雨の日、霊を求めて

一条真也です。

九州では、非常に激しい雨が降っています。
梅雨前線の活動が活発になり、局地的に豪雨のおそれがあるとか。
気象庁は、土砂災害や洪水などに厳重に警戒するよう呼びかけています。
こんな雨の日曜日の午後、わたしは「幽霊」のことばかり考えていました。


雨の日曜日の午後、「幽霊」の本を読みました



じつは、「出版界の丹下段平」こと三五館の星山社長から次回作として『グリーフケアとしての怪談』(仮題)の執筆を依頼されています。そのため、最近は古今東西の怪談論の類に目を通していました。そして、怪談には必ずと言ってよいほど、死者の霊すなわち「幽霊」が登場しますので、幽霊に関する文献をいろいろと読んできました。
といっても、すぐにこのブログで「怪談」や「幽霊」についての本の書評が続々とUPされるわけではありません。前にも書きましたが、わたしの書評ブログには大量のストックがあります。ふつうは読んでから1ヵ月後のUPというのもザラで、中には半年以上の時差でUPされる書評もあるのです。でも、それらの本の中から、興味深い内容のものを選んで、必ず書評をUPしますので、しばしお待ち下さい。


なぜ、人間は幽霊を見るのか



わたしは、「幽霊は実在するのか、しないのか」といった二元論よりも、「なぜ、人間は幽霊を見るのか」とか「幽霊とは何か」といったテーマに関心があります。
あまり「幽霊に関心がある」などと言うと、冠婚葬祭会社の社長としてイメージ的に良くないのではと思った時期もありましたが、最近では「慰霊」「鎮魂」あるいは「グリーフケア」というコンセプトを前にして、怪談も幽霊も、さらには葬儀も、すべては生者と死者とのコミュニケーションの問題としてトータルに考えることができると思います。
あえて誤解を怖れずに言うならば、今後の葬儀演出を考えた場合、「幽霊づくり」というテーマが立ち上がってきます。もっとも、その「幽霊」とは恐怖の対象ではありません。生者にとって優しく、愛しく、なつかしい死者としての「優霊」です。


「幽霊づくり」について提唱しました



かつて、わたしは『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)において、ホログラフィーを使った「幽霊づくり」を提唱したことがありました。
玄侑宗久さんが「月落ちて天を離れず」という同書の素晴らしい書評を書いて下さいましたが、そこでわたしが提唱する「幽霊づくり」に触れておられます。
しかし、「幽霊づくり」というのは、けっして奇抜なアイデアではありません。
幽霊が登場する怪談芝居だって、心霊写真だって、立派な「幽霊づくり」です。
ブログ『心霊写真』にも書いたように、死者が撮影されるという「心霊写真」はもともと死別の悲しみを癒すグリーフケア・メディアとして誕生したという経緯があります。写真にしろ映画にしろ、さらには覗きからくり、幻燈、ファンタスマゴリアなどのオールド・メディアにしろ、すべての視覚的メディアは本質的に「幽霊づくり」に直結しています。
すでに死亡している人物が登場する写真や映像は、すべて死者の生前の姿を生者に提供するという意味で「幽霊づくり」なのではないでしょうか。
葬儀の場面では「遺影」として故人の生前の写真が使われています。
これなど、いずれ動画での遺影が主流になるかもしれません。


動画といえば、平井堅坂本九と「見上げてごらん夜の星を」を、青木隆治美空ひばりと「愛燦燦」を一緒に歌っているコラボ映像を見たことがあります。わたしは、それらを見ながら、完全に「幽霊づくり」そのものであると思いました。なぜなら、生きている歌手の横で一緒に歌う坂本九美空ひばりは、すでにこの世の人ではないからです。
あの映像では、死者があたかも生きているかのように歌っていたからです。
今日、わたしは「幽霊とは何か」ということが自分なりにわかったような気がします。
じつは、われながら面白いアイデアを思いつきました。
このまま会社にも行かず、業界の会合にも出ず、出張も一切しないで、このまま書斎に1ヵ月くらい引きこもることが許されるなら、きっと物凄い『幽霊論』(仮題)を書き上げることができるのではないかと思います。まあ、そんなことは現実には不可能なので、そのアイデアは大事に温めておきたいと思います(苦笑)。


雨の午後といえば、わたしの心には1本の映画のタイトルが浮かんできます。
もう何回か観ている作品ですが、“Seance on a Wet Afternoon”という1964年製作のイギリス映画です。日本では、「雨の午後の降霊祭」というタイトルです。


「雨の午後の降霊祭」のDVD



内容を簡単に説明すると、心霊術師の夫婦が綿密な計画を基に少女誘拐を実行するというサスペンス映画です。ロンドンの街はずれに住む女心霊術師と、その夫は毎水曜日の午後、会員を集めて降霊祭をやっていました。2人には数年前、生まれたばかりの男の子を亡くすという経験がありました。それ以来、傷心の妻が心霊術に打ち込むようになったのでした。雨の日、降霊祭が終わってから、夫婦は前々から計画中だった少女誘拐計画の仕上げを急ぎます。これ以上ストーリーを書くとネタバレになるのでやめておきますが、とにかく震え上がるほど怖い映画です。


「降霊」のDVD



Jホラーを代表する黒沢清監督に「降霊」という作品があります。
これも非常に怖い映画で、わたしは自分のHP内にある「私の20世紀」の中の「20本の邦画」で最後の一本に選んだくらい完成度の高い作品です。
その「降霊」は、じつは「雨の午後の降霊祭」のリメイクなのでした。
ブログ「こわい映画を求めて」にも書いたように、わたしは大のホラー映画ファンです。
そのわたしから見て、日本映画史上で「降霊」が最も怖い映画なら、世界映画史上では「雨の午後の降霊祭」が最も怖い映画だと思います。
何がそんなに怖いのかというと、この映画を観ると、「幽霊とは何か」という問題を通して「人間とは何か」、そして「存在とは何か」という実存主義にも通じる存在論的恐怖を感じてしまうからです。DVDも発売されていますので、興味がある方はぜひ御覧下さい。


それにしても、雨が激しく降ると、自然と死者のことを考えてしまうのは何故でしょうか。
おそらく、雨音には心の奥の深い部分を刺激する何かがあるのかもしれません。
わたしは、ずっと雨音を聞きながら、孔子のことを思いました。
よく知られているように、孔子儒教という宗教を開きました。
儒教の「儒」という字は「濡」に似ていますが、これも語源は同じです。
ともに乾いたものに潤いを与えるという意味があります。すなわち、「濡」とは乾いた土地に水を与えること、「儒」とは乾いた人心に思いやりを与えることなのです。
孔子の母親は雨乞いと葬儀を司るシャーマンだったとされています。
雨を降らすことも、葬儀をあげることも同じことだったのです。
雨乞いとは天の「雲」を地に下ろすこと、葬儀とは地の「霊」を天に上げること。
その上下のベクトルが違うだけで、天と地に路をつくる点では同じです。
母を深く愛していた孔子は、母と同じく「葬礼」というものに最大の価値を置き、自ら儒教を開いて、「人の道」を追求したのです。ということで、わたしが「幽霊」に強い関心を持つのも「人の道」につながっているのかもしれません。
そう、「霊を求めて」は「礼を求めて」に通じるのです。たぶん。


2012年6月24日 一条真也