『創造的福祉社会』

一条真也です。

『創造的福祉社会』広井良典著(ちくま新書)を読みました。
以前、ブログ「ケアの時代へ」で紹介した本です。
千葉大学法経学部教授として幅広い活動をしている著者の本は、これまでにも『ケアを問いなおす』『死生観を問いなおす』『持続可能な福祉社会』『コミュニティを問いなおす』(いずれも、ちくま新書)などを読んできました。
ブログ『コミュニティを問いなおす』では、本書の前作となる著書の書評も書きました。


「成長」後の社会構想と人間・地域・価値



本書の「目次」は、以下のようになっています。
「序――本書をお読みいただく方へ」
【時間軸/歴史軸】私たちはどのような時代を生きているか
第1章:創造的定常経済システムの構想――資本主義・社会主義エコロジーの交差
【空間軸】グローバル化とローカル化はどのような関係にあるか
第2章:グローバル化の先のローカル化――地域からの“離陸”と“着陸”
1.コミュニティとしての都市――コミュニティ感覚と空間構造
2.地域の「豊かさ」とは何だろうか
【原理軸】私たちは人間と社会をどのように理解したらよいか
第3章:進化と福祉社会――人間性とコミュニティの進化
はじめに――「人間についての探求」と「社会に関する構想」をつなぐ
1.ケア/コミュニティの進化――人間社会の起源
2.「心のビッグバン」――第1の定常化?
3.「枢軸時代/精神革命」の意味――第2の定常化?
4.近代における「倫理の外部化」――マンデヴィル的転回
5.ポスト資本主義/定常型社会における価値
「参考文献」
「あとがき」



「序――本書をお読みいただく方へ」の冒頭には、次のように書かれています。
「本書は、“限りない経済成長”の追求という時代の後に実現されるべき社会のありようを、『創造的福祉社会』あるいは『創造的定常経済システム』というコンセプトを中心にして構想するものである」
この一文は表紙カバーにも記されており、本書全体の内容説明と呼べるものです。
著者も述べていますが、「創造的」という言葉ないしコンセプトは、通常「福祉」という概念とはあまり結びつきません。
いや、むしろ逆の方向を指しているという印象すらあります。
ましてや「創造的定常経済」については、次々と新たなものが創られ変化していくという含意の「創造的」という言葉と「定常」経済を結びつけるのは、語義矛盾であるという受け止め方が一般的かもしれないとした認めた上で、著者は次のように述べます。
「しかし本書の主張は、そうした一見対立するような『創造的』という概念と『福祉社会』あるいは『定常経済システム』が、むしろ相互に補強する関係に立つような社会ないし時代を、現在の私たちは迎えつつあるという点にある。さらに言えば、本書の中で構想していくような福祉社会あるいは定常経済システムという社会モデルを実現することによってこそ、人々の創造性が真に開花し実現されていく社会は可能になる、というのがここでの問題提起となっている」



第1章の「創造的定常経済システムの構想――資本主義・社会主義エコロジーの交差」の冒頭では、現在の先進諸国あるいは資本主義を、“生産性が上がりすぎた社会”であると見ています。著者は述べます。
「そこでは構造的な『生産過剰』が生じており、その結果とりわけ若年層を中心に失業が慢性化し、それが様々な格差や貧困を帰結させ、いわば『過剰による貧困』が一般化している。他方、いま述べた『生産過剰』とは、市場経済あるいは“貨幣に換算される経済”の領域に関するものであって、逆にケア、コミュニティ、自然といった、貨幣に換算するのが困難であるような領域――あるいは、十分な貨幣的な評価がなされにくい領域――に関する人々の欲求や関心はむしろ大きく生成しつつあり、社会起業家や協同労働、ソーシャル・ビジネス等々といった動きが各地域において展開しつつある」



