『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』

一条真也です。

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』(集英社新書)を読みました。著者は、日本を代表する人気漫画家の1人です。
代表作『ジョジョの奇妙な冒険』はコミックでシリーズ総計100巻以上という大作です。わたしも70巻近くは持ってはいるのですが、読む時間がなかなか取れません。正直言って、老後の楽しみに置いてあるような現状です。本書は、ホラー映画には一家言あるという著者が1970年代以降のモダンホラー映画について大いに語った偏愛的映画論です。いや、非常に面白かったです。


荒木ワールドの深奥を見よ!!


本書の目次構成は、以下のようになっています。
まえがき「モダンホラー映画への招待」
第一章:ゾンビ映画
第二章:「田舎に行ったら襲われた」系ホラー
第三章:ビザール殺人鬼映画
第四章:スティーブン・キング・オブ・ホラー
第五章:SFホラー映画
第六章:アニマルホラー
第七章:構築系ホラー
第八章:不条理ホラー
第九章:悪魔・怨霊ホラー
第十章:ホラー・オン・ボーダー
「あとがき」



著者が最初にホラー映画の魅力に取り憑かれたのは、中学生時代に伝説的なホラー映画である「エクソシスト」を見てからでした。
それ以来、著者は膨大な数のホラー映画を見続けてきたそうです。ホラー映画の歴史を変えたとされる「エクソシスト」ですが、製作されたのは1973年でした。
エクソシスト」以前には、ホラー映画はまだ「怪奇映画」と呼ばれていました。
「吸血鬼ドラキュラ」とか「狼男」とか「フランケンシュタイン」などの作品が作られましたが、著者は本書でそれらには触れていません。
それらが古典だからではなく、見たのが公開時ではないからだそうです。
いずれも、名画座やビデオテープ、DVDなどで後追い体験したものばかりだからというのです。それで本書には、リアルタイムで見た封切り作品を優先した、「エクソシスト」以降のいわゆる「モダンホラー」が取り上げられています。



そんな著者が選んだホラー映画の20選が以下のように紹介されています。
荒木飛呂彦が選ぶホラー映画 Best20」
1.ゾンビ完全版(‘78)
2.ジョーズ
3.ミザリー
4.アイ・アム・レジェンド
5.ナインスゲート
6.エイリアン
7.リング(TV版)
8.ミスト
9.ファイナル・デスティネーション
10.悪魔のいけにえ(‘74)
11.脱出
12.ブロブ 宇宙からの不明物体
13.28日後・・・
14.バスケットケース
15.愛がこわれるとき
16.ノーカントリー
17.エクソシスト
18.ファニー・ゲームU.S.A(‘07)
19.ホステル
20.クライモリ





いずれも、わたしも大いに恐怖した映画ばかりで、著者のセレクトには共感。
また当然ながら、わたしが未見の映画も多くありました。
本書を読んだ後で、何枚もの映画DVDをアマゾンで注文しました。
さて、著者にとっての「ホラー映画」とは何か。
著者は、「まえがき」で次のように述べています。
「当たり前と思われるかもしれませんが、人間の在り方を問うための良心作だったり、深い感動へ誘うための感涙作だったりというのは、結果としてそれがどんなに怖い映画であっても逆にホラー映画とは言えません。ひたすら『人を怖がらせる』ために作られていることがホラー映画の最低条件で、さらにはエンターテインメントでもあり、恐怖を通して人間の本質にまで踏み込んで描かれているような作品であれば、紛れもなく傑作と言えるでしょう。つまり『社会的なテーマや人間ドラマを描くためにホラー映画のテクニックを利用している』と感じさせる作品よりも、まず『怖がらせるための映画』であって、その中に怖がらせる要素として『社会的なテーマや人間ドラマを盛り込んでいる』作品。それこそがホラー映画だというわけです」



