『最終講義』

一条真也です。

『最終講義』内田樹著(技術評論社)を読みました。
「知のフロントランナー」として、また「アルファ・ブロガー」として、日本の言論界に多大な影響力を持つ著者の大学教授としての最終講義が収められています。
その他、これまでの多くの講演の中から「名演」を選び抜いて収録しています。
さまざまな難問を抱えた現代日本を生きるための講演録と言えるでしょう。


                   生き延びるための六講


本書には、6つの講義や講演が収められています。以下の通りです。
1. 最終講義(神戸女学院大学)2011年1月22日
2. 日本の人文科学に明日はあるか(あるといいけど)
京都大学大学院文学研究科講演)2011年1月19日
3. 日本はこれからどうなるのか?――“右肩下がり社会”の明日
神戸女学院教育文化振興めぐみ会 講演会)2010年6月9日
4. ミッションスクールのミッション
大谷大学開学記念式典記念講演)2010年10月13日
5. 教育に等価交換はいらない(守口市職員組合講演会)2008年1月28日
6. 日本人はなぜユダヤ人に関心をもつのか
(日本ユダヤ学会講演会)2010年5月29日



最終講義において、著者は次のように語り、いきなり笑わせてくれます。
「正直申し上げて、着任当時は、たぶん定年まではいられないだろうと思っていました。きっと何か問題を起こして、始末書とか譴責とか減給とか懲戒とか、そういうことがいつかあるんだろうなと漠然と思っておりました。いちばん気がかりだったのは、傷害事件を起こすことでした。こちらに来る前、89年くらいまではときどき街頭で殴ったり殴られたりということがまだありまして(笑)、そんなことをしたら、大学教員という立場上困ったことになる。かといって私も武道家のはしくれですから、目の周りに青あざを作って登校するわけには参らない。降りかかる火の粉は払わねば、私を師表とするお弟子のみなさんに顔向けができない」



その後、著者は「リベラルアーツ」の話から「礼」の話へとつなげます。
西洋では「リベラルアーツ」と呼ぶものを、東洋では「六芸」と呼びます。
「六芸」とは、孔子が君子の学ぶべきものにあげた6つの技芸であり、礼・楽・御・射・書・数のことです。そして、礼とは死者を祀ること、楽は音楽、御は馬を操ること、射は弓を射ること、書は字を書くこと、数は計算すること。
以上のように説明した上で、著者は次のように述べます。
「第1位に来るのは礼です。儀礼のことです。死者を祀る、あるいは鬼神を祀る。
『死者』というのは『もう存在しない』ものです。しかし『存在するとは別の仕方』で生きている者たちに生々しく触れてくる。『生物と無生物のあいだ』にわだかまっているもの、それが死者です。死者はもう存在しません。でも、実際には、私たちは絶えず死者に呼びかけ、死者に問いかけ、かえって来るはずのない死者からの返答に耳を澄まします。死者は私のこのふるまいをどう見るだろう。どう評価するだろう。このような判断を是とするだろうか非とするだろうか。そういうことを僕たちはいつも考慮しながら日々の選択を下しています。死者はそこに存在しないにもかかわらず、むしろ存在しないがゆえに、生きているものたちの判断や行動の規矩となっている。『存在するとは別の仕方で』生きている私たちに影響を与え続けるもの、それが死者です。死者に問いかけ、死者からのメッセージを聞き取ること、それが礼の本義だと僕は理解しています」
礼の本義を「死者からのメッセージ」とすることも素晴らしいですが、このような内容の話を最終講義で堂々と展開する著者を尊敬してしまいます。



わたしたちは、いつでも「存在しないもの」と関わっているといます。
人がすでに言い終わった言葉を聞き、人がまだ話していない言葉を聞くのが「話を聞く」ということだと著者は述べます。思考するというのも同じことで、「存在しないもの」との関わりなしには、わたしたちは思考することさえできない。著者は、「存在しないもの」との関わりなしに、わたしたちは人間であることができないとさえ言います。
ですから、人間的な学のスタートが「礼」という「存在しないもの」との関わりについての技芸であるのは論理的にも自明のことだというのです。



