『「上から目線」の構造』

一条真也です。

『「上から目線」の構造』榎本博明著(日本経済新聞出版社)を読みました。
帯には、「あの人は、何様なのか。」と赤で大書され、「根拠はないのに、自信満々、意見されても、耳を貸さない・・・・・。そんな『上から』な人の心のメカニズム。」と書かれています。著者は、1955年生まれの心理学博士です。


「上から」な人の心のメカニズム



本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。
「目上の人を平気で『できていない』と批判する若手社員、駅や飲食店で威張り散らす中高年から、『自分はこんなものではない』と根拠のない自信を持つ若者まで――なぜ『上から』なのか。なぜ『上から』が気になるのか。心理学的な見地から、そのメカニズムを徹底的に解剖する」



本書の「もくじ」は、以下のような構成になっています。
プロローグ:「上から目線」とは何か
第1章:なぜ「上から目線」が気になるのか
第2章:「上から」に陥りがちな心理構造
第3章:空気読み社会のジレンマ
第4章:目線に敏感な日本人
第5章:「上から目線」の正体
「おわりに」
「参考文献」



最近の若者は、年長者や上司・先輩に向かって「上から目線はやめてください」と言うことがあるそうです。友人に対しても、「何だよ、その上から目線」とか「あいつの上から目線、マジムカつく」などと言っているとか。本書は、このような「上から目線」の心理構造を解剖しようという目的で書かれた本です。
「プロローグ」で、著者は次のように述べています。
「『上から目線はやめてください』と経験者によるアドバイスに対して拒絶反応を示す人は、『上から目線』を含む多様な視線のやりとりに慣れていないということがある。企業の採用にあたってもコミュニケーション力が最も重視されるようになってきたが、それはコミュニケーション力の欠如がビジネスの現場で非常に深刻化していることの表れといえる。その背景には、人とかかわる経験そのものの欠如がある」
著者によれば、経験者による「上から目線」が気になる若者の心理的背景として、人の視線を気にするという日本文化がもともと持っている特徴があるそうです。
そして著者は、「上から」を拒絶する人は父性的な働きかけを拒否しているのではないかと推測します。


 
相手は親切心からアドバイスをしたのに、余計なお世話だと言わんばかりに「その上から目線はやめてください」と口走る人がいます。
その人の心理について、著者は次のように述べています。
「相手が親切で言ってくれたという解釈よりも、相手が優位に立ってものを言ってくるという解釈に重きを置いている。ゆえに感謝の気持ちなど湧くはずもない。アドバイスをしてくるという姿勢が、こちらに対する優位を誇示しているように感じられてならない。だから、ムカつく。バカにするなと言いたくなる。
そこには、親切心から言ってくれた相手の思いに対する共感がない。
そもそも相手の方が経験も知識もはるかに豊かで、こちらにアドバイスできる立場にあるといった認識や敬意が欠けている。
あえて上位・下位、優位、劣位といった図式を用いるとしたら、アドバイスをしてくれた上司や先輩の方が上位・優位に立っているのは、否定しようのない客観的な現実である。その現実に基づいて、親切心からアドバイスをしてくれた相手に対して、『こちらに対して優位を誇示している』ように感じる。
そこに見え隠れしているのは、『見下され不安』である」



著者は、また第1章「なぜ『上から目線』が気になるのか」で、現代は年長者だからといって尊敬される時代ではないと言います。
「上から目線」の立ち位置は、単に年齢によって与えられるのではありません。
では、何によって与えられるのか。それは、仕事上の知識やスキル、経験など、実質的に部下や後輩よりも優れたものを持っていることによって与えられるというのです。
年長者や上司・先輩にとっては厳しい時代であると言えますが、若者たちは実質の伴わない「上から目線」を拒否する傾向にあるとして、著者は次のように述べます。
「必要以上に威張り散らす態度や一方的に決めつける態度に対して、若い世代は不快に思うとともに、「大人の未熟さ」を感じている。鋭い観察力を持つ若手なら、年長者としての上の立場を正当化できるだけの実質を持ち合わせていないことによる『自信のなさや不安』を見抜くに違いない。そこに、軽く見られないための自己防衛の心理メカニズムが働いていることに気づくだろう」



レストランや居酒屋などの飲食店で、店員に対して横柄な態度をとる人がいます。
たいていは年輩者であることが多いのですが、いくら理不尽な文句をつけられても、普通の店員は「申し訳ございません」とひたすら平身低頭謝ります。
しかし、最近は、店員もキレることが少なくないとして、著者は述べます。
「今や店員にもアルバイト感覚が広がっている。店主のように店員としての役割に徹して何があってもお客様を第一に尊重する姿勢を、アルバイターに求めるのは無理がある。アルバイターとしては、今の店の評判が落ちて潰れたところで、同じ時給がもらえる別の店を探せばよいだけのことである。だから、店員としての役割に徹しきれずにキレることもある。客だからといってあまり調子に乗りすぎると、痛い目にあう。
いくら客であっても、人間として対等なのだという意識を持ち、店員に対する敬意を忘れないようにすることが大切だ。周囲から『淋しい人だ』などと見られるのは、それこそ淋しすぎる。気をつけたいものだ」



仕事でも人生でも、経験者は未経験者にアドバイスをするものです。年長者によるアドバイスは「親心による上から目線」であり、けっして非難されるべきものではありません。しかし、どうも若者たちは「ウザイ」と思いがちなようです。
著者は、次のように述べています。
「親切心からアドバイスしたのに『上から』と非難され、若い連中のことを思ってアドバイスすることのどこが悪いのかわからないと嘆く上司や先輩の側の気持ちはよくわかる。でも、子どもの頃に、愛情を持って口出ししてくる親をうっとうしく思ったことを思い出してみれば、部下や後輩の気持ちに想像力を働かせることもできるはずだ。はっきり言って、いちいち言われるのはうっとうしいものだ。
人はだれも自分で考えて動きたい。人の指示で動くロボットのような存在にはなりたくない。自分を動かすコントローラーは自分で握りたいのだ。そうした人間心理を踏まえて、『上から』のアドバイスを効果的に用いなければならない」



