白い雲と紫の雲

一条真也です。

3年間にわたって年末に放映されてきたNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」がついに終了しました。クリスマスの夜に放映された最終回では、日露戦争における日本海海戦での劇的な勝利とその後の日本が描かれています。


NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」最終回「日本海海戦」より



2005年は「日露戦争100周年」ということで、1970年代の大ベストセラーである司馬遼太郎の大作『坂の上の雲』が再びブームになりました。
その頃、NHKが大河ドラマスペシャルの企画を進めていたわけです。
NHKといえば、かつての人気番組「プロジェクトX」に登場するような人々、つまり高度成長時代の主役となった企業戦士たちの最大の愛読書が『坂の上の雲』でした。
経営者や政治家で座右の書としている人も非常に多い。そんな本です。



富国強兵策のもと、息せき切って先進国に追いつこうと奮闘努力した時代、明治。
この小説は遅ればせながら近代国家の仲間入りを果たした日本にあって、武と文とに大きな足跡を残した正岡子規秋山好古、真之兄弟の3人を中心に、昂揚の時代に生きた群像を描いた雄大な交響楽であり、叙事詩であり、優れた人物論となっています。
近代国家としてまったくのひよこでしかない明治国家がどんどん坂をのぼっていく、いわば日本近代の青春小説ですが、登場する3人の主人公も若いです。
正岡子規は、俳句の革新運動をやりました。秋山好古は、日本の陸軍の騎馬軍団をつくった人です。日露戦争で、世界最強のコサック騎馬隊を向こうに回して少数ながらも戦い、勝ちを制することはできませんでしたが、負けなかった日本の陸軍機動隊の最高指揮官です。その弟の秋山真之は、日本連合艦隊の参謀で、日露戦争の海戦において、海軍の戦略・戦術を全部まかされた人です。彼の作戦で、バルティック艦隊と太平洋艦隊というロシアの2つの大艦隊を全滅させ、日露戦争を勝利に導いた軍事的天才です。


とにかく、日露戦争は奇跡の戦争でした。当時のロシア軍は世界最強の軍隊であり、日本海海戦はそれまでの人類最大の海戦、さらに奉天の戦いは世界最大の陸戦でした。司馬遼太郎は以下の感動的な書き出しで『坂の上の雲』を書きはじめています。
「小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である」
その対決に、辛うじて日本は勝ったのです。その勝利は、実にコロンブス以来初めて有色人種が白人の文明に勝ったか画期的な大事件でした。
その勝った収穫を後世の日本人は食いちらかしたことになりますが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけたのです。
「世界史のうえで、ときに民族というものが後世の想像を絶する奇跡のようなものを演ずることがあるが、日清戦争から日露戦争にかけての10年間の日本ほどの奇跡を演じた民族は、まず類がない」と司馬も述べています。



その奇跡が起こったのは、何よりも明治人たちに徹底的な楽天主義があったからです。
明るい未来を信じて、前に進むしか道がなかったのが明治という時代でした。
司馬は、『坂の上の雲』のあとがきにこう書いています。
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」
そう、この作品では雲を人間の希望のシンボルとして描いているのです。
わたしは、太陽と月をこよなく愛する者です。
わが社の社名には「太陽の光」という意味が込められていますし、「月の広場」や「ムーンギャラリー」で新時代のグリーフケアを試みています。
その太陽と月にとって最大の友であり、パートナーこそが雲です。
絵画や詩といった芸術作品を見ればよくわかりますが、太陽も月も、かたわらに雲があってこそ荘厳となり、美しくなります。つまり、雲には太陽や月の存在感を際立たせるという、大変な役割があるのです。『雲は天才である』とは石川啄木の小説の題名ですが、雲はさまざまな形に姿を自由に変え、悠々と大空を流れてゆきます。
晴れた休日に散歩に出て、公園のベンチに座ったり、芝生の上に寝転がったりしたとき、ただ空を流れゆく雲を眺めているだけで、たまらなく自由で豊かな気分になれます。
それは、天上へのまなざしにも関わっているからだと私は思います。



さて、日露戦争で奇跡の勝利を得た日本は、その成功体験が仇となりました。
アジアの国として初めてヨーロッパの強国の一角を崩し、せっかく坂をのぼって見晴らしのいい場所に出たのに、その後、坂道を転げ落ちるように太平洋戦争における敗戦へと向かっていきます。日本史上初の敗戦はまさに明治維新にも匹敵する社会の大変革であり、その後、再び坂の上の白い雲をめざした日本人は奇跡の経済復興、そして高度成長を果たします。まさにこの2度目の坂を上る時期に書かれた『坂の上の雲』は多くの楽天家たちの心をつかみ、彼らはさまざまなプロジェクトXに果敢に挑戦しました。
残念ながら、現在の日本は「第2の敗戦」などといわれ、政治も経済もアメリカのなすがままで、まったく活気がありません。坂の底もいいところで、見晴らしは最悪です。  
人々の心にもどんよりとした悲観主義があるようです。
東日本大震災の発生によって、その悲観主義はいっそう深刻になりました。



