『居場所の社会学』

一条真也です。

『居場所の社会学阿部真大著(日本経済新聞出版社)を読みました。
帯には「あなたの居場所はどこですか?」と大きく書かれています。
そして、以下の文章が続いています。
「居場所とは、ぶつかり合いながら、時にはひとりで、時にはみんなでつくっていくもの――――。フリーター、就活生からリタイア男性、逸脱集団まで、著者自身の居場所探し体験と重ね合わせ、誰もが気持ち良く働き、暮らしていくヒントを示す」


あなたの居場所はどこですか?



著者は、1976年生まれの社会学者で、専門は労働社会学、家族社会学、社会調査論だそうです。本書の扉の次のページには、次のような言葉が記されています。
「給料はきちんと払っているのに、従業員がすぐに辞めてしまう。
ワークライフバランス』と言われても、そのバランスがうまくとれない。
この国の政治が信じられず、将来の自分の生活が不安だ。
家族や恋人との関係がなかなかうまくいかない。
思春期の子どものイライラの理由が分からない――。
それは「居場所」の問題です!」



本書の「目次」は、次のようになっています。
「はじめに」
Ⅰ.職場と居場所
  第1章:ぶつかり合う居場所――リタイア男性とコミュ二ティケア
  第2章:ひとりの居場所――高齢フリーターとバイト先
  補論1:家族と居場所――「家族からの自由」から「家族への自由」へ
  補論2:恋愛と居場所――地獄の男女関係から逃れるために
Ⅱ.社会と居場所
  第3章:第三の居場所――若者と仲間
  補論3:『反撃カルチャー』(雨宮処凛著)書評
  第4章:臨界点の居場所――シューカツに失敗した大学生と社会
  補論4:『日常人類学宣言!』(松田素二著)書評
Ⅲ.ジモトと居場所
  第5章:ヤンキーの居場所――逸脱集団と地域社会
特別収録
「企業社会vsJポップの30年」阿部真大インタビュー
「ポスト3・11の居場所論」
「おわりに」
「謝辞」
「本書のもとになった論文一覧」



第1章に先立って、著者は「居場所がない」と思い、働くことを前に立ち止まっている人がいると指摘します。本書では、そうした人が職場に居場所をつくれるようにするためにはどうすればよいかを考えていくわけですが、最終的には「居場所づくりのふたつの類型」を示すことになるとして、著者は次のように述べます。
「ひとつは、徹底的に他者とぶつかり合う居場所づくり、もうひとつは、徹底的に他者とぶつかり合わない居場所づくりである。これが、職場に居場所をつくっていく際のふたつの方向性となる。前者においては、職場におけるコンフリクト(摩擦)を調停するコミュニケーターの存在が必須になるだろうし、後者においては、職場のマニュアル化の推進が効果的だろう。いずれを採用するかは職務の内容とその職務に就く人の性格により決定される」



わが社では、いま、生活保護受給者の就労支援を行っています。
これは、本書でいう「居場所としての職場」を提供するということでしょう。
つまり、社会での居場所を見つけにくい人たちをサポートさせていただいています。
詳しくは、ブログ「就労支援記者会見」ブログ「脱生活保護へ・・・」をお読み下さい。



そして、著者は以下に紹介するような「居場所に関する命題」を次々に示していきます。
【命題1】誰かと一緒にいるからといって、居場所があるわけではない
同じ場所で同じことをしているからといって、そこがその人の居場所であるとは限りません。居場所の問題を考えるにあたって大事なのは、その人がそこを居場所と感じているか否かであるというのです。
【命題2】ひとりでいることはスティグマ化することもある
居場所がないことはその人に「寂しい」という感情をもたらすだけではありません。
周囲から負のレッテル(スティグマ)を貼られることで「恥ずかしい」という感情をもたらすこともあるのです。
【命題3】居場所の拡張は間違うこともある
居場所の拡張に失敗すると、まわりの反感を買います。
最終的には、その人の孤立をいっそう深めることにもなりかねません。



【命題4】過剰適応はよくない
居場所を見つけようとする人は、集団に過剰適応しがちです。
しかし、それは本人にストレスを与え、最終的に孤立を深めかねません。
【命題5】まわりとのコンフリクトを解決していくなかで、新しい居場所はできる
自分が変わり、まわりの人たちにも影響を与えることで、これまでの自分の居場所とは違う、新しい居場所をつくることができます。
【命題6】誰といなくても、そこは居場所となりうる
ひとりでいたとしても、本人がそこを居場所だと思っていれば、そこは居場所なのです。



