『義功和尚の臨済録』

一条真也です。

東京から小倉に帰ってきました。
わが社のみなさんが昨夜のニュースを見て、わたしが帰宅難民ならぬ「帰泊難民」になっているのではないかと心配してくれたそうです。本当に、ありがたいことです。
帰宅してから、ブログ「受章祝賀会」での引出物を開けてみました。
すると、桐箱に入った高級ドラ焼(菊の御紋入り)とデジカメがその内容でした。
さて、『義功和尚の臨済録』小林義功著(致知出版社)を再読しました。


                とにかくわかりやすい、禅の奥義


禅は、今や世界中に広まっています。
しかし、「禅とは何か」ということになると、難解であるというのが通説です。
なぜ、禅は難しいのでしょうか?
著者は、禅が難解だとされる原因に『臨済録』の存在があるといいます。
臨済録』とは、臨済宗のバイブルに相当するものです。
でも、これを読んでも「わかった」と実感できる人がいったい何人いるでしょうか。
原点である『臨済録』があやふやでは、臨済禅師の主体性が確立しません。
著者のそうした考えから、本書は生まれました。



本書を読むと、驚くほど平易に解説されており、とにかくわかりやすいです。
たとえば有名な「随所に主と作れば、立処皆な真なり」の中の、「屙屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえつきっぱん)、困(こん)じ来たれば即ち臥す。愚人は我れを笑う、智は乃(すなわ)ち焉(こ)れを知る」という一文があります。
著者の手にかかると、この難解な文章が次のようになります。
「小便をしたくなったら小便をし、大便をしたくなったら大便をする。朝起きたら着物をき、顔を洗ってご飯を食べる。一日バタバタ働いて夜になったら寝るだけだと。私達の生活はこれの繰り返し、あたり前の毎日であります。このあたり前のところに応じて心が動いていく。そこに安心があり、悟りの境地がある。しかし、愚か者にはそこがさっぱり分からない。しかし分かるものにはちゃんとわかっている」
こんなふうに劇的にわかりやすくなるのです。本書は、禅の奥義を万人に知らしめる、画期的な『臨済録』の解説革命であると言えるでしょう。


2011年9月23日 一条真也