いまこそ、もう一度、天を見上げて白い雲をさがさなければなりません。
そして、勇気を出して坂を上って行かねばならないのではないでしょうか。
坂の上の雲が必要なのは、日本という国家だけではありません。
わたしたち個人もまた、自分なりの白い雲を見つけなければなりません。
その白い雲を「希望」と呼ぶか、「信念」と呼ぶか、または「人生の目的」と呼ぶか、それは各人の自由です。しかし、そういった坂の上の雲を持たずに送る人生など、なんと空しいものかと思います。
もともと、人生とは、白い雲をめざして歩く旅のようなものです。芭蕉は「道祖神のまねき」にあって、取るもの手につかず、奥の細道の旅へと出発しますが、わたしたちはみな、自分だけの白い雲をめざして人生という旅を続けてゆきたいものです。



しかし、人間というのは坂をのぼるだけではありません。
その峠をすぎて秋風の中をゆっくりと坂道を谷底に向かってくだってゆくときもあります。
木登りでも登山でも、「のぼり」より「くだり」が大事と言われますが、人生もまったく同様で、坂をくだる老年期というものが非常に大切なのです。
そして、坂をくだってくだってくだりきったとき、わたしたちは再び雲に出会います。
ただし、その雲の色は白ではなく、この上なく高貴な紫色です。
「紫雲」という言葉を御存知ですか? そう、紫雲閣の「紫雲」です。
辞書を引くと、紫雲とは「紫色の雲。めでたい雲。念仏行者の臨終のとき、仏がこの雲に乗って来迎するという」と出ています。つまり、私たちが死ぬときに極楽浄土から迎えにきてくれる仏様の乗り物が紫雲なのです。



今夜の「坂の上の雲」の最終回「日本海海戦」では、秋山真之が膨大な死者を目にして呆然とする場面がありました。
真之は、敵艦の中でロシアの軍人の遺体に祈りを捧げます。
そして、自分の母親の遺体を前にして心からの哀悼を捧げます。
さらには、3年前に逝去した親友・正岡子規の墓前で合掌します。
真之を演じた本木雅弘さんの姿は、映画「おくりびと」の納棺師のようでした。
本当に、この「坂の上の雲」の最終回は「死」と「葬」のイメージに満ちあふれています。
そこには「おくりびと」の脚本を書き、「坂の上の雲」の主題歌を作詞している小山薫堂氏の存在を感じます。両作品に関わっている小山氏の“たくらみ”があったのでは?
それにしても、真之が母と今生の別れをした夜、妻の季子に泣きながら「海軍を辞めて、坊さんになりたい」と訴えたシーンには感動させられました。あまりにも多くの死者を見た真之は、僧侶になって「日本兵もロシア兵も等しく弔いたい」というのです。
これは、すべての「おくりびと」にとっての“白い雲”ではないかと思いました。



秋山真之の兄である秋山好古は、阿部寛さんが演じました。
日露戦争を終えた後、秋山兄弟が釣りをする場面が登場します。
厳しい兄であった好古は、弟に「お前は良くやったよ」とつぶやきます。
2人の心には万感の想いが去来します。静かな感動を呼び起こす名場面でした。
真之は49歳の若さで亡くなりますが、最期は「みなさん、お世話になりました。これからは、自分ひとりで行きますから」と言ったそうです。
71歳まで長生きした好古は、愛妻をはじめ多くの家族たちから見送られます。
いまわの際に、意識が満州に飛んだのか、好古は「奉天へ・・・」とつぶやきました。
それを聞いた妻の「あなた、馬から落ちないで下さいよ」というセリフには泣けました。
ひたすら白い雲をめざして生きた兄弟は、それぞれ最期に紫の雲を見たのでしょうか?