現在の大学では、いわゆる「実学」がもてはやされています。そこで、文学研究などは存在価値を認められにくくなっているわけですが、著者は文学研究とは「存在しないもの」と関わるもっとも有効な方法であるとして、「『コミュニケーション能力』というと、目の前にいる人が発する言葉を誤らずに聴き取るとか、自分の伝えたいことを簡明に伝わるようにすることだとふつうは思います。でも、僕はそれは違うと思う。コミュニケーションというのはもっと広い。目の前にいる人だけでなく、もっと遠く、『存在しないもの』とのコミュニケーション能力もそこに含まれなければならない」と述べます。
さらに、著者は文学部の存在意義についても次のように述べます。
「今の大学で『存在しないもの』とかかわることを主務としているのは文学部ばかりです。世界内部的に存在しないものとかかわるもっとも有効な方法の1つが『文学研究』です。もしかするとあなたは自分がされている経済学というものがあたかも実体的なものを対象にしているかのように思っているかもしれないけれども、それはたいへんな勘違いです。だって、『市場』とか『需要』とか『消費動向』とか『欲望』のどこに、実体があるんです。『欲望』なんて全然実体ないですよ。『存在しないもの』の最たるものです。欠如とか不足というのは事実としてあるかもしれない。けれども、『ない』から『欲しい』までの間には文字通り『千里の逕庭』があります」
これは学問の本質を衝く、非常に的確な意見であると思いました。



最後に、著者はキリスト教教育にもとづく女子大での最終講義にふさわしく「神」や「隣人」への愛を次のように説きます。
「『神を愛すること』、世界に慈愛と正義をもたらしきたすこと。それは非常に総称的で、一般的なことです。今ここですぐに実現できることではない。でも、一方の『隣人を愛する』というのは今ここで、目の前で行うことができる。『隣人を愛する』というのは、隣人に自分の口からパンを与え、自分の服を脱いで着せかけ、自分の家の扉を開いて自分の寝台を提供する。そういう具体的な営みを意味しています。比喩ではなくて、文字通りにそのようにふるまうことを聖書は求めている。そして、そのような具体的な営みの裏付けがない限り、神を愛するという行いは達成しない。自分自身の今ここでの生身の身体が実現できるところから慈愛と正義をこの世界に積み増してゆく。永遠に実現されないかもしれないはるかな理想と、今ここで実践しなければならない具体的行為は表裏一体のものであり、一方抜きには他方も成り立ちがたいということを『愛神愛隣』という言葉は伝えているのだと僕は思います」
「愛神愛隣」という言葉は初めて知りましたが、なかなか奥の深い言葉ですね。



2番目の「日本の人文科学に明日はあるか(あるといいけど)」では、「危機的局面であるほど上機嫌であれ」という発言が印象的でした。
医師の目の前に患者がいて、まったく症例のない未知の症状だったとします。
しかし、「わかりません」と診療拒否をすることは許されません。とにかく何らかの診断を下して、治療行為にとりかからなければならないのです。そのためには自分の知的身体的なパフォーマンスを最高レベルに維持することが求められます。
そして、判断力や理解力を最大化するためには方法は1つしかないと著者は言います。
それは「上機嫌でいる」ということだそうです。著者は、次のように述べます。
「にこやかに微笑んでいる状態が、目の前にある現実をオープンマインドでありのままに受け容れる開放的な状態、それが一番頭の回転がよくなるときなんです。最高度まで頭の回転を上げなければ対処できない危機的局面に遭遇した経験のある人なら、どうすれば自分の知性の機能が向上するか、そのやり方を経験的に知っているはずなんです。悲しんだり、怒ったり、恨んだり、焦ったり、というような精神状態では知的なパフォーマンスは向上しない。いつもと同じくらいまでは頭が働くかも知れないけれど、感情的になっている限り、とくにネガティヴな感情にとらえられている限り、自分の限界を超えて頭が回転するということは起こりません。
真に危機的な状況に投じられ、自分の知的ポテンシャルを総動員しなければ生き延びられないというところまで追い詰められたら、人間はにっこり笑うはずなんです。それが一番頭の回転がよくなる状態だから。上機嫌になる、オープンマインドになるというのは精神論的な教訓じゃないんです。追い詰められた生物が採用する、生き延びるための必死の戦略なんです」