著者によれば、肥満体の黒人少女の過酷な運命を描いた「プレシャス」や、究極の障害者映画である「エレファントマン」なども立派なホラー映画とのこと。著者は、「定義と言うよりも願望として、ホラー映画は何よりもまず恐怖を追求するものであってほしいですし、ホラー映画と認められるのはそういう作品なのです」と述べています。
また著者は、「かわいい子にはホラー映画を見せよ」と訴えています。
一般に人間は、かわいいもの、美しいもの、幸せで輝いているものを好みます。
しかし、世の中すべてがそういう美しいもので満たされているということはありません。
むしろ、美しくないもののほうが多い。そのことを、人は成長しながら学んでいきます。
現実の世の中には、まだ幼い少年少女にとっては想像もできないほどの過酷な部分があるのです。それを体験して傷つきながら人は成長していくのかもしれません。つまり、現実の世界はきれい事だけではすまないことを誰でもいずれは学んでいかざるをえないのです。そして、そこでホラー映画が必要となるのです。
著者は、次のように述べています。
「世界のそういう醜く汚い部分をあらかじめ誇張された形で、しかも自分は安全な席に身を置いて見ることができるのがホラー映画だと僕は言いたいのです。もちろん暴力を描いたり、難病や家庭崩壊を描いたりする映画はいくらでもありますが、究極の恐怖である死でさえも難なく描いてみせる、登場人物たちにとって『もっとも不幸な映画』がホラー映画であると。だから少年少女が人生の醜い面、世界の汚い面に向き合うための予行演習として、これ以上の素材があるかと言えば絶対にありません。もちろん少年少女に限らず、この『予行演習』は大人にとってさえ有効でありうるはずです」



要するに、恐怖を相対化できるようになることが人生において大事なのです。
ホラー映画というのは、恐怖をフィクションとして楽しむことのカタルシスを教えてくれ、映画鑑賞をより実りあるものにしてくれるのです。さらには、「不幸を努力して乗り越えよう」といった、お行儀のいい建前ではなく、「死ぬ時は死ぬんだからさ」みたいなポンと肩を叩いてくれることで、かえって気が楽になることがあります。
著者によれば、そういう効果を発揮してくれるのがホラー映画だというのです。
ホラー映画は、「癒し」という力さえ秘めています。
著者は、「あとがき」で次のように述べています。
「『美しいもの』『楽しいもの』『清らかさ』といったテーマを描いた芸術行為・表現には、『美』の基本となるものが含まれています。あるいは、『正義』の心とか『幸福とはなんなのか?』といった、感覚的にわかる判断規準が内在しています。
しかし、そうしたただ『美しい』『正しい』だけの作品には、決定的に『癒し』の要素が不足しているように僕は感じます」



著者が本書を執筆している最中に、東日本大震災が発生しました。日本人だけでなく、人間が過去に体験したことがないような極限の恐怖がそこにはありました。
そんな状況下で、子どもたちの間に、テーブルを手で揺すって物を落としたり、庭で作った盛り土やおもちゃをバケツの水で流して、ふざけて遊んだりする行為が多く見られたそうです。つまり、子どもたちは「地震ごっこ」や「津波ごっこ」をしたわけです。
もし、自分の子どもがそういう遊びをしていたらどうするか?
「こんな時に、そんな不謹慎なことをしてはいけない!」と叱るでしょうか?
でも、著者の見方は違います。その「遊び」は子どもの心の中にある恐怖や不安を「癒す」ための本能的な防御行為ではないかというのです。
わたしは、この著者の考え方に「はっ!」と気づかされました。
そして、名画「禁じられた遊び」に出てくる大戦下のフランスの子どもたちを連想しました。あの映画に登場した子どもたちは、小動物を殺しては埋葬して遊んでいました。
言うまでもなく、あれは不謹慎な遊びでした。でも、もしかしたら、彼らにとって生きていくために必要な遊びだったのかもしれません。「地震ごっこ」や「津波ごっこ」をする子どもたちに伝えるべきは、それらの遊びをやめさせることではなく、人の心の痛みを考えることかもしれないという著者は、次のように述べます。
「恐怖映画は一見すると、暗くて不幸そうで、下品で、そのうえ変な音楽まで流れていてレベルが低そうであり、異様な雰囲気さえ持っています。しかしすぐれた恐怖映画は、きちんと観てみると精神の暗部をテーマにしていて挑戦的な映画とも言え、どの場面もカット編集や変更ができないほど脚本や演出も完璧なまでに計算構築されています。そして本当にすぐれた作品は何よりも――これが大事な要素なのですけれども、『癒される』のです」



そういった視点から考えてみれば、著者の言うように「プレシャス」や「エレファントマン」といったディープなヒューマンドラマが究極のホラー映画であり、それらがホラー映画であるがゆえに、この上なく「癒される」映画でもあることがわかってきました。
わたしは、著者のことを大変な「人間通」であると思いました。
そして、これほどの「人間通」が描いた漫画を無性に読んでみたくなりました。


2011年7月3日 一条真也