ちょっと考えさせられたのは第3章「空気読み社会のジレンマ」で、冒頭に「トイレで弁当を食べる大学生」という話が登場します。
そこで、著者は次のように書いています。
「『ひとりが怖い』という特集が2010年春にNHKテレビで報道されて、巷の話題になった。1人で学食に行けないため、トイレで弁当を食べる大学生が増えているというのである。これは少し前から『便所食』といってネット上で都市伝説として広まっており、ただのネタだろうとみる人たちが多かったようだが、実際に取材してみるとホントだったというわけだ。トイレの個室の便器に座って弁当を食べる。あまり想像したくない図である。せっかくの弁当が不味くなってしまう。だが、そもそもなぜ1人で学食に行けないのか。それは、1人で学食で食べていると、『友達のいない孤独なヤツ』と見られるからだという」



著者によれば、このトイレで弁当を食べる大学生という奇妙に歪んだ現象にも、視線の問題が深く絡んでいるといいます。
「友達のいないヤツ」「孤独なヤツ」と見られることを恐れるあまり、人目のある場所では昼食が食べられなくなるのです。そして、人目を忍んでトイレに駆け込み個室で弁当を食べるわけです。著者は「人の視線に脅える気持ちが、それほどまでに切実なのである」と述べています。



さらに、著者は次のように述べています。
「人間関係が苦手という人たちは、みんな人との距離のとり方がわからなくて悩んでいる。相手との関係に応じて、それにふさわしい距離をとるのが人間関係のルールだが、その距離感がうまくつかめないのである。いわば対人距離失調症である。
これはまさに精神分析でいうヤマアラシ・ジレンマ状況といえる」


 
ヤマアラシ・ジレンマ状況」とは、哲学者ショーペンハウエルが描いたエピソードをもとに、精神分析学者のフロイトが唱えたもので、人と人の間の心理的距離をめぐる葛藤とアンビバレンスのことです。これについて、著者は次のように述べています。
フロイトによれば、夫婦関係、友情、親子関係など親密な感情を伴う2者関係は、ほとんどすべて拒絶し敵対するような感情的なしこりを含んでいる。同僚同士で争ったり、部下が幹部に不満を持ったりするのも、関係が近いからだという。さらに、それは個人間のみならず、結婚によって結ばれた2つの家族、隣接した2つの都市や国家、近縁な民族など、集団間にも当てはまり、近ければ近いほど克服しがたい反感が生じるという」



第4章「目線に敏感な日本人」では、「世間体」というキーワードが出てきます。
「世間体が悪い」という言い方があります。「世間体」を気にするというと、何かネガティブな心の動きを連想しがちです。つまり、体裁ばかり気にしたり、カッコつけたり、見栄を張ったりという印象があるのです。辞書を引いても、「世間体」とは「世間に対する体裁や見栄」とあります。著者は、次のように述べています。
「人目を気にせずに傍若無人に振る舞うのが好ましいと思う人はいないだろうが、人目を気にするというと好ましくないようなイメージにつながりやすいし、人目を気にせずに自分が正しいと思うことを行うのが大切なのは確かだろう。
だが、もともと世間の目に映る自分の姿を気にすることによって自己規制を働かせるというのが、日本文化における重要な行動規範であった。世間の人たちの視線を意識し、それに恥じない行動をとるというメカニズムによって、倫理観を内面化していく。それを『世間体』の原理といってもよいだろう」
著者のこの意見には、わたしは全面的に賛成です。



第5章「『上から目線』の正体」の最後では、就活すら親がサポートする現状、学生を「お客様」扱いする大学といった実例をあげて、若者を甘やかしすぎる現代社会を嘆きます。そして、そこには父性原理が弱体化し、母性原理のみで「すべてよい子」の時代になってきていると指摘します。
現代では、我が子や若者に対して説教臭いことは言わず、「そのままに君でいいんだよ」と肯定するだけの親や年長者が多くなってきました。しかし、「やさしさ」と「弱さ」は紙一重であり、「引きこもり」がどんどん増加している現状を忘れてはなりません。



あえて「親心からの上から目線」は必要であるとする著者は、次のように述べます。
「挫折状況に耐えがたい辛さを感じるメンタルに弱い者より、あまり辛さを感じないメンタルに強い者の方が、人生を前向きに歩んでいくことができるだろう。そう考えると、『そのままの君でいいんだよ』と過保護にするのは『思慮の浅いやさしさ』であり、ほんとうに相手の幸せを思うなら、メンタルに鍛えてあげるのが『真のやさしさ』なのではないか。
本来緊急時の集中治療室に収容しているときだけに適用すべき心のケアの精神が、日常場面にまで誤って適用されると、メンタルに弱い人間や向上する意欲の乏しい人間が量産されてしまう。『そのままの君でいい』というスタンスは、一生集中治療室的な保護を必要とするような心性に育ててしまう危険があるのだ」



わたしの父は、わが社の会長でもあるのですが、わたしの顔を見るたびに厳しい言葉を口にするので、正直言って閉口することもよくありました。
しかし、考えてみれば、息子を少しでも良くしてやろうという「親心からの上から目線」であり、ほんとうに相手の幸せを思う「真のやさしさ」なのだと思います。
いつも、わたしをメンタルに鍛えてくれる父に感謝しています。いや、ほんとに。


2012年3月19日 一条真也