『スピリチュアリティのゆくえ』

一条真也です。

スピリチュアリティのゆくえ』堀江宗正著(岩波書店)を読みました。
岩波書店の「シリーズ若者の気分」の1冊です。著者は1969年生まれの宗教心理学者で、聖心女子大学文学部・同大学院文学研究科の准教授です。
最近は主にスピリチュアリティを研究し、江原啓之氏についての論考も多いようです。


                     若者の気分


本書のカバーには、「スピリチュアル、エネルギー、宇宙、愛・・・。誰にも言えない、仲間をつくらない、隠された『宗教』。学校文化とサブカルチャーの間で、いま、何が?」というコピーが記されています。また、「インタビューを通して語られるリアリティ。主人公は4人の大学生。 」とも書かれています。
そう、本書は、著者が主に「mixi」で知り合った風太君、音葉さん、美月さん、神生君(仮名)という20歳前後の4人の若者と対話し、その語りを資料としながら著者の考察が展開されるという内容なのです。完全にポスト・オウム世代である彼らの語りから、「オーラ」「守護霊」「前世」などをキーワードとしたゼロ年代のブームが現在どう変化し、今後のスピリチュアリティはどうなるのかを探っています。さらに、学校文化やネット的つながりとの関係なども窺い知ることができます。



本書は、以下の4章から構成されています。
1.風の歌〜スピリチュアルからの出発
  風太君、男18歳(初回インタビュー)、21歳(2回目のインタビュー)
2.インスピレーション〜スピリチュアルな成長を求めて
  音葉さん、女25歳
3.宇宙とのつながり〜存在としての愛
  美月さん、女21歳
4.外へ〜スピリチュアルゆえにスピリチュアルを否定する
  神生君、男23歳



本書を読む読者には、「スピリチュアル」「スピリチュアリティ」という言葉の予備知識が必要となります。「はじめに」で、まず著者は「スピリチュアル」という言葉が「宗教」とは違うものとした上出、次のように説明します。
「『宗教』ではない『スピリチュアル』が一気に流行語になったのは2007年である。江原啓之がゴールデンタイムの番組に出演し、オーラや守護霊や前世について語り出し、それらが話題になる」
次に、「スピリチュアリティ」についても次のように説明します。
「心理学や医療や看護、そして宗教学において『スピリチュアリティ』という言葉が用いられている。その意味については、さまざまな立場の学者・研究者が多様な定義を与えているが、最大公約数的なものを取り出すならば、次のようになる。(1)通常は知覚しえないが内面的に感じられるものへの信念と、(2)それを心身全体で感じ取ろうとする実践の総体であり、そこに(3)個人主義/私生活主義や反権威主義といった態度、(4)宗教文化的資源の選択的摂取といった特徴が、程度の差はあれともなうもの、である」



著者は、個人主義的価値観を含むスピリチュアリティと組織「宗教」との関係は、同心円で考えると分かりやすいと述べます。すなわち、宗教の本質にスピリチュアリティがあるという図式です。スピリチュアリティの外側に教義や儀礼や教団など宗教の制度化された側面があるというわけです。
さらに、「宗教」によく似た言葉として「精神世界」があります。
著者は、次のように述べています。
「『精神世界』、新新宗教、カルトは、思想内容の面でよく似ている。個人と人類の双方の意識変容を目指すからである。しかし、『精神世界』の当事者は、自分たちは教団を持たないし、権威主義に反対するのだから『宗教』とはまったく違うと考えている。ところが、その形態上の違いを部外者は理解せず、思想内容の共通性から、まるで『宗教』のようだと白い目で見る」


 
「ファンタジー」というものも、若いスピ世代には大きな影響力を持ちます。
美月さんという21歳の女性は『アミ 小さな宇宙人』というファンタジーをバイブルのように愛読し、UFOや宇宙人の存在を信じています。
そんな彼女について、著者は次のように述べています。
「ファンタジーは、現代人の信念体系にとって隠れ蓑のような機能を果たしていると、私は考えている。実際にUFOを見たと彼女が証言すれば、多くの人は懐疑のまなざしで彼女を見るだろう。人によっては、少し変わった人、あるいは頭のおかしい人と見下すかもしれない。だが、『アミ 小さな宇宙人』が愛読書だと言ったからといって、そのような反応をする人はまずいない。逆に、『そんなの嘘だ』と目くじらを立てて言えば、そう言う人のほうが現実とファンタジーを混同する『やぼ』で未熟な精神の持ち主だと見なされる。現代日本社会では、多数派が信じない世界観を信じることは白眼視されるが、その世界観を描いているファンタジーを好むことは許容されるし、実際に多くの人によって享受されている」
これは、わたしも大いに納得しました。もともと、ファンタジーとは宗教の代用になりうるものであり、世界や生命の秘密を解き明かしてくれます。
涙は世界で一番小さな海』(三五館)に書いたように、アンデルセンの「人魚姫」「マッチ売りの少女」、メーテルリンクの「青い鳥」、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」、サン=テグジュぺリの「星の王子さま」などのハートフル・ファンタジーは、宗教以上に宗教的な内容であり、読者は「幸福」と「死」の本質について学ぶことができます。