著者は、学者の「アカデミック・ハイ」という状態について語ります。ひたすら論文を書き続けているような生活をしているとき、ある日、ぐいっと深く「入る」ときが来る。
「ゾーンに入る」ともいいますが、この「入る」瞬間は強烈な恍惚感を伴うそうです。鼻の奥が焦げくさくなり、脳が熱くなり、脳内物質がドカンと放出される。そして、そのときに、自分がしていることのすべて、これからするはずのことのすべてが一望俯瞰できるというのです。そのとき、研究者は何かを背負っているとして、著者は次のように述べます。
「『フロントラインに立つ』というのは、自分の背後に何かを感じるということです。自分が前線を前に押し出す力を感じるということです。それは自分自身の業界内的な格付けを上げるとか、業績を評価されて大学のテニュアを獲得するとか、著書が売れるとか、学会賞をもらうとか、そういう個人的なことじゃないんです。別にそれが倫理的にいけないという意味ではないんです。自己利益を動機にして研究していると、『頭の回転数』がある程度以上は上がらないから、それじゃダメだと言ってるんです。人間は『自分のため』では力が出ないものなんです」
つまり、「私」につながる動物脳だけでなく、「公」につながる人間脳を駆使して、はじめて脳がパワーアップするということではないでしょうか。
さらに、著者は次のように「知性」について述べています。
「知性というのは、その持ち主の私物ではない。それはとりあえずは『天賦のもの』なんです。自分で努力して手に入れたものじゃない。生まれつきそこにあったものです。だったら、それはある種の『謎』としてとらえるべきでしょう。感謝と畏怖の念を以て遇するべきでしょう。それを利用して、自己利益を増大させるというような使い方をすべきではない。まして、自分で設定した『目的』を果たしたら、『用済み』にして物置に放り込んでおくというような扱いが許されるはずがない」
「知性」というものも、「公」に属するのかもしれません。



3番目の「日本はこれからどうなるのか?――“右肩下がり社会”の明日」では、政治通でもある著者の知識が全開という感じでした。
「ざっくり言ってしまうと、今の自民党は福田派、今の民主党田中派が作っている政党なんです。かつての二代派閥が二大政党にかたちを変えたんです」とか 「中国で言うと、福田派が訒小平田中派毛沢東の路線に近い」 などの直言が心地良い。
また、「時代は『貧乏シフト』しつつある」という話が興味深かったです。
なぜなら、そこでは日本人における理想の隣人関係が語られていたからです。
著者は、次のように述べています。
「僕と同世代の方はご存知かと思いますが、1950年代って貧しい時代でした。ですから、限られた資源をお互いに共有し、融通し合った。関川夏央さんはこれを『共和的な貧しさ』と呼んでいました。そういう相互支援・相互扶助のマインドは1960年代のなかばまでは、都市住民の間にも色濃く残ってました。
この間、久しぶりに小津安二郎の映画『秋刀魚の味』を見ていたら、岡田茉莉子がトントンとアパートの隣のうちにやってきて『ちょっとトマト貸してよ』と言って、トマト2個借りていくというシーンがありました。隣に行ってビール借りたり、トマト借りたり、醤油借りたりということは、しょっちゅうあったんです。でも、その風習も、65年くらいには消えてしまいました。それまでは、ちょっと隣に行って借りてくるというのはふつうのことだったんです。限られた資源はみんなで使い回しをするものだということは社会的な合意だったんですね。みんな貧しいから。みんなが生き延びるためには、ちょっとでも余裕があるものは、それを独占しない、退蔵しない。別に特段に博愛主義的な人でなくても、みんながそれを当然のルールと見なしていた。それだけ日本が貧しかったということです」



また、「自殺は平和な時代に上昇する」も興味深かったです。日本が「共和的な貧しさ」を脱して「自分だけの豊かさ」を志向するようになったとして、著者は述べます。
「日本が豊かになったら、みんな競争して、自己利益の追求をすることができるようになった。人のことなんか顧慮せず、われひとりよければ、それでいいという時代になった。そういう不人情な時代になったのは、競争に負けて社会の下層に落ちた人間でもとりあえず食っていける保証があったからですね。負けても、命まで取られるわけじゃないと思うから、リスクヘッジも考えずに、あるかぎりを勝負につぎ込むことができる。だから、手銭がかつかつでも、平気な顔で勝ち負けを競う。そんな時代がずっと続いてきた。
今、社会の情勢が変った。というのは、勝負に負けた人間にはもう這い上がるチャンスが巡ってこないんじゃないか、うっかりすると路頭に迷うことになるんじゃないかという不安が深まってきたからです。