著者は、ここ数百年の資本主義の展開を紹介しつつ、ひと回り視野を広げて「経済の拡大・成長と定常化」に注目します。この視点を軸に、人間の歴史の中でわたしたちが今立っている位置を考える著者は、次のように述べます。
「1つの手がかりとして、人類学や考古学の分野で、『心のビッグバン(意識のビッグバン)』あるいは『文化のビッグバン』などと呼ばれている興味深い現象がある。たとえば加工された装飾品、絵画や彫刻などの芸術作品のようなものが今から約5万年前の時期に一気に現れることを指したものである」
さらに、人間の歴史を大きく俯瞰した時、もう1つ浮かび上がる精神的・文化的な面での大きな変化の時期があるとして、著者は述べます。
「それはヤスパースが『枢軸時代』、科学史家の伊東俊太郎が『精神革命』と呼んだ、紀元前5世紀前後の時代であり、この時期ある意味で奇妙なことに、『普遍的な原理』を志向する思想が地球上の各地で“同時多発的”に生成した。インドでの仏教、ギリシャ哲学、中国での儒教老荘思想、中東での旧約思想であり、それらは共通して、特定のコミュニティを超えた『人間』という観念を初めてもつと同時に、何らかの意味での“欲望の内的な規制”を説いた点に特徴をもつものだった」



著者は、人間の歴史を「拡大・成長」と「定常化」という視点でながめ返すと、そこに3つの大きなサイクルを見出すことができることを発見します。
第1に、人類誕生から狩猟・採集時代。
第2に、約1万年前の農耕の成立以降。
第3に、約200年前以降の産業化(工業化)時代の3つです。
これは、人口の増加・定常化のサイクルとも概ね重なります。



著者は、ここで1つの仮説を立てます。
それは、「心のビッグバン」や「枢軸時代/精神革命」は、それぞれ狩猟・採集社会と農耕社会が、いずれも当初の拡大・成長の時代をへて、(環境・資源制約等に直面する中で)何らかの意味での最初の成熟・定常期に移行する際に生じたのではないかというものです。実際、紀元前5世紀前後のギリシャや中国などにおいて森林破壊などの問題が深刻化していたことが、最近の環境史の研究から明らかになってきているそうです。
「心のビッグバン」と枢軸時代/精神革命において起こったことは、“物質的生産の量的拡大から、質的・文化的展開へ”という転換だったのではないかというわけです。



現在の人類が直面しているのは、人類史の中でのいわば“第3の定常期”への移行という大きな構造変化であるとして、著者は次のように述べます。
「ここで『定常』あるいは最近話題になっている『脱成長』という表現を使うと、“変化の止まった退屈で窮屈な社会”というイメージが伴うかもしれないが、それは誤りだ。ここで見た人間の歴史が示しているように、定常期とは、むしろ文化的創造の時代なのである」
著者は、資本主義の進化にそくして「私たちがこれから迎えつつある市場経済の定常化の時代とは、『1つの大きなベクトル』や“義務としての経済成長”から人々が解放され、真の意味での各人の『創造性』が発揮され開花していく社会としてとらえられるのではないだろうか」ということを指摘しています。
“第3の定常期”への移行人類史全体の経験はこの点とも符合していることになります。
さらに著者は、次のように述べています。
「そしてこの場合の『創造性』とは、先ほどその再定義ということを述べたように、“国際競争力”といった狭い意味のものでは当然ない。むしろそれは、たとえばかつてレヴィ=ストロースが指摘した『ブリコラージュ(日常の中での創意工夫)』、歴史家ホイジンガが『文化は遊びに始まる』と論じる場合の『遊び』、先に言及したフィンランドで重視される『考える力(=1つの答えのない問題を考えることそれ自体のプロセスや面白さ)』等々といった創造性のコンセプトにつらなるものである」



第2章「グローバル化の先のローカル化――地域からの“離陸”と“着陸”」の冒頭では、著者は次のように述べています。
地域再生ということが現在大きな課題になっているが、『GAH』という言葉をご存じだろうか。これは東京都の荒川区が数年前から掲げている目標で、『グロス・アラカワ・ハピネス』、つまり『荒川区民の“幸福”の総量』という意味であり、これを増大させることを区政の目標にしようというわけである。同区では荒川区自治総合研究所という財団を設立し、子どもの貧困といったいくつかの具体的なテーマにも焦点をあてながら、『GAH』についての調査研究を進めている」
「GAH」とは、もちろんブータンが掲げている国の目標である「GNH(グロス・ナショナル・ハピネス)」、つまり「国民総幸福量」というコンセプトをヒントに生まれたものです。
しかし、著者は「GNH」よりも「GAH」により価値を見出し、次のように述べるのです。
荒川区の試みはブータンの取り組みの単なる応用ではないと私は考える。思えばブータンの『GNH』も、国レベルで物事を考えているという点では実はGNPと同じである。つまり荒川区の独自性は、そうした豊かさや幸福の指標づくりといったことを、国レベルではなく地域あるいはローカルなレベルで考えていこうという点にあるだろう」



