大僧正のお別れ会

一条真也です。

今日、佐久間進会長と一緒に門司港にある「門司倶楽部」に行きました。
ここで、日本における上座部仏教の重鎮だった「世界平和パゴダ」のウ・ケミンダ大僧正(享年89歳)の「お別れ会」が開催されたのです。
セレモニーは、わが社が担当させていただきました。
テレビ局を含む、ものすごい数のマスコミが取材に訪れていました。


門司倶楽部の入口で佐久間会長と

大僧正を偲ぶ祭壇の前で

供花の前で



ウ・ケミンダ大僧正は、1957年に35歳で来日されました。
そして、じつに半世紀以上を日本の門司港の地で過されました。
ブッダの考え方」をストレートに伝える上座部仏教を説くなど、日本人との交流にも積極的な方でした。大僧正は、20歳で仏門に入ったそうです。
戦後、海外での布教を命じられたとき、まだ貧しかった日本を選ばれました。


ミャンマーのキン・マウン・ティン大使と

壬生寺の松浦俊海住職と



今日の「お別れ会」には、ミャンマーのキンマウンティン大使、壬生寺の松浦俊海住職、北九州市北橋健治市長、衆議院議員山本幸三氏らがお越しになられました。
また、一般市民を含む多くの方々が参列され、大僧正に哀悼の意を表しました。
ウ・ケミンダ大僧正の日本との縁は戦前にさかのぼります。
連合軍の中国支援を断つため、日本軍は旧ビルマを攻撃して敵を一掃しました。
大僧正は、出家する前、中南部のトングー駅で働いていました。
そのとき、日本人から蒸気機関車の運転を教わるなど、仲良く接してもらったそうです。
ちなみに、英国人は機関車に近寄らせてもくれなかったとか。


映画化もされた竹山道雄の名作『ビルマの竪琴』に描かれたように、かのインパール作戦をはじめ、旧ビルマ戦線では多くの日本人兵が亡くなりました。
来日したウ・ケミンダ大僧正は、日本各地で旧ビルマ戦線の戦没者を供養し、平和を祈ってきました。そして、祈りながら、戦後の日本をじっと見つめてこられました。
6年前、読売新聞のインタビューに答えたとき、日本人について、「金持ちになったが、心は貧しくなった」と言われたそうです。また、東日本大震災の復興が進まない昨秋には、「今こそ、思いやりの心を取り戻さないと、日本は良くならない」と言われました。
その発言から3ヵ月して、ウ・ケミンダ大僧正は肺炎で他界されたのです。


お別れ会のようす



ご本人の遺志で遺体は産業医科大学病院に献体され、葬儀も行われませんでした。
亡くなられる前に「葬儀、通夜、位牌も一切いらない」と言われたそうです。
しかし、「宗教法人世界平和パゴダ」の理事らでつくる実行委員会が「戦没者の慰霊と布教に尽くした大僧正の遺徳をしのびたい」と市民にも参加を呼びかけました。
そして今日、ようやく「お別れ会」が開催されたのです。
門司倶楽部で最も広い会場に、溢れんばかりの多くの方々が参加されました。
わたしは、昨日、『ブッダの考え方』(中経の文庫)の初校を行ったのですが、同書にも書いたブッダの葬儀を連想しました。



葬式仏教の批判者や、葬式無用論者たちが必ず口をそろえていうことに、ブッダの葬式観があります。彼らは、ブッダは決して霊魂や死後の世界のことは語らず、この世の正しい真理にめざめて、1日も早く仏に到達することを仏教の目的にしたと述べます。
「当然、ブッダは葬式を重要視していなかった。それどころか、修行の妨げになるので、僧侶(出家者)が在家の人々にために葬式を行うことを許さなかったのだ」と、まるで鬼の首を取ったかのようにいうのです。



たしかにブッダは、弟子の一人から、「如来の遺骸はどのようにしたらいいのでしょうか」と尋ねられたときに、「おまえたちは、如来の遺骸をどうするかなどについては心配しなくてもよいから、真理のために、たゆまず努力してほしい。在家信者たちが、如来の遺骸を供養してくれたのだろうから」と答えています。
また、自分自身の死に関しては、「世は無常であり、生まれて死なない者はいない。今のわたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。いたずらに悲しんではならない。仏の本質は肉体ではない。わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である」と語っています。


佐久間会長とともに参列しました



死は、多くの人々にとって悲しい出来事です。でも、死は決して不幸ではありません。
死が悲しいのは、「死」そのものの悲しさではなく、「別れ」の悲しさだからです。
人間にとって最大の悲しみとは、じつは自分自身が死ぬことよりも、自分がこの世で愛してきたものと別れることではないでしょうか。とくに自分という1人の人間をこの世に送り出してくれた父や母と別れることは、そのときの年齢によっても多少の違いはあるでしょうが、人生の中でもっとも悲しい出来事のひとつです。
したがって、どんなに宗教に対して無関心な人間でも、自分の親の葬式を出さないで済ませようとする者は、まずいません。仮に遺言の中に、「自分が死んでも葬式を出す必要はない」と書いてあったとしても、それでは遺族の気持ちがおさまらないし、実際にはさまざまな理由によって、葬式が行われるのがふつうです。