そして、次の発言はまことにショッキングで考えさせられるものでした。
「日本の場合、意外なことがわかったんです。過去100年間の統計を見ると、自殺率が一番高い年はなんと1958年なんですよ。僕の記憶では、1958年っていうのは文字通り『ザ・ゴールデンイヤー・オブ・ジャパン』なんですけれど、その年の自殺率が一番高いんです。自殺率に関しては、世界中のすべての国に該当する法則があります。それは、戦争しているときには下がるということです。人間というのは、人を殺すことに忙しいときには自分は殺さない。だから、戦争中はどの国も自殺率が激減するんです。戦争が始まると、自殺者と精神疾患者数が激減する。戦争中は精神科の待合室にも閑古鳥が鳴いている。相当に悪い人でも戦争が始まると治っちゃうみたいです。
日本の場合、自殺率は1958年に突出して高い。それから下がっていく。次に67年に上がる。その後、小さい上下の波が何度かあり、バブル崩壊直後にまた自殺率がドンと下がるんです。そしてまた上がって現在に至る」



その後、なんと著者は今後の日本復興プランを描きます。
そこでは、もう産業立国はだめで、一番有望なのは、医療だといいます。
著者は、「医療が最も有望な日本のセクターでありまして、東アジアはもとより世界レベルで考えても、日本の医療技術は世界最高水準です」と述べます。
また、著者は「医療」に続いて「接客サービス」も有望だとして、次のように述べます。
「これは間違いなく、日本の接客は世界最高ですね。これは海外に旅行された方はどなたも同意していただけると思います。どういうわけだか、日本人にはもう子どもの頃から身についてしまったホスピタリティがあるんです。だから、どんな子でも接客させるとうまいんですよ。高校の文化祭とかで、喫茶店とかやるじゃないですか。同級生の女子たちがエプロンつけて『いらっしゃいませ』ってやるのが、驚くほど板についているんですね。別に家でお店をやってるわけじゃないし、そんなバイトの経験があるわけじゃなくても、幼稚園のころから『お店屋さんごっこ』で洗練してきて身についたホスピタリティがあるんです。フランスとかアメリカに行ったって、あんな笑顔で接客してもらうことなんてない。『なんでこんなに意地悪するんだろう』と思うくらいに接客態度が悪いでしょう。もちろん、それなりに高いお金を出してレストランやホテルに行くと、日本に近いサービスが受けられる。ということは、日本のサービスってすごく安いということですよね。フランス人から見たら、三ツ星レストランや五ツ星ホテルに行かなければ経験できないレベルの接客サービスが、千円札出せば受けられるんですから」


4番目の「ミッションスクールのミッション」では、「倍音は宗教儀礼の核心部分」というのが面白かったです。著者によれば、倍音は宗教儀礼の核心的な部分にあるといいます。「音楽の魅力は倍音の喜びだ」という言葉もあるとか。
宗教儀礼において、倍音は非常に重要視されます。
キリスト教の教会音楽も、仏教の読経の声明も倍音を効果的に使ってます。宗教儀礼倍音は切っても切れない関係にあるわけですが、著者は次のように述べます。
「この倍音声明でひとりひとりに聞こえてくる倍音というのは、外在するもののようでありながら、実は『自分が最も聞きたいと思っている音』を選択して聞いている。どうしてそういうことが起きるかと言うと、倍音を脳は『上から降ってくる』ように聞くからです。そして、あらゆる社会集団はそれぞれの神話やコスモロジーに基づいて、固有の『天上から到来する音』についてのイメージを持っている。ですから、倍音を聞くというのは、種族のコスモロジーを身体的に感知するという経験に等しいわけです。そして、ひとりひとりの霊的な成熟度に応じて、聞こえる音が違ってくる」