著者は、ヨーロッパ、中国、日本という順で都市のあり方とコミュニティを見ていきますが、その結果、「まちづくり」には環境・福祉・経済の相乗効果が不可欠という結論に達します。つまり、都市の中心部に住宅や福祉施設などを計画的に誘導・整備し、道路や自動車交通を大胆に抑制して歩いて楽しめる空間構造にしていくことは、以下のような多様な価値観を持つというのです。
●「福祉」にプラス・・・・・「コミュニティ感覚」醸成、ケアの充実、空間格差の是正、“買い物難民”減少など。
●「環境」にプラス・・・・・エネルギー(ガソリン等)消費削減、CO2排出削減など。
●「経済」にプラス・・・・・中心市街地の活性化、経済の地域内循環、雇用創出など。



「都市型コミュニティ」の確立という基本的課題が非常に重要になります。
著者は、次のように述べています。
「戦後の日本社会とは、一言でいえば“農村から都市への人口大移動”の歴史だったと言えるが、都市に移ってきた日本人は、『カイシャ』と『(核)家族』という、いわば“都市の中のムラ社会”と呼べるような、閉鎖性の強いコミュニティを作っていった。そして、それぞれの会社や家族が互いに競争しつつ、経済成長という『パイの拡大』を実現し、それなりの好循環を実現していたのが1980年代頃までの日本だったと言える」



また、「都市政策と福祉政策の統合」について、著者は次のように述べています。
「これまで日本では、福祉ないし社会保障政策と、都市計画や土地所有などを含む都市政策とは、互いにあまり関連のない異分野としてとらえられることが多く、概してバラバラに施策が展開されてきた。
しかし今後は、都市政策やまちづくりの中に『福祉』的な視点を、また逆に福祉政策の中に都市あるいは『空間』的な視点を導入することが、ぜひとも必要なのである。
この場合の『福祉』はかなり広い意味で、(1)少子・高齢化対応や若者を含む生活保障などの面もあれば、(2)様々な世代の交流や世代間の人口バランス、(3)本節で述べてきたような、人々がゆっくり歩いて楽しめ、かつ『コミュニティ』としてのつながりを醸成するような空間づくりといった要素を含んでいる」


 
面白かったのは、「農業」と「介護」の共通性について触れた部分です。
著者は、「農業」と「介護(あるいはより広くケア)」という分野は一見何の関係もないように見えるが、意外な共通性を持っているというのです。英語の「文化culture」や「耕すcultivate」の語源はラテン語の動詞colere(耕す)で、その原義は「世話をする」です。まさに「ケア」と重なるとして、著者は次のように述べます。
「つまり『自然の世話をする』のが農業であり、『心の世話をする』のが文化であり、高齢者などの世話をするのが介護であり、これらは共通の根を有している。それらは単純に市場経済に委ねるべきではない領域であり、何らかの公的な支援策が必要である」



第3章「進化と福祉社会」では、異なるコミュニティをつなぐ思想が提唱されます。
そこで、著者は次のようにきわめて重要なことを述べています。
「『枢軸の時代/精神革命』期に新たに生まれた思想群が、『人間なるもの』あるいは個々の民族等を超えた『普遍性(ないし普遍的な原理)』ということを志向していた点を確認したが、これは言い換えれば、これらの思想はいわば『異なるコミュニティをつなぐ思想』、つまり異質で、ともすれば互いに排他的・閉鎖的となって対立し、場合によっては紛争あるいは戦争に至るような複数のコミュニティの間に“橋をかける”という性格のものであったということができるのではないだろうか」
ここで、著者は「儒教」の存在を例にします。
「たとえば儒教というものは、日本においては概して“封建的・前近代的な遺物”のように理解されることが多いが、それは近代以降、西欧社会が中国をその『後進性』においてのみとらえた理解のパラダイムをそのまま輸入したことによる影響が大きいと私は考えている。大きな視点でとらえるならば、儒教というものの本質は、“多民族社会”である中国において、異なる民族が武力や感情ではなく言葉や『理』によって共存するための、いわば『作法』ないし原理を説くものとして生まれた、と考えるのが妥当と思われる。この時期におけるインド、中東、ギリシャでの諸思想の生成の背景も基本的に同質のものと言ってよいだろう」



