『老いの才覚』

一条真也です。

今日、9月19日は「敬老の日」ですね。
それにちなんで、『老いの才覚』曽野綾子著(ベスト新書)を読みました。
なんでも、100万部を超える大ベストセラーだそうです。
高齢化社会に生きる日本人は、自立した老人になるための老いる力、すなわち「老いの才覚」を持つことが求められています。日本を代表する女流作家であり、日本財団会長も務めた著者が、老いの才覚を得るために必要な7つの力を説きます。


                  自立した老人になるために


本書の「目次」は、次のような構成になっています。
第1章:なぜ老人は才覚を失ってしまったのか
第2章:老いの基本は「自立」と「自律」
第3章:人間は死ぬまで働かなくてはいけない
第4章:晩年になったら夫婦や親子との付き合いも変える
第5章:一文無しになってもお金に困らない生き方
第6章:孤独と付き合い、人生をおもしろがるコツ
第7章:老い、病気、死と馴れ親しむ
第8章:神様の視点を持てば、人生と世界が理解できる



この「目次」の構成は、本書で説かれる7つの力にそのまま対応しています。
すなわち、老いの才覚を得るための7つの力とは、以下の通り。
(1)「自立」と「自律」の力(2)死ぬまで働く力(3)夫婦・子供と付き合う力(4)お金に困らない力(5)孤独と付き合い、人生を面白がる力(6)老い、病気、死と馴れ親しむ力(7)神さまの視点を持つ力



第1章「なぜ老人は才覚を失ってしまったのか」の冒頭で、著者は「私は、1931年生まれの、いわゆる『後期高齢者』です」と述べます。
後期高齢者医療制度が施行されたのは、2008年4月からです。
この制度によって、家族に扶養されている人を含め、75歳以上のすべての後期高齢者が保険料の負担を求められるようになりました。
そして、大多数が年金からの天引きで保険料を徴収されるようになったわけです。
内閣府がまとめた「2010年版 高齢社会白書」によれば、75歳以上の後期高齢者は2009年10月の時点で1371万人となります。
これは、じつに総人口の10.8%を占める数字です。後期高齢者の数は増え続け、55年には75歳以上が26.5%に達すると推測されています。ということは、現役世代(15歳から64歳まで)の1.3人が後期高齢者1人を支える社会になるわけです。



このような超高齢化社会において、わがままな年寄りばかりが増えていけば国が滅んでしまいます。だからこそ、自らが後期高齢者である著者は「老いの才覚」というものを多くの高齢者に求めるのです。では、「才覚」とは何でしょうか。
著者は、最近よく言われるCIM(computer integrated manufacturing)のようなものだと述べます。辞書で「CIM」を引くと、「コンピューターによる統合生産のことで、製品の企画、設計、開発、製品管理、流通など各部門間をコンピューターネットワークによって接続し、相互の情報を有効活用するシステムを構築することで、生産性の向上と市場競争力の強化をはかろうというもの」とあります。要するに、今まで得たデータを駆使して、最良の結果を出そうとするシステムのことなのです。
著者は、「昔の人は、そのシステムが頭の中に入っていました。こういう状況の時、自分はどうすればいいか。もしこの方法がダメだったら、次はどうしたらいいか、と機転を利かせて答えを出した。それが、才覚です」と述べます。
なるほど、後期高齢者らしからぬ非常に現代的な例えですね。


 
著者は、才覚のない老人が増えてきたと嘆きます。
そして、なぜそうなったかについて次のように述べています。
「原因の1つは、基本的な苦悩がなくなったからだと思います。望ましいことではありませんが、昔は戦争があり、食べられない貧困があり、不治の病がたくさんありました。家もお粗末でしたから台風が来れば必ず屋根が飛んだり山崩れがあったりして、自然災害もひどかった。そういう目に遭うから、ある程度は運命を受諾し、また災害を自分たちでどう防ぐか、他人や国に頼らず知恵を絞ったのです」