 
著者は、もしかすると「倍音的な文学」というものがありうるのではと思ったそうです。
それは、著者が太宰治を読んでいるときに思ったことだとか。著者いわく、倍音というのは、それを受け取る受信者の側の霊的な成熟度、その人が内面化している「種族のコスモロジー」、思想、美意識、価値観、そういったものに則して分節されてゆきます。
そのために「倍音的な文体」で書かれた文章を読んだ読者は、そこに自分だけに宛てられたメッセージを受信することになるとして、著者は次のように述べます。
太宰治の系列に直接連なるのがたぶん村上春樹だと僕は思っています。あの人も間違いなく倍音的な書き手だと思うんです。そうでないと、世界各国、十数ヵ国語に作品が訳されていて、世界に数千万単位の読者が彼の新刊の発表を待っているような事態は起こり得ない。今、一番人気があるのはロシアと中国で、あとアメリカ、ヨーロッパはもちろん、東アジアでも人気が高いですね。韓国、台湾、インドネシアなどなど。言語も宗教も政治体制も食文化も生活習慣も全く違うところで、読者たちが『ここにはまるで自分のことが書いてある』というふうに感じる。これは倍音的文体の効果以外のなにものでもないと僕は思います。おそらくそれは、村上さんが非常に努力をされて、ある種の倍音的な文体に至ったのではないかと」



そして、著者は「教育」の本質について、次のように語ります。
「教育というのは、まず要求があって、それに対して『はい、これがお求めのものです』と言って差し出して、引き換えに代価を受け取るというものではないと僕は思います。教育は商取引ではありません。最初は無償の贈与から始まる。教わりたいという人がいなくても、『私にはぜひ教えたいことがある』という人が勝手に教え始める。聞きたい人がいれば、誰にでも教えますよという、教える側の強い踏み込みがあって教育は始まる。まず教える側の『教えたい』という踏み込みがある。それに対して、『教わりたい』という生徒の側の踏み込みがある。教える側の踏み込みと、教わる側の踏み込みが、両方成立したときに、初めて教育というのは成立するのではないか、と」



この著者特有の教育論は、5番目の「教育に等価交換はいらない」でも遺憾なく発揮されます。著者は、ここで「実学」について次のように述べています。
「みなさん、『実学』ということを軽々に口にされますが、あらためて『実学って何のことですか?』と聞くと、絶句してしまう。『実用性の高い学問のことです』というふうに答える人もいる。では、と重ねて訊きます。『天文学実学ですか?解剖学は実学ですか?考古学は実学ですか?数学は実学ですか?』すると答えられない。天文学が有用な学問であることは誰だってわかります。でも、自分の子どもが『天文学者になりたい』と言ったら、たぶん『そんな夢みたいなこと言うんじゃないわよ』って言うんじゃないですか。
みなさんがおっしゃってる『実学」というのは有用性とは関係がないんです。要するにそれは『教育投資が迅速かつ確実に回収できるような学問領域』のことなんです。医学部に入って国家試験に受かって医師になれば教育投資が効果的に回収できる。あるいは法学部に行って司法試験に受かって弁護士になれば、経済学部に入って一流上場企業に入ればなどなど。実学における有用性というのは、つきつめて言えば『労働市場が高い値を付けること』つまり、『教育投資の元金がすぐに回収できること』のことなんです。それを平然と『実学』と称している」



まことに胸のすく啖呵と言えますが、さらに著者は次のように続けます。
「学校を『店舗』、子どもたちや保護者を『顧客』、教育活動を『商品』というふうに見立てると、どうなるか。消費者であるところの『お子さまたち』や『保護者さま』の前にさまざまな教育コンテンツを差し出して、その中で一番費用対効果のいいものを『お客様』にお選びいただく、と。そんなことをしたら、その後子どもたちがまじめに勉強するはずがないという単純な理屈がどうしてわからないのか、僕はそれが不思議です。だって、『お客様は神様』なんですよ。『神様』というのは単に店舗や従業員に対して上位者としてがみがみ注文をつけることができるという意味だけではありません。全知全能のものとして、『そこで行われていることはすべてお見通しだ』と宣言できる存在だということです。子どもが『そこで行われていることはすべてお見通しだ』とうそぶきながら教室に登場してきたときに、学びが成立すると思いますか?」
卓見です。「まさに、その通り!」としか言葉がありません。