人類にとって、「枢軸時代/精神革命」とは何だったのでしょうか。
著者は、「枢軸時代/精神革命」が生じた紀元前5世紀前後の時代を、今から1万年前に始まった農耕社会、そしてそれをベースとする都市文明の展開が、資源・環境的制約に直面する中で、ある種の根本的な危機に向かいつつある時代であったと定義します。
そして、著者は次のように述べています。
「これら『枢軸時代/精神革命』期の諸思想は、人間の歴史において、農耕社会あるいは農業文明が最初の成熟化そして定常化の時代を迎えつつあった時代に、そのことを基本的な背景として(あるいはその“危機”を先取りした新たな価値原理として)起こったのではないだろうか。
そしてそこにおいて生成した様々な思想(ギリシャ思想、旧約思想、仏教、儒教等)は、先に論じたように『普遍的な原理』への志向という点を本質的な内容として含んでいると同時に、もう1つの特徴として、いずれも何らかの意味での“物質的生産の量的拡大・成長から、内面的・質的な深化・発展へ”あるいは“欲望の際限なき拡大の『抑制』へ”という方向を共通してもっていたのではないだろうか」



そして、著者は以下のように「社会」の出現について語るのです。
「枢軸時代/精神革命の諸思想のように個人の徳や“内面的な倫理”そして行動原理を説くだけでは到底“追いつかない”ような新たな状況がそこに生まれたのである。『共同体ないしコミュニティにおける個人の倫理』だけでは不十分で、それに代わって(無数の独立した個人からなる)『社会』というものが現出していったのがこの時代の基本的な特質である(日本や中国において、societyに相当する言葉がなく、その訳語を作るのに苦心したというのはよく引かれる逸話であろう)」



「社会」においては、個人の徳を超えたあらゆる「徳」が重層的に重なり合います。
そして、それは日本の江戸期の思想家である二宮尊徳らの社会観とも一致するものでした。尊徳は、動物や自然を含めてすべての事物に『徳』があるという世界観を持っていたのです。著者は次のように述べます。
「現在の日本人にとっては、『徳』という言葉ないし概念は規範的な意味合いの強いものとして解されていると思うが、以上のように理解すれば、つまりすべての人(ひいては自然に存在するすべての事物)が『徳』を有していると考えれば、それは規範的な価値と存在の価値とを包括したような概念となるのではないか。ちなみに、(doingではなく)『being(あること)の価値』ということが言われることがあるが、こうした視点はここで論じていることと関連しているだろう。
文脈は異なるが、ここで想起されるのが、イギリスのいわゆる『第3の道』の議論で提出された『ポジティブ・ウェルフェア』の概念である。
ポジティブ・ウェルフェアとは、従来の『福祉』が、概して貧困や病気、失業等に対する“事後的な救済”が中心で、その限りにおいて消極的ないしネガティブな性格のものであったのに対し、むしろ福祉を、『個人の潜在的な可能性や価値を“引き出していく”』という積極的なものとしてとらえる、という内容のものだった」
この「ポジティブ・ウェルフェア」という言葉は、重要なキーワードですね。
今後、日本でも注目されていくのではないかと思います。


 
最後に、著者は次のような言葉で本書を締めくくっています。
「3度目の定常化の時代という人類史全体を視野に収めた視座や、資本主義の進化とポスト資本主義という文脈、ひいては日本社会固有の状況を踏まえながら、新たな社会システムを構想し実現していくとともに、1人ひとりが自らの関心にそくして多様な活動を行っていく。そのような試みと具体的な実践のプロセスの一歩一歩の中に、これからの『創造的福祉社会』は確実に展開していくことになるだろう」
わたしは、ドラッカーのいう「ネクスト・ソサエティ」について考えました。そして、今後の社会は求心的になっていくと考え、『ハートフル・ソサエティ』(三五館)を書きました。
読む前から予想していましたが、本書を読了し、著者のいう「創造的福祉社会」の姿が「ハートフル・ソサエティ」に限りなく近いものであることを確認することができました。


創造的福祉社会とは、心の社会である



2011年12月8日 一条真也