東日本大震災という現実の災害を体験した今、著者の言葉は重みをもって読者の心に響いてきます。さらに著者は、現代の日本社会について次のように述べます。
格差社会だと言われていますが、日本ほど格差のない国はない。
だれでも救急車にタダで乗れる国は、非常に少ない。
国民健康保険国民年金生活保護法がある国など、めったにありません。
地震や台風などで被災した時だって、日本は大したものです。
とにかく、その日からパンを配るでしょう。途上国では、災害から何日か経って、腹ぺこの被災者たちに芋や豆を配ったりします。生のまんまです。被災者たちは、ふらつく足で燃料を集め、煮たり焼いたりしなくては食べられません。日本人は、被災したその日から、すぐに菓子パンを食べることができるのに、『3日間パンばかり配られて飽き飽きした』などと文句を言っている。それほどに贅沢なのです。これは若者も同じですが、原初的な不幸の姿が見えなくなった分、ありがたみもわからなくなった。そのために、要求することがあまりにも大きい老人世代ができたのだと思います」
この意見には異論もある人も多いとは思いますが、わたしは共感しました。
1995年から2005年の10年間、日本財団の会長を務めた著者は、いわば支援や援助の世界を見続けてきたわけであり、それだけに強い説得力があるように思えます。



著者は、日本人の精神が貧困になったのは教育の問題が大きいといいます。
戦後、日教組が「人権」「権利」「平等」を何かにつけて主張するようになりました。
その教育を受けた人々が老人世代になってきて、ツケが回ってきたというのです。
日教組教育の欠陥のに「損をすることには黙っていない」というものがありますが、著者は「わざわざ教育しなくても、そもそも人間は、がめついのです」と喝破します。
みんなでケーキを切り分けたとき、どれが一番大きいか、一瞬で見分けようとします。
教育されるまでもなく、そういう強欲さが人間には本能的に内蔵されていることを、兄弟が多い者なら誰でも知っています。著者は、次のように述べます。
「そのまま行動に移すのでは動物と変わりません。本能をコントロールすることが『遠慮』なんですね。10人いれば10分の1をもらえると思う。できたら10分の2人前もらえたらいいなと考える。それをコントロールして、本来は10分の1人前もらえるところを、『私はもう年寄りだから、その半分でいいですよ。あとは、この子供にあげてください』と言えるのが人間です。つまり、動物的平等化を人間的に馴らす方法が『遠慮』だと思います。かつては、損のできる人間に育てるのが、教育の1つの目標でした。動物は捕まえた獲物をまず自分が食べ、残りを自分の子供や群れの仲間に与える例が多いけれど、人間は見ず知らずの人に恵むということができる。それが人間である証拠です」



著者は、老人たる者、いくつになっても損をすることができる気力と体力を保つということを目標にすべきであるとして、次のように述べます。
「なんでもかんでも権利だとか平等だとか、極端な考え方がまかり通る世の中になってしまったのは、言葉が極度に貧困になったせいもあると私は思います。言語的に複雑になれない人間は、思考も単純なのです」
そして、その原因の1つは、読書をしなくなったからだといいます。
著者は、続けて次のように述べています。
「私たちは、生活の真っただ中で苦労して生きることによって、さまざまなことを学びます。読書をすれば、それより更に広く自分が経験できないことを学ぶわけです。
しかも読書には、非常な自由が与えられています。同じものを読んでも、人によって全く別の受け取り方ができるでしょう。イマジネーションを広げるという極めて人間的な操作ができる。抽象的な文字から、月の光や湖水の輝き、すばらしい人やひどい奴を想像することが可能なわけです。読書の習慣があれば、表現も自然と豊かになりますし、基礎的な知識だけではなく教養も身につきます。何より人間関係を恐れなくなります。言語という穏やかな武器がありますからね」
このくだりは、短いながらも非常にコンパクトで優れた「読書のすすめ」になっていると感心しました。やはり、作家だけあって表現力が素晴らしいですね。