                  宗教とファンタジーの関係とは?



本書の登場する20代のスピ系たちは、かつてのスピ系、特に現在40代のスピ系とは明らかに違います。ブログ『オウム真理教の精神史』でも紹介したように、オウム真理教の登場を用意したものとして、80年代のオカルト・ブームがありました。
著者は、次のように述べています。
「1985〜86年をピークとして、オカルト雑誌『ムー』の読者投稿欄に、前世の記憶を共有し、最終戦争をともに戦う『仲間』を探す投稿が相次ぐという現象が起きた。私が調べた限り、投稿者の平均年齢は17〜18歳であった。それは今のアラフォーから40代前半に当たる。この世代は、最後の新宗教とも言える『新新宗教』が世間を賑わした90年代初頭において、20代前半であった。新宗教が『運動』と形容されても違和感がなかった最後の時代である。新新宗教の『運動』の担い手は、彼らより少し上の世代だったが、彼らも加わっていたと見てよい。
つまり、現代のスピリチュアル・ブームやパワースポット・ブームの担い手は、自己のスピリチュアルな信念を話せる人にはどんどん話して仲間を作り、一緒にスピリチュアルなイベントやパワースポットに出かけるような世代だということである。
だが、今の20代くらいの人たちは『運動』はおろか『ブーム』すら作り出さないのではないだろうか。そう思わずにはいられないほど、インタビューを通して見えてくる『スピリチュアル』な若者は秘密主義的である」
わたしは、この著者の指摘に大賛成です。



小学校から大学までずっとミッション系の学校に通っていた美月さんが、キリスト教に反発しているというくだりも興味深かったです。
宇宙人の存在を信じる彼女は、イエスマザー・テレサにあまり興味がないそうで、しょせん人間である彼らの「愛」のパワーは宇宙人に比べてレベルが低いような見方さえ持っています。宇宙人の「愛」は、最高レベルの「存在としての愛」だというのです。
これに対して、自身がカトリックの女子大で教鞭を取る著者は、次のように述べます。
「“存在としての愛”もキリスト教にないとは言えない。イエスは律法主義に反対したのだから、外形的基準にとらわれた“行為としての愛”にも反対するだろう。イエスが見捨てられた人を癒したのは、病者の“存在としての愛”を通してだとは言えないだろうか。イエスは一足飛びに人類愛を奨励したというよりは、まずは“隣人愛”を勧めたのではなかったか。マザー・テレサは、死にゆく人に実際に身近に触れて寄り添わずにはいられないという気持ちをかき立てられたのではないか。『善い行為』だとキリスト教で奨励されているから、という理由で慈善活動をしていたわけではなかろう」



しかし、キリスト教が学校「教育」を通して提示された場合、事情は異なります。
生徒・学生は、どうしても“行為としての愛”が奨励されていると受け止めてしまうと著者は指摘し、次のように述べるのです。
「ミッション系の大学で宗教学を講義する際、私はときおり学生のなかに『宗教』に対する強い反発心があることに気づかされる。そこで思い描かれる『宗教』とは、『排他的』で『狂信的』なものであることが多い。意識的には『カルト』に対するイメージであろう。だが、中にはキリスト教こそカルトだ、と言明する学生もいる。どうやらキリスト教を『教育』されることによって、学生のあいだに『宗教』に対する潜在的な敵意が高まっているらしい、ということに私は気づいた。もちろん、真正面から聞くと、キリスト教に対しては悪いイメージは持っていないと答える学生がほとんどなのだが」
わたしの長女は、カトリックの中学・高校を経て、現在はプロテスタントの大学に通っています。また、次女はカトリックの小学校に通い、そこでは「宗教の時間」という授業も受けています。ですから、この著者の発言には色々と考えさせられました。
わたしの個人的な感想を言わせてもらえば、カトリック教育にはどうしても人間の精神を抑圧する部分があるように思います。
それには、シスターたちの禁欲的な生活も影響しているように思うのですが・・・・・。
いずれにせよ、家庭や学校などの環境は個人の精神に大きな影響を与えます。
本書に登場する4人の親がいずれも新興宗教の熱心な信者であるという事実も非常に重要であると思いました。