ブッダに葬式を禁じられた弟子の出家者たちも、自分自身の父母の死の場合は特別だったようですし、ほかならぬブッダ自身、父の浄飯王や、育ての母であった大愛道の死の場合は、自らが棺をかついだという記述が経典に残っています。
それは葬式というものが、単に死者に対する追善や供養といった死者自身にとっての意味だけでなく、死者に対する追慕や感謝、尊敬の念を表現するという、生き残った者にとってのセレモニーという意味を持っているからなのです。


献花をさせていただきました



ブッダ自身の葬儀も、遺言によりマルラ人の信者たちの手によって行われました。
7日間の荘厳な供養の儀式のあと、丁重に火葬に付したといいます。
ブッダは、決して葬式を軽んじてはいなかったはずです。もし軽んじていたとしたら、その弟子たちが7日間にもわたる荘厳な供養などを行うはずがありません。
なぜなら、それは完全に師の教えに反してしまうことになるからです。
それともマルラ人たちは本当にブッダの教えに反してまで、荘厳な葬儀を行ったのでしょうか。教えに従うにせよ、背いたにせよ、マルラ人たちは偉大な師との別れを惜しみ、手厚く弔いたいという気持ちを強く持ったことは間違いありません。



わたしが考えるには、出家の弟子たちが修行に専念できるように、あるときブッダが「葬式は在家に任せよ」といったのが、後年、誇張されて伝えられたのではないでしょうか。
「葬儀するヒト」である人間が、愛する者とこの世で別れるとき、訣別の儀式をせずにいられません。これは事実です。たとえ、死んでいく者が「葬儀不要」といったにせよ、それでは生き残った者の気がおさまりません。
悟りを開いたというブッダが、こんな人間の基本的な欲求に気づかないはずはなく、また、その自然な欲求を抑圧しようとするはずもありません。
ブッダは決して、葬式無用論者ではなかったと思います。
今日の「お別れ会」に参列しながら、そんなことを考えました。


松浦住職が講話をされました



今日は、「お別れ会」の最後に、壬生寺の松浦俊海住職の講話がありました。
「共結来縁」という演題の素晴らしい講話でした。
「共結来縁」とは、「共に来縁を結ばん」という意味です。
今日このたび、「お別れ会」の参列者とのご縁はまさしく「共結来縁」であり、一期一会で、この一瞬は今この時しかないと言われていました。
松浦住職は、奈良の唐招提寺の長老を務められ、律宗の管長でもありました。
ウ・ケミンダ大僧正が来日されたばかりのとき、唐招提寺を訪れたそうです。
また、松浦住職も旧ビルマへ修行に訪れたことがあるそうです。
いずれも、当時の門司市の柳田桃太郎市長のはからいによるものでした。


ウ・ケミンダ大僧正を「現代の鑑真和上」と表現されました

ビルマの竪琴』と『天平の甍』



唐招提寺といえば、かの鑑真和上ゆかりのお寺です。井上靖の名作『天平の甍』に描かれているように、鑑真和上はさまざまな苦難に遭い、失明しながらも753年に来日。
聖徳太子亡き後の日本に、仏法を広く説いた人でした。
松浦住職は、1250年の時間を超えて、鑑真和上とウ・ケミンダ大僧正には共通点が多いと言われていました。ともに異国の地に赴いて「ブッダの考え方」を伝え、最後は日本の土となられたからです。今年は日中国交回復40周年の記念すべき年ですが、鑑真和上は1250年前に中国と日本の架け橋となりました。
そして、ウ・ケミンダ大僧正はミャンマーと日本の架け橋となったのです。


大使によるミャンマー式の礼拝



松浦住職の講話が終了すると、キンマウンティン大使がミャンマー式のお祈りをウ・ケミンダ大僧正の霊に捧げました。それは、まるで「五体投地」のようでした。
そう、平伏しながら心からの哀悼の意を表現する祈りでした。
「お別れ会」の会場の床に平伏する大使の姿を見ながら、わたしは静かな感動をおぼえていました。そこには、心の底から亡くなった方を「悼む」という誠がありました。


八坂和子氏による実行委員長謝辞



そして、ウ・ケミンダ大僧正および松浦住職が若い頃にお世話になった柳田桃太郎・門司市長の令嬢である八坂和子氏が「実行委員長謝辞」を述べられました。
八坂氏は、ウ・ケミンダ大僧正の最期を看取られたそうです。
そのとき、「わたしは、なぜ、ここにいるんだろう?」と思われたとか。
そして、生前から大僧正が「僧侶とは水のような存在です」と語っていたと明かされました。水であれば、どんな容器にも従う。つまり、僧侶は周囲の人々の意見に従うというわけです。ウ・ケミンダ大僧正の最期は、まさに一しずくの水滴が乾いた大地に吸い込まれていくような静寂としたものだったそうです。
そのお話を聞いて、わたしは深い感銘を受けました。



もしかしたら、わたしのすぐ近くに本物のブッダの化身がいたのかもしれません。
それに、わたしを含む北九州市民、いや日本人は気づかなかったのかもしれません。
せめて、ウ・ケミンダ大僧正を遺徳を偲び、閉鎖中の「世界平和パゴダ」を一刻も早く再開しなければなりません。わたしは、心からそう思います。


2012年3月3日 一条真也