 
第2章の「老いの基本は自立と自律」で、著者は「自立」の能力の必要性を説きながらも、それを保つことは難しいと認めます。そして、自分が足を骨折したときの経験をもとに気づいたことを次のように記しています。
「骨折の後、松葉杖をついていた頃、街角に立って、ここにいるほとんどの人は重い荷物を持って10キロ歩いたり、走ったり、ジャンプすることも階段を駆け下りることもできるのだなと思いました。でも、私にはできない。私よりも年をとった人でもできるのに、私にはそんな単純なことができなかった。
その自分の劣等性を確認した時、さわやかな気持ちでもありました。自分というのはこういうものだった、これが私だ、と明確にわかって安心したのです。はっきりした自覚を贈られたことは、私の晩年の姿勢を限りなく自然体にしてくれるだろう、と思いました。
人は、その時その時の運命を受け入れる以外に生きる方法がありません。その範囲の中で、自分は何ができるかを考えるしかない。昔のようにできないと思うと苦しくなりますから、その時々、その人なりにできることをやればいいのだと思います」
わたしは老人ではありませんが、最近、骨折した経験があります。
そのため、この著者の言葉は非常に心に沁みました。
「その時々、その人なりのできることをやればいい」という考え方は大切な智恵ではないでしょうか。余計な不満やストレスも感じなくて済みますし。



本書の中には、老人が健康を保つためのさまざまなアドバイスが紹介されています。
たとえば、「食べすぎない」とか「夜遊びしない」とかいったものですが、その最大のポイントは「生きがいを持つ」ことだそうです。
著者は、第3章「人間は死ぬまで働かなくてはいけない」で、次のように述べます。
「老人が健康に暮らす秘訣は、生きがいを持つこと。
つまり、目的を持っていることだと思います。私の母が晩年、私に目的を与えてくれ、と言ったことがありました。老人性の軽い鬱病になっていたのかもしれませんが、私は『それはできません』と答えたのを覚えています。
だれに対しても、他人は目的を与えることはできない。その人の希望を叶えるために相当助けることはできます。しかし、目的は本人が決定しなくてはなりません。それは、若者であろうと老人であろうと、アフリカの片田舎に生まれようと、ニューヨークの摩天楼の下に生まれようと、同じことです。
たいていの年寄りは目標がなかったら、生きていけないのではないでしょうか。老人ホームで手厚く世話をしてもらって、お花見だ、お月見だ、盆踊りだと行事を開いていただいても、目標がないと楽しくないかもしれません。やっぱり絵手紙がうまくなるとか、俳句が上達するとか、何か目標がいるような気がします」
わが社も、高齢者向けのカルチャースクールであるグランドカルチャー教室を運営しており、また今後、老人ホームなどのシルバー産業に本格的に参入する計画です。
ですので、この著者の「老人が健康に暮らす秘訣は、生きがいを持つこと」という指摘を忘れないようにしたいと思います。



さて、本書の内容はどれも共感できる話が多く、頷きながらスイスイ読めていたのですが、第5章「一文無しになってもお金に困らない生き方」から様相が変わってきます。
「これは、変だな」と思える発言が多くなってくるのです。
たとえば、著者の次の発言などはまだ理解できます。
「老年は、一つ一つ、できないことを諦め、捨てていく時代なんです。執着や俗念と闘って、人間の運命を静かに受容するということは、理性とも勇気とも密接な関係があるはずです。諦めとか禁欲とかいう行為は、晩年を迎えた人間にとって、すばらしく高度な精神の課題だと私は思うのです」
しかし、続いて登場する次の発言には、首を傾げざるをえません。
「収入が少なくなれば、支出を減らすのが当然です。しかし、食費はあまり削ると、健康によくありません。冠婚葬祭くらいから切るのがいちばんいいように思います。結婚式やお葬式というものは、出席することが楽しみな人と、そうでない人とがはっきり分かれるものです。人中に出るのが好きではない私は後者です。
結婚式は疲れてしょうがないし、お葬式に出るとなんとなく悲しいし、寒い日などは風邪を引く。ロクなことがありません」
うーん、これは少しおかしいんじゃないですか?
偉大な女流作家に対して細かなツッコミは控えたいと思いますが、少なくとも他人の葬式に出ないことが「老いの才覚」であるとは思えません。



