東日本大震災1周年

一条真也です。

今日は、2012年3月11日です。
東日本大震災が発生してから1周年になります。
死者は1万5854人、行方不明者は3155人、そして避難者は34万3935人。
まさに、日本人がこれまで経験したことのない「未曾有の大災害」でした。


追悼式のようす



本日午後、国立劇場(東京都千代田区)で政府主催の追悼式が営まれました。
このように自然災害の追悼式を政府が主催するのは史上初だそうです。
天皇・皇后両陛下、野田佳彦首相ら三権の長、被害が大きかった岩手、宮城、福島の被災3県の遺族代表ら約1200人が参列しました。
震災発生時刻の14時46分には参列者全員で黙祷を捧げて、犠牲者の冥福を祈りました。わたしも、家族と一緒に自宅で黙祷しました。
ブログ「黙祷とは何か」に書いたように、黙祷とは弔意の行為です。
わたしは、心の中で多くの犠牲者に語りかけ、その冥福を心から祈りました。



最初に、野田佳彦首相が式辞を述べました。
野田首相は、「亡くなられた方々の御霊に報い、そのご遺志を継いでいくためにも、本日、ここに3つのことをお誓いいたします」と語り、以下の3つの誓いを述べました。
1つめは、被災地の復興を1日も早く成し遂げること。
2つめは、震災の教訓を未来に伝え、語り継いでいくこと。
3つめは、わたしたちを取り結ぶ「助け合い」と「感謝」の心を忘れないこと。
そして、「我が国の繁栄を導いた先人たちは、危機のたびに、よりたくましく立ち上がってきました。私たちは、被災地の苦難の日々に寄り添いながら、共に手を携えて、『復興を通じた日本の再生』という歴史的な使命を果たしてまいります」と述べました。



追悼式には、天皇陛下も参列されました。心臓手術後の初のご公務です。
この追悼式にどうしても参列するために、天皇陛下は日程を逆算して手術の日を決められたそうです。天皇陛下は、以下のようなお言葉を述べられました。
東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
1年前の今日、思いも掛けない巨大地震津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員をはじめ、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。
この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のためにさまざまな支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。
また、諸外国の救助隊をはじめ、多くの人々が被災者のためさまざまに心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。
今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします」



ブログ「祈る人」にも書いたように、心学研究家の故・小林正観氏の遺作『淡々と生きる』(風雲舎)には、次のように書かれています。
天皇は、1月1日早朝に起きると、東西南北の四方に向かってお祈りをします。『今年もし日本に災いが起きるならば、まず私の身体を通してからにしてください』と。それを『四方拝』といい、毎年やっているそうです。別の人から聞いた情報では、歴代天皇がそう祈って、この世は続いてきた。天皇がそういうふうに言うことを、皇太子の時代から教え込まれる。皇太子だけ。『あとを継いだら、あなたは必ずそれを言うのですよ。日本国民を代表して、「まず私の身体を通してからにして下さい」と言うのですよ』と教え込まれる。歴代の天皇は1月1日にそれを言ってきた」
この天皇陛下の言葉から、小林正観氏は「人間の魂というのはものすごいものだ」と教えられたそうです。そして、「ここまで崇高になることができる、日本にはとんでもない人がいた、そういう崇高なことを祈る人がいた」ことに驚愕したそうです。


小林氏は、いわゆる天皇崇拝者ではありませんでした。
『淡々と生きる』には、次のように書かれています。
「私は天皇制度を礼賛する立場の人間ではありません。
もともと全共闘ですから、天皇制度を否定する立場で生きてきました。
でも、天皇がそういうひと言を元旦に言っている人であることを考えると、その災いを一身に受けきれなかったという思いがたぶんあるのだろうと思ったのです。その結果として、被災地の人々の前に膝をついて言った『大変でしたね』のひと言には、『申し訳ない』という気持ちが括弧でくくられている気がします。『自分の身体で受け止められなかった、申し訳なかった』という、四方拝での言葉の内容が見えるような気がします。そういう目で天皇の動きを見ていくと、申し訳なさがあると思います」



わたしは、追悼式の様子をテレビで観ましたが、天皇陛下の表情には、たしかに「申し訳ない」という気持ちが表れているように思いました。
「自分の身体で受け止められなかった、申し訳なかった」という気持ちがこれ以上ないほど感じられて、わたしは泣けて仕方がありませんでした。
東日本大震災後、天皇陛下は7週連続で被災地・避難所をご訪問されました。
これは、皇室史上初となる熱心なご訪問でした。
そこでは、1人1人の被災者に温かく声をかけられました。
被災地・避難所での滞在時間は約9時間11分にもなりました。
ここまで、被災者を見舞った国家の元首や政治家が世界のどこにいるでしょうか?
ましてや、がんに冒され、心臓に病を患った方がそこまでされたのです。なぜか?
それは、その方こそが日本で一番の「祈る人」であり、「悼む人」だったからです。
わたしは、そのことを思うと、本当に涙がとまりませんでした。