【命題7】一定の条件のもとでの「ひとりきり」はスティグマ化しない
ひとりきりでいるときや、自分だけですることがあるときは、ひとりでいることはスティグマ化しません。たとえば、著者は「携帯電話のスティグマ解除機能」というものを指摘し、次のように述べます。
「携帯電話は、つながっている先の人間関係のことが話題になることが多い。
でも、それが現実の生活世界においてもつ意味を考えることも重要です。
そのひとつとして、携帯電話はひとりでいることのスティグマを解除する機能をもっている、ということが言えます。
みんなで盛り上がっているのに、そのなかでひとりだけ携帯電話ばかりを見ていて気分が悪かった。そんな経験がある人も多いことでしょう。しかし、対人コミュニケーションが苦手な人にとっては、そんなとき、携帯電話は『救い』にもなりえます。たとえば、まわりの人と話したくないとき、携帯電話をいじっていれば、その場から逃れることができます。これが携帯電話のスティグマ解除機能です。
携帯コミュニケーションのもつ、対人コミュニケーションに対するマイナスの部分もあるとは思いますが、それによって対人コミュニケーションから逃れられるというプラスの部分にも注目していいと思います。使い方を間違えると多くの人を『ひとりの居場所』に閉じ込めてしまうかもしれませんが、うまく使えば『ひとりの居場所』を生み出す絶好の機会になるかもしれません」


【命題8】職場のマニュアル化によって「ひとりの居場所」を守ることができる
職場をマニュアル化することで、まわりとのコミュニケーションが遮断され、そこで働く人は「ひとりの居場所」を確保することができます。
さらに、著者は以下のように、12までの命題を紹介していきます。
【命題9】居場所はその人にとっての「いのちづな」である
【命題10】居場所としての職場は、それが不安定な1カ所となったとき、問題化しやすい
【命題11】第三の居場所づくりはオルト・エリートの知恵に学ぶことができる
【命題12】臨界点の居場所を知ることは安心感につながる



著者は、かの上野千鶴子氏の弟子のようです。
補論3『反撃カルチャー』(雨宮処凛著)書評で、著者は次のように述べています。
「かつて日本には『近代家族』という幸せのシステムがあった。近代家族は『正社員』と呼ばれる男と『専業主婦』と呼ばれる女のセットで成り立っていて、男は外に働きに出て女は家で家事や育児に励んだ」
このへんは理解できるのですが、疑問に思う箇所もありました。
特別収録「ポスト3・11の居場所論」で「血縁・地縁から選択縁へ」を述べたくだりです。
著者は、日本人の血縁や地縁はどんどん崩壊しているのだから、日本人は新しいコミュ二ティをつくり直す必要があるとして、次のように述べます。
「そこでつくり直される新しいコミュニティはどういうものになるのだろうか。それは、ひと言で言うと、『選択縁』(上野千鶴子)に基づくコミュニティである。『選択縁』とは、家族や親族に代表される『血縁』や古くからの町内会などに代表される『地縁』とは異なり、個々人が『選ぶ』ことによってつくられる縁のことである。多様化、流動化の進んだコミュニティにおいてつくり直される人と人との絆は、選択縁でしかありえない。血縁・地縁から選択縁へ。これが、コミュニティの再生を考える際、我々に求められるひとつ目の発想の転換である」



言いたいことは、わかるのですが、正直言って「浅い」と思います。
隣人の時代』(三五館)にも書きましたし、当ブログでも何度も述べていますが、たしかに「選ぶ」ことによってつくられる「選択縁」をはじめ、多くの「縁」がこれから求められていきます。でも、それらはしょせん「血縁」や「地縁」あってのものなのです。
人間は、どこまで行っても「血縁」と「地縁」から離れることはできません。
新しい「縁」を育てていくことも大切ですが、コミュニティの再生を考えるなら、まずは血縁と地縁の再生こそが最優先課題なのです。


 
また、著者は次のようにも述べています。
「ノスタルジーにしがみつくのはやめて『血縁・地縁から選択縁へ』という発想の転換が必要である。私がこのことをことさら強調するのには、人々のノスタルジーが帰結してしまうかもしれない『バックラッシュ』と呼ばれる現象を避けたいと思っているためである。
今の被災地の状況を見て、コミュニティワークを担う人材が必要だということで、女性の無償労働を活用するという方向に議論が流れてもおかしくはない。これがバックラッシュである。それはつまりコミュニティワークの空白地帯に女性の力を都合よく流し込んでいくという解決策である。しかし先に見たように、主婦のつくる地域社会とは強い血縁・地縁関係を基盤としたものであった。それはもはやノスタルジーのなかにしか存在しない。ノスタルジーの上に新しい社会を構想したとしても、それは『砂上の桜閣』となってしまうだろう」



血縁と地縁を重要視するのは、別にノスタルジーにしがみついているわけではありません。そうではなくて、血縁と地縁なくして、そもそも「コミュニティ」というものは成立しないからです。また、著者は「選択縁」を提唱することがさも最先端のように思っているようですが、師匠の上野千鶴子氏をはじめ、すでに多くの人々が唱えていることであり、珍しくも何ともありません。むしろ、陳腐な意見であると言ってもよいでしょう。
「血縁・地縁から選択縁へ」を唱えるのは、今や学者や言論人の間ではメジャーな立場です。わたしのような血縁と地縁の再生を優先すべきだという者は、ドン・キホーテに等しいでしょう。でも、わたしは社会学者でも批評家でもありませんし、「隣人祭り」や「就労支援」などによって、現実に多くの方々に「居場所」を与えるお手伝いをしたいと思っています。ということで、「血縁・地縁から選択縁へ」という結論には安易さを感じてしまいましたが、「居場所に関する12の命題」などは非常に参考になりました。
正直言って、最後の部分だけが「惜しい」と思った一冊でした。


2012年3月20日 一条真也