著者は、どうしても葬式に行きたい人がいれば、故人の話をしながら一杯飲んでくるというレクリエーションとして使うことをすすめています。
昔は、貧乏で毎日晩酌することができない人がたくさんいました。
そういう人々にとって、葬式や結婚式は、へべれけに酔ってもいいという得難い機会でした。昔はまともに食事もできない貧しい人も多かったので、お腹いっぱい食べられる機会は貴重であったとして、著者は次のように述べます。
「自分の死によって、あまり関係のない人にもごく自然な形で幸せを与えられるといった機会は、そうそうありません。世界には、知らない人の結婚式に、通りがかりの人が立ち寄って祝福を与え、ごちそうになって当然という国もあります。それも幸せを分配する1つのやり方なのかと思います。
しかし、高齢者を労るなら、来なくてもいい、というふうにして、好きなほうをとらせていただきたい。とくに75歳以上の後期高齢者は、もう人生の持ち時間も長くないのだし、健康に問題が生じても当然の年齢だから、浮き世の義理で何かをすることからは、一切解放するという社会的合意を作ったらどうでしょう。少なくとも、冠婚葬祭からは引退することを世間の常識にしてほしいですね。
私なんか、かなり前から義理を欠いています。大切なのは生きている間だと思っていますから、お葬式は時々失礼します。生きているうちなら見舞いに行くのも大切なことかもしれない。でも亡くなった後は、魂はどこにでも遍在するのですから、何も葬式の場に行かなくても家で祈ればいいことです」



いやあ、これを読んだときは本当に驚きました。
わたしは著者のことを敬虔なカトリックの作家だと思っていました。
しかし、結婚式や葬儀という人間の「魂」に関わるセレモニーを単なる飲食の機会としてとらえているとは大変なショックでした。
「冠婚葬祭からは引退することを世間の常識にしてほしいですね」とか、「大切なのは生きている間だと思っていますから、お葬式は時々失礼します」とか、「魂はどこにでも遍在するのですから、何も葬式の場に行かなくても家で祈ればいい」などの言葉からは、かの島田裕巳著『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)さえ連想します。
島田裕巳氏といえば、ブログ『人はひとりで死ぬ』に書いたように「孤独死肯定論者」ですが、曽野綾子氏も孤独死を肯定しているような発言を次のように述べています。
「人間は群棲する動物なのでしょうけれど、孤独にならざるを得ない場合があります。動物のドキュメンタリーを見ていても、『群れを離れた』という場面はよく出てきます。そういうこともあり得るのだと覚悟をしなければならない。いっそのこと、『老年は孤独で普通』と思ったらどうでしょう。そして、皆が孤独なのだから、『自分は一人ではないのだ』と考える。結局のところ、人間は一人で生まれてきて、一人で死ぬ。家族がいても、生まれてくる時も死ぬ時も同じ一人旅です。赤ん坊はよく泣きますね。記憶はありませんが、すごく辛いのだと思います。おむつが汚れたり、お腹が空いたりしても、口が利けないのですから、辛くてたまらないでしょう。それを経て皆、大きくなる。人間の過程の一つとして、老年は孤独と徹底して付き合って死ぬことになっているのだ、と考えたほうがいいのではないか。私はそう思います」