著者は、意味や有用性は後になってから実感するものだといいます。
そして、近代までの幼児教育が素読を基本としていたことを例に出します。
明治の始め頃まで、教育といえば『論語』などの四書五経を暗誦することだったとして、著者は次のように述べます。
「子どもに四書五経素読なんかさせたって、学問的有用性はまったくないんです。では、いったい何を教えているのかというと、『子どもには理解できないような価値が世界には存在する』ということそれ自体を教えているわけです。『お前が漢籍を学ばなければならない理由を私は知っているが、お前は知らない。』という師弟の知の非対称性そのものを叩き込んでいるわけです。極端な話、漢籍の内容なんかどうだっていいんです。子どもに『手持ちの小さな知的枠組みに収まるな』ということを殴りつけて教え込んでいる。子どもに『オープンエンド』ということを教え込んでいる。それさえわかれば、あとは子ども自身が自学自習するから」



そして、著者の教育論は佳境に入り、次のように述べます。
「教師の仕事というのは『すべての子どもに対してドアを開く』受容性と同時に、『子どもがそれにしがみついている狭隘な価値観を壊す』否定性と、その両方を持っていなければならないということです。受け容れるが、否定する。否定するが、受け容れる。これはたいへん大事なことです」
著者は、「矛盾」という言葉について改めて考えたことがあるそうです。
矛盾というのは『韓非子』に出てくる逸話ですが、通常の意味とは違う意味が「矛盾」には込められているのではないかと気づいたとか。著者は、次のように述べます。
「『韓非子』というのは、いかにして強国を作るかという、きわめてリアルな目的だけのために書かれた本なわけです。その中にこの逸話が出てくる。それは実は『徳のある君主(賢者)が礼によって民衆を徳化して治める国家』と『強権的な君主(勢者)が厳しい法律を以て治める国家』のどちらが国家としてよろしいか、という議論の中で出てくるのです。ふつう韓非は儒家の徳治を否定して、法治を唱えた法家の思想家だと教科書では習います。でも、韓非が法治の方が有効だとほんとうに思っていたなら、徳治と法治は『矛盾』しないことになる。もしほんとうに韓非が勢者による統治が正しいということを述べたいのであれば、『韓非子』は賢者による統治の失敗例と、勢者による統治の成功例の事例集であったよかったはずです。でも、そうじゃないんです。『韓非子』には賢者統治の成功例も、勢者統治の失敗例も両方とも採録されている(その方が多いくらいです)。どうも、韓非は徳治と法治の両極の間でふらふらしているのが、健全な政治の様態だと思っていたのではないか。韓非の関心はどうやって国を強くするか、という点にしかなかった。その韓非が採用したのが『矛盾』という『解けないソリューション』だったのではないか、と僕は思うのです。
著者いわく、統治の要諦とは「相容れないものを相容れないままに共存させること」だと韓非は考えていたのではないかというのです。
というのは、著者自身が長く合気道という武道を稽古してきた実践的な経験の持ち主ですが、武道の術理というのは「両立しないことを両立させる」点にあるからだといいます。
なんだか西田幾多郎の「絶対矛盾の自己同一」という言葉を連想してしまいますが、こういった武道家ならではの体感的思考は著者の専売特許だという印象を持ちました。



最後の6番目の「日本人はなぜユダヤ人に関心をもつのか」は、日本的オカルトの精神史を解き明かすという興味もありました。
なぜ、日本人とユダヤ人のルーツが同じであるという「日猶同祖論」などが生まれてきたのか。この問題について、著者は次のように述べます。
神州日本の霊的な卓越性、あるいは文化的卓越性の本質をなすものとして伝統的な日本武道がある。欧米の人間には逆立ちしても絶対理解できないような深い文明的な至宝が日本にはあるんだ、と。そう思って、僕は武道に向かった。それと同時に、アメリカを代表とする帝国主義列強を眼下に睥睨する霊的・知的な高みにあるユダヤ教思想に憧れた。尊王攘夷気分と霊的卓越性への憧れ、それを僕はなんとか個人的に結びつけようとしていたわけです」
ここでも、著者の武道家的思考が炸裂しているわけです。
全体として、本書に収められている主張は、著者の従来主張のリピートでした。
しかし、書き言葉ではなく、話し言葉で放たれた著書の情熱的なメッセージの数々は、非常に魅力的でした。大学教授というポストを卒業した著者は、今後何を語るのか。
これからも内田樹という言論者から目が離せません。


2011年9月27日 一条真也