今日は、陸前高田市石巻市をはじめ、被災各地でも追悼式が行われました。
それぞれの地で、残された人々が犠牲者の御霊を悼みました。
2011年3月11日は、日本人にとって決して忘れることのできない日になりました。
三陸沖の海底で起こった巨大な地震は、信じられないほどの高さの大津波を引き起こし、東北から関東にかけての太平洋岸の海沿いの街や村々に壊滅的な被害をもたらしました。その被害は、福島の第1原子力発電所の事故を引き起こしました。
そう、いまだに現在進行形の大災害は続いているのです。



大量死の光景は、『古事記』に描かれた「黄泉の国」がこの世に現出したようでもあり、また仏教でいう「末法」やキリスト教でいう「終末」のイメージそのものでした。
津波の発生後、しばらくは大量の遺体は発見されず、いま現在も多くの行方不明者がおられます。火葬場も壊れて通常の葬儀をあげることができず、現地では土葬が行われました。さらには、海の近くにあった墓も津波の濁流に流されました。
葬儀ができない、遺体がない、墓がない、遺品がない、そして、気持のやり場がない・・・・・まさに「ない、ない」尽くしの状況は、今回の災害のダメージがいかに甚大であり、辛うじて助かった被災者の方々の心にも大きなダメージが残されたことを示していました。現地では毎日、「人間の尊厳」というものが問われました。亡くなられた犠牲者の尊厳と、生き残った被災者の尊厳がともに問われ続けていたのです。
この国に残る記録の上では、これまでマグニチュード9を超す地震は存在していませんでした。地震津波にそなえて作られていたさまざまな設備施設のための想定をはるかに上回り、日本に未曾有の損害をもたらしました。じつに、日本列島そのものが歪んで2メートル半も東に押しやられたそうです。



それほど巨大な力が、いったい何のためにふるわれ、多くの人命を奪い、町を壊滅させたのでしょうか。あの地震津波原発事故にはどのような意味があったのでしょうか。
東日本大震災以後、さまざまな人々がさまざまなことを考えました。
これからの防災対策、避難の方法、避難所の問題、ボランティアの問題、そして原発の安全性・・・・・すべて、日本人の幸福のために考えられてきました。
でも、わたしは東日本大震災愛する人を亡くした人たちのことを考えました。
人にはそれぞれの役割があり、それぞれに考えるべきことがあります。



愛する人を亡くし、生き残った方々は、これからどう生きるべきなのか。
そんなことを考えながら、わたしは『のこされた あなたへ』(佼成出版社)を書きました。
もちろん、どのような言葉をおかけしたとしても、亡くなった方が生き返ることはありませんし、残された方の悲しみが完全に癒えることもありません。
しかし、少しでもその悲しみが軽くなるお手伝いができないかと、わたしは一生懸命に心を込めて本書を書きました。時には、涙を流しながら書きました。


3・11 その悲しみを乗り越えるために



のこされた あなたへ』で、わたしが一番言いたかったことは何か。
それは、残された人は、亡くなった愛する人に必ずまた会えるということです。
死別はたしかに辛く悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。
残された人は、また亡くなった人に会えるのです。
風や光や雨や雪や星として会える。
夢で会える。
あの世で会える。
生まれ変わって会える。
そして、月で会える。
世の中には、いろんな信仰があり、いろんな物語があります。しかし、いずれにしても、必ず再会できるのです。ですから、死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのです。先に行く人は「では、お先に」と言い、後から行く人は「後から行くから、待っててね」と声をかけるのです。それだけのことなのです。



考えてみれば、本当に不思議なことなのですが、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。
日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうです。
英語の「See you again」もそうです。
フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。
これは、どういうことでしょうか。世界中に住む昔の人間たちは、辛く、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。
でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。
その無意識が、世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。
そう、別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。
「また会えるから」という言葉を合言葉に、愛する人との再会の日を楽しみに、残された方々には生きていただきたいと心から願っています。


被災地・石巻の海に上る月



言うまでもなく、これからも人間は死に続けます。多くの地震津波や台風で、そしてテロや戦争で、世界中の多くの人命が失われることでしょう。また、天災や人災でなくとも、病気や事故などで多くの方々がこの世を卒業されていくでしょう。
愛する人と死に別れることは人間にとって最大の試練です。
しかし、試練の先には再会というご褒美が待っています。けっして、絶望することはありません。けっして、あせる必要もありません。最後には、また会えるのですから。
どうしても寂しくて、悲しくて、辛いときは、どうか夜空の月を見上げて下さい。
そこには、あなたの愛する人の面影が浮かんでいるはずです。
愛する人は、あなたとの再会を楽しみに、そして気長に待ってくれることでしょう。
東日本大震災から1年、多くの死者たちに支えられて、わたしたちは生きていきます。
そう、わたしたちは、これからも生きていくのです。


2012年3月11日 一条真也