もともと、来迎という考え方は浄土教に由来します。
五色の雲に乗った阿弥陀仏が、人の臨終の際に、二十五菩薩を引き連れて迎えにくるという華麗な来迎幻想。それは、死後もなお現世の享楽を維持したいという貴族や、現世では得られなかった至福の時を得たいと願う民衆の魂を魅了しました。
彼らは、死に臨んで念仏を唱え、来迎図に描かれた阿弥陀の手と自分の手を糸で結びました。来迎を待つ者を、親鸞は「いまだ信心を得ぬもの」と否定しました。宗教的にはそのとおりかもしれませんが、人は夢を見たいものです。
死後への幸福なロマンを抱くことはまったく間違っていないと思います。



浄土に往生したいというあくなき願いが生み出した来迎図は、源信の『往生要集」から始まったとされています。およそ源信ほど日本人の死の不安を取り除いた仏教者はいなかったでしょう。彼は942年に現在の奈良県に生まれましたが、9歳にして叡山にのぼり、天台宗の中興の祖といわれた良源の弟子となります。
天性聡明、特に論理の才に恵まれました。984年11月に『往生要集』3巻の執筆を始め、翌年4月、わずか半年で完成しました。源信44歳のときです。
たちまちにこの書の写本がつくられ、人々は争ってそれを読みました。
藤原道長も、紫式部も、鴨長明も、西行も、この書物を愛読し、多くの影響を受けました。また、この書は宋にも送られ、宋でも高い評価を得たといいます。


『往生要集』をもとに多くの地獄絵や餓鬼絵が描かれました。
最近まで、日本の多くの寺には地獄絵があり、たとえば幼い白隠太宰治など、その絵を見て異常な恐怖に襲われ、それが彼らの後の人生に大きな影響を与えました。
源信はこのような「六道」すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の6つの苦の世界を離れて、清浄で美しい極楽を願い求めよといい、その極楽の比類なき浄さ、美しさを多くの経典を引用して語ります。彼自身もすばらしい極楽の絵を描きましたが、多くの画家が彼にならって多種多様の極楽の絵や阿弥陀来迎の絵を描きました。
これらが死の不安におびえる民衆の心をどれだけ慰めたか想像もつきません。
ちなみに、現在も残る宇治の平等院は極楽の見事な造形化です。



この極楽へ往生する方法が念仏に他なりません。
念仏には5つの紋があります。つまり礼拝、讃歎、作願、観察、廻向ですが、この中心が観察です。観察には、別相観と惣相観と雑略観の3つがあります。別相観とは阿弥陀仏の個々の相好を順次に観想すること、惣相観とは阿弥陀仏を総体的に観想すること、雑略観とは阿弥陀仏の一定の部分にかぎって観想することです。
中国の浄土教において、もっとも重視された浄土経典は『観無量寿経』です。
この経は、阿弥陀仏と極楽浄土が目を開けても閉じても常にありありと見える観想の行をすれば、臨終にあたって阿弥陀仏が迎えにきて、必ず極楽往生することができると教えます。源信が勧めているのはこのような観想の念仏であることは間違いありません。



しかし、このような観想の行ができない人はどうするか。源信は次のように言います。
「もし相好を観念するに堪えざるものあらば、或は帰命の想により、或は引摂の想により、或は往生の想により一心に称念すべし」
浄土宗の祖・法然はこの一文を、源信が観想の念仏のできない人に口称の念仏を勧めていると解釈します。しかし、ここでいう「称念すべし」とは、もっぱら阿弥陀仏を思えという意味であり、必ずしも口称の念仏の進めとは言えません。
源信の念仏はあくまで美的想像力を行使する観想の念仏とみるべきです。
法然によって浄土教は易行となり、より倫理的なものになりましたが、残念ながらすぐれた造形芸術を生むことはできませんでした。
それに対して、観想の念仏を説く平安浄土教は多くのすばらしい造形芸術を生み、今でも日本人の大いなる誇りとなっています。



わたしは、多くの人々の死の不安をやわらげた源信を心から偉大であると思います。
ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)を初めて上梓したとき、現代の「往生要集」であると言って下さった方がいましたが、不遜ながら自分も源信のように人々の死の不安を払拭し続ける人生を歩みたいと思いました。
現代の観想の行としての死のイメージ・トレーニングを提案し、「ハートピア」という浄土を表現してみたい。そして、人生という旅が終わるとき、紫の雲に乗った仏様が迎えにくるお手伝いを多くの紫雲閣において行いたいと思うのです。
明日、年の瀬も押し迫った12月26日、わが社の新しいセレモニーホールである「宗像紫雲閣」がオープンします。来年も、多くの紫雲閣が新規オープンする予定です。
いつか人が亡くなっても、「不幸があった」と日本人が言わなくなる日を信じて、わたしにとっての坂の上の雲をめざしたいと思います。
     

坂のぼる上に仰ぐは白い雲  坂の下には紫の雲  (庸軒)




2011年12月25日 一条真也