4人の若者との対話を終えて、著者は次のように述べています。
「スピリチュアルなものとは、見えないもの、不確定なものである。そうであるがゆえに、それを固定的な『解決』であるかのように掲げて、社会に押しつけようとすれば、現代日本社会では『宗教』的な匂いをかぎつけられ、容赦なく指弾され、後ろ指を指される恐れがある、そのようなリスキーな、それでいて自己の存在意義をかけずにはいられないような『マジック・ワード』である」
「私はスピリチュアリティに過剰な期待をかける人には、あまり期待するなと言いたいし、それをことさらに危険視する人にはあまり危険視するなと言いたい。あまりにも白眼視するから、あまりにも神聖視するから、秘密の領域に閉じ込められてしまう」



さらに著者は、「スピリチュアリティのゆくえ」を次のように語ります。
「目に見えないものについて語ること、そして聴くこと。きわめてシンプルだが、私が本書を通して訴えたいのは、ただそのことの重大性である。それによって、隠されてきたわれわれの生の次元が、社会的なもの、公的なものになる。
語られたものは、リアリティを持ち、可視化され、『目に見える』形を持つようになるかもしれない。すると、それによってまた見えない次元が茫漠とわれわれの前に立ちふさがる。だから、この『目に見えないものについて語り、聴く』ということは、終わりのないプロセスである。不断の『努力』である。
それによって、さらに若い世代の『若者』たちが、今よりももっと、依存することもなく、恐れることもなく、スピリチュアリティ、ひいてはさらに禁圧された感の強い『宗教』について、率直に、冷静に、しかし熱く語れるようになること。それが私の思い描く『スピリチュアリティのゆくえ』である」


 
「あとがき」で、著者はポスト・オウムの若者たちと宗教について次のように述べます。
「オウム以後、若者を主体とする新しい宗教『運動』――社会的存在感と明確な政治的方向性を持った組織的活動――は発生していない。『オウムの再発』を防ぐという日本社会の努力が実を結んだと言ってよい。『癒しブーム』『スピリチュアル・ブーム』『パワースポット・ブーム』などが散発的にあるものの、それはもはや『運動』というよりは、消費と密接に結びついたサブカルチャーの一種でしかない」



サブカルチャーといえば、真っ先に「オカルト」が思い浮かびます。
「オカルト」について、著者は次のように語ります。
「オカルト的なものの源流は、民俗宗教や非正統的な宗教的実践(神秘主義、秘教、異教)にある。それが、近代に入って知的に再編成され、メディアを通じて広範に流布し、『オカルト』としてなだれ込む」
さらに「ファンタジー」についてもオカルトと同様の道をたどると指摘します。
このことを踏まえて、著者は次のように述べます。
「民話が近代に入って収集され、童話に変えられ、創作性が加わってファンタジーになる。これもメディアを経由して子どもたちの文化環境の主流をなす。オカルトとファンタジーの境界には『学校の怪談』や都市伝説があるだろう。これらによって、子どもは『宗教』なしで非日常を享受でき、逆説的に『宗教』から遠ざけられている」
ファンタジーが宗教の代わりになりうるということを、すでに述べました。
ファンタジーは、子どもにとって必要なものなのか。
最後に、著者は次のように述べています。
「ファンタジーは子どもの教育に良いのか悪いのか。これは常に論争の種である。虚構が現実を代替してガス抜きするのか、現実を用意するのか。ファンタジーに死や性の描写が含まれていても、欲求のガス抜きであれば問題はない。しかし、現実を用意する、つまり『そそのかす』のであれば害悪である」



4人の若者の語りは一貫性があるわけではなく、なかなか本音を言わないこともあって、けっして読みやすいものではありません。
しかし、彼らは「スピリチュアリティ」や「オカルト」や「ファンタジー」をキーワードとして、確実に「若者の気分」を語っているとは思います。
彼らの発言を素材として、著者は今後も「スピリチュアリティのゆくえ」を求めてゆくのでしょう。その新たな旅路に大いに期待したいと思います。


2011年7月31日 一条真也