『よろずのことに気をつけよ』

一条真也です。

よろずのことに気をつけよ川瀬七緒著(講談社)を読みました。
いま話題のミステリーで、第57回江戸川乱歩賞受賞作です。 
帯には、「被害者は呪い殺されたのか! 謎が謎を呼ぶ、呪術ミステリーの快作」とのキャッチコピーに続いて、「変死体のそばで見つかった『呪術符』の意味は? 呪いと殺人の謎に文化人類学者が挑む!」と書かれています。


                    呪術ミステリーの快作


18歳の真由は、殺された祖父の家から見つかった呪いの札を持って、文化人類学者の仲澤のもとを訪れます。そして、ここからドラマが始まります。
文化人類学について、本書の冒頭で次のように説明されています。
文化人類学と言っても分野はいろいろある。習慣や信仰、神話から都市伝説に至るまで、民間伝承の要素があれば成り立つ学問だと言えるだろう。なかには『呪術』なんてものを専門にしている変わり者もいる。埃をかぶった古文書を紐解き、各地に残る風習を拾い集めて、呪術の系譜を明らかにしようというわけだ」
「仲澤」という名前から、本書に登場する文化人類学者のモデルは中沢新一氏のように思えますが、専門分野から見ると上田紀行氏のようでもあります。
でも、本書に描かれている仲澤のちょっと間抜けな「ゆるキャラ」は、かの金田一耕助を連想してしまいます。「呪い」というオドロオドロしいテーマも、『八つ墓村』とか『獄門島』とか『悪魔の手鞠唄』といった一連の横溝正史シリーズを思わせますね。



ネタバレを防ぐために、詳しいストーリーは控えたいと思います。
でも、本書を読めば、「呪い」のメカニズムをわかりやすく知ることができます。
たとえば、森居という刑事が「人を殺せるほどの怨念は本当にあるのか」と仲澤に質問する場面があります。森居は、「呪い」などという浮世離れしたものを研究している仲澤のことを理解できないのです。それに対して、仲澤は答えます。(以下、引用)



「怨念があるかないかと言われれば、あるほうに一票ですよ」
「立場上、そっちに一票は当たり前か」
森居は節をつけておどけたが、若干鼻白んだ。
「ただ、刑事さんの言う、人を殺せるほどの怨念に関しては、一方だけの念では成立しないと考えていますよ」
「というと?」
「呪われることをした自覚が受け手にある場合に限って、効果が高まるものだということです。つまり、呪詛されるかもしれない恐怖だけで、精神不安に陥るし体調も崩す。要は、これが呪いにかかった状態だと言えるわけです。刑事さんもおわかりのように、呪術は心理戦なんですよ」
「ある種の駆け引きが必要ってわけだ。内面の問題が大きいうえに、呪い人、呪われ人が1セットで成立か」
(『よろずのことに気をつけよ』P.50)




この仲澤と森居のやり取りは、呪術のメカニズムについて平易に説明していると思います。もともと、「呪い人、呪われ人が1セットで成立」という考え方を文化人類学では「ブードゥー死」と呼び、非常に有名な説として知られます。ブログ『現代人の祈り』ブログ「呪いの物語、癒しの物語」でも、「呪い」について書きましたね。



呪術以外にも警察の捜査手法とか、鳥のこととか、果てはコーヒーの種類まで、本書にはさまざまなウンチクが満載で、「著者は博覧強記な人だな」と感心しました。
でも、巻末の掲げられている「主な参考文献」を見ると、『呪い方、教えます』とか『図解雑学 科学捜査』や『警察マニア!』とか、『鳥の形態図鑑』や『コーヒーの事典』などの手軽な実用書が多かったので微笑ましい気持ちになりました。



この作品を一言で言えば、怪談要素を持つミステリーといったところです。
とても読みやすく、最後まで一気に読破できます。惜しむらくはラストが平凡だったこと。映画というよりはテレビの2時間サスペンスの原作といった印象でした。
ただ、仲澤の変人ぶりや、真由の異常なまでの気の強さなど、登場人物のキャラが立っているので、シリーズ化されるかもしれませんね。