わたしは、著者が言うように、「人間の過程の一つとして、老年は孤独と徹底して付き合って死ぬことになっている」とは思いません。孤独という暗闇に放り出されないために、家族や隣人がいるのだと思っています。そして、血縁や地縁の「絆」を結びなおすための冠婚葬祭や隣人祭りのお手伝いに励んでいます。
本書を読むと、著者と夫君である三浦朱門氏は、お互いが亡くなっても葬式をあげず墓も造らないと言い合っているようですが、わたしは「じゃあ、何のために結婚して夫婦となり、家族を持ったのですか?」と訊ねてみたくなりました。
結局、著者は信仰者というよりは1人の物書きなのだと思います。物書きは世間の常識にとらわれず、むしろ常識から逸脱しているほうが優れた作品が書けることがあります。
ですから作家には変人が多いわけですが、つまりカタギではないわけです。基本的にカタギの人はカタギでない人間の人生観に振り回されては危険だと思います。
作家には葬式無用論者が多いですが、それが彼らがカタギでないことの最大の証明ではないでしょうか。そして、そこには著書という生前墓を残していることの余裕と「自分は有名だから、葬式なんかしなくても、みんなが自分のことを記憶してくれる」という驕りがあるように思えてなりません。



第8章「神様の視点を持てば、人生と世界が理解できる」も、本来はキリスト教作家としての著者の真骨頂なのでしょうが、葬式を飲食の場ととらえる考え方を知ってからは、正直言って興醒めです。著者は、次のように述べています。
「神はいないと言う人が多いけれど、神なしで生きられるなら、それでいい。しかし私は、神という概念がないと、人間という分際を逸脱する気がします。
信仰を持つと、価値判断が一方的になりません。世の中には、神も社会もいいと言うものがある。一方で、世間は褒めそやすけれど、神は『そんなことはよくない』と思われるようなこともある。社会がよくないと言ったり悪だと糾弾したりしても、神は『それは正しい』と言うものもある。もちろん、神も社会も『よくない』と言うこともある。神が存在していることによって、物事をもっと複眼で見ることができるようになるのです」
著者は、神の存在を信じて生きてきた人です。
なぜ、カトリックが結婚式や葬儀を大切に扱うのか。それは、そこに神の祝福があるからであり、そこがイエスの説いた「隣人愛」の場であるからです。「神は必要である」というのと「葬式は必要でない」というのは、わたしには矛盾としか思えません。



著者は、神について次のようにも述べています。
「私は、孤独と絶望こそ、人生の最後に充分味わうべき境地なのだと思う時があります。この2つの究極の感情を体験しない人は、たぶん人間として完成しない。孤独と絶望は、勇気ある老人に対して『最後にもう一段階、立派な人間になって来いよ』と言われるに等しい、神の贈り物なのだと思います」
この箇所も、わたしにはよく理解できませんでした。
わたしは、孤独と絶望を感じがちな人間に対して「あなたは、1人ではない」「絶望する必要はない」と気づかせるのがキリスト教の神のような気がするのですが。
著者の立場は、無神論者とはいわないまでも、ニヒリストに近いものを感じます。
それは先に述べたように、著者は信仰者である前に作家であるからかもしれません。
本書の最後には「神われらと共に」(別名・浜辺の足跡)という詩が掲載されています。
ブラジルの詩人であるアデマール・デ・パロスの作品ですが、非常に感動的な内容です。しかし、本書全体の末尾にふさわしい詩だとは思えませんでした。なぜなら、人はいつも神とともにあり、けっして孤独ではないし、絶望することもないというのがパロスの詩のメッセージだからです。



最後に、著者は今から40年以上前にも『戒老録』という「老い」についての本を上梓していることを知りました。著者が30代後半の頃でしょうか。じつは、わたしもその年代の頃に書いた文章をまとめて『老福論』(成甲書房)という本を書いています。
「人は老いるほど豊かになる」という副題を持つ同書で、わたしは「こんなふうに老いたい」という憧れを綴りましたが、実際に年齢を重ねないとわからないことも多いでしょう。
わたしも、いつか後期高齢者になったときに、もう一度、「老い」について書いてみたいと思いました。たぶん、そのときも、わたしは「人は老いるほど豊かになる」ということを訴えるのではないかと思いますが・・・・・。


                  人は老いるほど豊かになる


2011年9月19日 一条真也