吉本隆明の死

一条真也です。

16日、詩人で評論家の吉本隆明氏が87歳で亡くなりました。
1960年代の新左翼運動において教祖的存在とされた人です。
独自の思考に根ざした文化・社会批評で、「思想の巨人」と呼ばれました。


産経ネット」より



60年安保闘争に参加してからは言語論に基づく斬新な思想形成を進めました。
その流れで、『言語にとって美とはなにか』(1965年)、『共同幻想論』(68年)、『心的現象論序説』(71年)などの名著を書きました。
80年代以後は、サブカルチャーを含む文化・社会の変化を多面的に探究しました。
『マス・イメージ論』(84年)、『ハイ・イメージ論』(89〜94年)といった一連の著書では、消費社会に生きる大衆の姿を鋭く描き出しました。
さらに、『最後の親鸞』(76年)などをはじめ、宗教を通して日本人の精神構造を問い続け、95年のオウム真理教事件についても積極的に発言したことは記憶に新しいところです。わたしは、1人の読書人として吉本隆明氏の本はほとんど読んできました。


わが書斎の吉本隆明コーナー



特にわたしは、60〜70年代の青年にとってのバイブル的存在であった『共同幻想論』を愛読しました。わたしは、もちろんずっと後の世代ですが、角川文庫から刊行された改訂新版の『共同幻想論』を何度も繰り返し読みました。
共同幻想論』は、『古事記』や『遠野物語』などの日本人の「こころ」の琴線に触れる書物を取り上げています。そして、『古事記』からは初期国家における共同幻想、『遠野物語』からは村落社会の共同幻想の姿をあぶり出しています。非常にラディカルな問題提起の書なのですが、その「序」には次のように書かれています。
「ここで共同幻想というのは、おおざっぱにいえば個体としての人間の心的な世界と心的な世界がつくりだした以外のすべての観念世界を意味している。
いいかえれば人間が個体としてではなく、なんらかの共同体としてこの世界と関係する観念の在り方のことを指している」


愛読した『改訂新版 共同幻想論』(角川文庫)



共同幻想論』は、「禁制論」「憑人論」「巫覡論」「巫女論」「他界論」「祭儀論」「母制論」「対幻想論」「罪責論」「規範論」「起源論」の11の論考から成っています。
特に興味深いのは「他界論」で、その冒頭部分には次のように書かれています。
「いうまでもなく共同幻想の〈彼岸〉に想定される共同幻想は、たとえいとびとがそういう呼びかたを好まなくても〈他界〉の問題である。そして〈他界〉の問題は個々の人間にとっては、自己幻想か、あるいは〈性〉としての対幻想のなかに繰込まれた共同幻想の問題となってあらわれるほかはない。しかしここに前提がはいる。〈他界〉が想定されるには、かならず幻想的にか生理的にか、あるいは思想的にか〈死〉の関門をとおらなければならないことである。だから現代的な〈他界〉にふみこむばあいでさえ、まず〈死〉の関門をくぐりぬけるほかないのである」


 
その〈死〉についても、次のように述べています。
「〈死〉は生理的には、いつも個体の〈死〉としてしかあらわれない。戦争や突発事で、人間が大量に死んでも、生理的に限定してかんがえるかぎり、多数の個体が同時に死ぬということである。しかし、人間は知人や近親の〈死〉に際会して悲しんだり、じぶんの〈死〉を想像して怖れたり不安になったりできるように〈死〉は人間にとって心の問題としてあらわれる。人間の生理的な〈死〉が、人間にとって心の悲嘆や怖れや不安としてあらわれるとすれば、このばあい〈死〉は個体の心の自己体験の水準にはなく、想像され作為された心の体験の水準になければならない。そしてこのばあい想像や作為の構造は、共同幻想からやってくるのである。
人間にとって〈死〉に特異さがあるとすれば、生理的にはいつも個体の〈死〉としてしかあらわれないのに、心的にはいつも関係についての幻想の〈死〉としてしかあらわれない点にもとめられる。もちろんじぶんの〈死〉についての怖れや不安でさえも、じぶんのじぶんにたいする関係の幻想としてあらわれるのだ」
いま、この文章を読み返してみて、わたしは東日本大震災での津波の大量死、および、その犠牲者たちのことを想わずにはいられませんでした。
この他にも、『共同幻想論』には〈死〉という記号つき単語が無数に登場します。
この一種の麻薬的書物に、わたしは完全にシビレてしまいました。
吉本隆明という人を「政治」を語る人ではなく、「死」を語る人として注目したのです。



〈死〉の思想家であった吉本隆明氏は、いわゆる「臨死体験」に日本人として最も早く注目した1人でもあります。それこそ、『臨死体験』(94年)という大著を書いた立花隆氏よりもずっと早く注目していました。意外と知られていませんが。
吉本氏には『死の位相学』(85年)という名著がありますが、ここには、なんと31もの臨死体験の実例が報告されています。これらの臨死体験の実例は、拙著『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)で紹介させていただきました。


『死の位相学』と『ロマンティック・デス



また、『ロマンティック・デス』では吉本氏の次女である吉本ばなな氏の小説『ムーンライト・シャドウ』も取り上げています。月光の魔力によって死者と生者が交流するというファンタジー要素の強い小説です。その吉本ばなな氏は、父親の逝去について、「最高のお父さんでした」とツイッターで心境を綴っています。
海外滞在中に父の訃報を聞いたというばなな氏は、「父は最後まですごくがんばりました。父が危篤なことを言えずつらい1ケ月でした。一時はもちなおしたのですが。たくさん会ってからこちら(海外)に来たので、悔いはないです」とも述べています。



また、「父はいつでもひとりではなかったし、家族に愛されていました」とも。
さらに、「最後に話したとき『三途の川の手前までいったけど、ばななさんがいいタイミングで上からきてくれて、戻れました』と言ってくれました。もう一度、話したかったです」と述べています。日本における臨死体験研究のパイオニアであった吉本氏が「三途の川の手前までいった」とは興味深い話です。
吉本氏には、ぜひもう一回蘇生していただいて、「かいまみた死後の世界」について詳しく報告してほしかったです。そして、その内容を作家のばなな氏にファンタスティックな小説として書いてほしかったと言うのは欲張りでしょうか。
いずれにせよ、吉本隆明吉本ばなな、本当にすごい父娘だと思います。



ちなみに、わたしは『共同幻想論』へのアンサーブックをいつか書いてみたいと思っています。タイトルは、ずばり『幻想としての家族』。
「国家」よりも「社会」よりも、何よりも「家族」こそが幻想であると唱える本です。
そして、「家族」という抽象的概念を具象化するもの、バーチャルとしての「家族」をリアルにするものこそ、七五三、成人式、結婚式、葬儀、法事・法要といった「冠婚葬祭」ではないかという論を展開してみたいと思います。
最後に、偉大なる〈死〉の思想家・吉本隆明氏の御冥福をお祈りいたします。合掌。


2012年3月17日 一条真也