最後に、ストーリーの本筋にはあまり関係ないのですが、本書で心に強く残る場面がありました。殺された真由の祖父は元教師なのですが、総合病院の小児病棟で子どもたちに勉強を教えるというボランティアをしていました。
そこで4歳の時谷美奈子という女の子を教えていたのですが、祖父の死後、真由と仲澤が美奈子と次のような会話を交わすのです。(以下、引用)



「おじいちゃん先生はねえ、美奈子のココロは『カクザトウ』だって言ったの」
「へえ、なんだかおいしそうな心ね」
「うん、すごーくおいしいの。『カクザトウ』をそのままくちにいれたらすごーくあまいよ。そうでしょう?」
「そうね。お砂糖をそのまま食べるのと一緒だもんね」
「うん。でもねえ、おじいちゃん先生のココロはあまくないんだって」
「どうしてかな?」
「すごーくいっぱいあるお水の中に、『カクザトウ』をぽんってひとついれたのとおんなじだって言ってたよ。うんとねえ、お水がいっぱいすぎて、あまいあじがなくなっちゃったんだって」
美奈子は大きな身振りを交えて、何度もつかえながら一生懸命説明をした。
「みーんな、おんなじ『カクザトウ』をひとつだけもってママからうまれてくるの。うんとねえ、お水はジカンなんだって。おじいちゃん先生みたいにいっぱいいきたひとは、お水もいっぱいになっちゃうでしょう?えっと、だから『カクザトウ』はとけちゃって、あまいあじがなくなっちゃうって言ってたよ」
「そうか。じゃあ、子どもの角砂糖はみんな溶けてないんだな。だから心はすごく甘いわけだ」
「うん。美奈子はもうすぐしんじゃうとおもう?」
予告なく放たれた言葉に、僕と真由はまた押し黙るしかなかった。そんなことはないよと言うのは簡単だが、きっとこの幼児には通用しない。美奈子は、あたふたとしている僕の答えなんかを待たずに先を続けた。
「あのねえ、ココロとイノチは『カクザトウ』なの。とけないうちにしんだら、美奈子のココロはとってもあまいまんまで、お空にとんでいけるんだ」
(『よろずのことに気をつけよ』P.112〜113)



これを読んで、わたしは『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)に書いた、ドイツの神秘哲学者ルドルフ・シュタイナーの思想を思い出しました。
シュタイナーは、幼児などの早死にの問題に対して、画期的な考え方を示しました。
誰かが病気になり、通常の人よりも短命な一生を終えたとします。
その人は、通常の人生であれば、仕事をはじめとして十分に生かし切れたであろう力を死後も保持しています。早く死ななければ十分に発揮できたであろうような力が、いわば余力となって残っているのです。
その人の死後、その力がその人の意志と感情の力を強めます。
そして、そのような人は、早死にしなかった場合よりももっと強烈な個性や豊かな才能をもった人間として、再びこの世に生まれ変わってくるというのです。



子どもの場合もまったく同じです。幼くして死んだ子どもは、強力なパワーをもって霊界に参入し、天才として生まれ変わってくることが多いのです。長生きできる生命力をもっていた人間が不慮の災難に遭って、この世から去らなければいけないとき、その残された生命力はその後も使用することができるのです。
いわば、生命力には「エネルギー保存の法則」が働いているのです。
シュタイナーによれば、人類の歴史に影響を与えるような大発明家には、前世において不慮の死を遂げた人が多いそうです。このようなシュタイナーの思想は、幼い我が子を失った多くの親たちを慰めてきました。本書に登場する4歳の少女の発言から、わたしはシュタイナーのことを思い出したのです。
本書を読んで、グリーフケアのための良い言葉を1つ学ぶことができました。


2011年10月11日 一条真也