃証言や自白さえもきわめてあてにならないことがわかるからです。
たとえ被告が自白していようとも、物的証拠が何一つない裁判は冤罪を生み出す可能性が高いと言えるでしょう。




また、著者は世間に流布するオカルトまがいの俗説もぶった斬っていきます。
たとえば、「誰かに頭の後ろをじっと見つめられると、人は見られているのがわかる」という迷信があります。武道や気功の達人なら出来そうな感じもしますが、著者は「迷信」と一刀両断です。著者は次のように述べます。
「なぜ人は、そうした超感覚的知覚を信じるのだろう。私たちは自分が振り返ったときに、誰かがこちらを見ていたときのことを覚えている。だが、振り返ったときそこに誰もいなかった場合はもちろん、人がいてもこちらを見ていなかった場合のことは記憶しない」
一連の出来事に物語的な流れがあると、わたしたちは因果関係を考えがちです。
自分が誰かを見つめていて、たまたま相手がこちらを振り返ったとき、原因の錯覚が作動します。そして、自分が相手を振り向かせたという推理を働かせてしまうのです。
さらに、因果関係を推理して、見つめていた人はその場面を特によく記憶するのです。
これは、「虫の知らせ」とか死者が「夢枕」に立つ場合などにも通用します。
ただし、わたしは錯覚ではない「虫の知らせ」や「夢枕」も実在すると思いますが。



本書を読んで、マスコミがレアケースにばかり飛びつき、報道することの危険性を痛感しました。なにしろ、犬が人間を噛んでもニュースにはなりませんが、人間が犬を噛めばニュースになるわけですから・・・・・。
当たり前の話ですが、犬はよく人間を噛みますが、人間はほとんど犬を噛みません。
偏ったマスコミの報道によって、現実を歪んで受け取る人々も多いはずです。
統計的に、あるいは実験的に否定されていることをしつこく報道し続けることは糾弾されるべきでしょう。その他にも、著者はさまざまなオカルト的迷信を論破します。
いわく、サブリミナル効果などというものは存在しない。
いわく、いくらモーツァルトを聴いても頭は良くならない。
いわく、脳トレを続けてもボケは防止できない。
というように、徹底的な追試実験によって脳科学の通説を覆します。
本書は、「トンデモ」科学を駆逐する啓蒙書でもあるのです。



最後に、著者は読者に対して次のようなメッセージを送っています。
「日常的な錯覚を意識して世の中を見渡すと、前ほど自分に確信がもてなくなるかもしれない。だが、あなたは自分の心の働きについて新たな見方ができ、人の突飛な行動も新たな目で眺められるようになるだろう。そうした行動は愚かさ、傲慢、無知、注意力の欠如ばかりが原因ではない。日常的な錯覚が、影響をあたえたせいかもしれない。私たちが最後に望むのは、あなたが寛容さを欠く結論へと走る前に、その可能性を考えるようになることだ」
たしかに、日常的な錯覚を意識して「人間とは間違うものだ」ということに気づけば、人は他人に対して寛容になれるでしょう。
人は自分で思っているほど、まわりの世界を見きれていないのです。
本書を読んで、そのことを強く痛感しました。


2011年6月15日 一条真也