大雨と人間

一条真也です。

おはようございます。東京にいます。
今日は、13日の金曜日ですね。イエスが処刑されたとされる日です。
わたしはクリスチャンではありませんが、今日は慎重に行動したいものです。


朝日新聞」7月13日朝刊



さて、昨日はまたまた九州北部が記録的な豪雨に見舞われました。
熊本、大分両県では計16人が死亡、10人が行方不明になっています。
今日は、福岡県全域に大雨と竜巻の注意報が出されています。とても心配です。
これまで、ブログ「明日晴れるかな」ブログ「九州の豪雨」でも、わたしは九州北部の「記録的な豪雨」について書いてきました。なんだか、だんだん「記録的な豪雨」という言葉が珍しくなくなってきている感じがします。
気象庁は、昨日の豪雨について「これまでに経験したことのない大雨」という表現を初適用したそうです。要するに「未曾有の豪雨」という意味ですが、この「これまでに経験したことのない大雨」という言葉にはゾッとするような響きがありますね。
「記録」にないことよりも「記憶」にないことのほうが怖いです。


それにしても、わたしが出張で九州を離れているときに限って、九州で大雨が降るのも不思議です。雨に限らず、これまでの人生を振り返ると、わたしは大きな事故や災害を事前に避けて行動してきたことが多々ありました。
ブログ「大地震」に書いたように、2011年3月11日、わたしは東京の羽田空港を14時05分発のスターフライヤー81便で発ち、15時50分に北九州空港に到着しました。
空港のロビーが騒然となっており、大型のテレビ・モニターには大量の自動車が水に浮かんで流されている衝撃的な映像が流されていました。
14時46分に東北の三陸沖で大地震が発生したというのです。
あのとき、飛行機が一便遅れていたら、わたしは大変なことになっていたでしょう。



ブログ「『こころの再生』シンポジウム」に書いたように、わたしは「東日本大震災グリーフケアについて」の報告をさせていただきました。
14時46分の地震の発生時刻には鎮魂の黙祷を捧げました。
東北の被災者の方々に思いを馳せたのも束の間、その直後に九州で多くの方々が豪雨の犠牲になられたわけです。なんとも複雑な思いです。
地震に豪雨、本当に「これまでに経験したことのない」自然災害が続きます。
「こころの再生」シンポジウムで司会を務められた鎌田東二先生は、わたしとのWeb往復書簡である「ムーンサルトレター」の中で、何度も自然災害の意味について言及してこられました。最新の第84信においても、次のように書かれています。
「わたしは人間が作り上げた文明を大きく変えていくのは気象や自然災害だと思っています。20世紀が戦争の世紀だとすれば、21世紀は災害の世紀になるのではないかと思っています。なので、風の吹き方とか、雨の降り方とか、季節の移り変わりとか、温度の変化などに注意すると同時に、敏感になっています。20年前くらいから雷の鳴り方が変わり、積乱雲の出方も変わりました。雪の降り方や台風の来方も、集中豪雨の降り方も変わりました。そして、4〜5年前から風の吹き方が変わったとはっきり感じていました。そんな中で、人間だけが変わらないはずはありません」



鎌田先生は、比叡山山麓にお住まいです。
先生によれば、山の動物たちにも異変が生じているそうです。
「動物世界の生態系も変貌しつつあります。わたしは人類が猿から進化したという進化論がしっくりしません。もちろん、人類が知性やものづくりや文明などを発達させたことは否定できません。が、それが進化と言えるのか、これまでとても疑問に思ってきましたが、いよいよその疑問は深まってきています。ニンゲンは、猿から人類に向かって退化しているのではないかとよく考えます。『大化の改新』ならぬ『退化の回診』」
鎌田先生は一歩、森の中に入ると、「人間がいと小さきものであるか」がよくわかるといいます。また、人間の能力も大したことはないと思わざるを得ないとして、「要するに、文明の利器などがなければ、大変たいへんひ弱な生き物がニンゲンなのです」と述べています。さらに、最近の原発再稼動の動きなどに触れられつつ、「現代日本人種のニンゲンは本当に愚か者で、森の動物以下どころか、救いがたい大悪人ではないかと思わざるを得ません」とさえ書かれています。うーん。



じつは「人間」についての見方で、鎌田先生とわたしの間には、これまで何度か意見の食い違いがありました。「天下布礼」の道をゆくわたしは「人間尊重」をミッションとして生きていますが、鎌田先生はこれまでの「人間偏重」の文明が地球を危機に陥らせているのではないかというのです。わたしは「もっと、人間を尊重しなければいけない」と言うわけですが、鎌田先生は「これ以上、人間を偏重してはいけない」と言うわけです。
まあ、そのような「人間」観の違いはあるにせよ、鎌田先生とは「明るい世直し」という志を共にしています。また、さまざまな人々のネットワークを構築し、「縁の行者」として新しい有縁社会を求めておられる鎌田先生をわたしは心から尊敬しています。



意見の食い違いといえば、一昨日、一緒に飲んだ玄侑宗久さんと島薗進先生の会話を思い出します。放射能の健康影響に関するお二人の認識はまったく違っており、それについてガチンコで激論を交わされていました。しかし、お二人とも非常に紳士的に自説を述べられ、そのくせけっして安易に相手の意見を受け入れて妥協しようとはされず、ひたすら放射能の健康影響についての事実を追求しておられました。
その様子を隣で見ていたわたしは、静かな感動を覚えました。
正直、「本当の賢人とは、このように議論をするものか」と思いました。
そこには、マイケル・サンデル教授のいう「礼儀正しい議論」の理想の姿がありました。
なお、島薗先生がわたしのブログを引かれて、ご自身のツイッターに書かれています。
わたしは島薗先生が芋焼酎を飲まれたとブログに書いたのですが、飲まれていたのは黒糖焼酎の間違いであるとの御指摘を受けました。
島薗先生、このたびは大変失礼いたしました(笑)。
笑い事でなく、何事も事実が大切。まずは事実ありきです!



玄侑先生、島薗先生、そして鎌田先生・・・・・わたしには、多くの師がいます。
いつも、先生方から大きな学びを与えられています。本当に幸せです。
今日は、もう1人の敬愛する師にお会いします。
立命館大学教授の加地伸行先生です。
加地先生は、日本を代表する中国哲学者であり、儒教研究の最高権威です。
今日は、「仏教的儒教儒教的仏教と〜葬儀の本質」というテーマで講演をされます。
わたしの「人間観」に大きな影響を与えた最大の人物は孔子です。
その孔子が拓いた儒教の話を碩学から聞けるということで、非常に楽しみです。



これまでに何度も書いてきましたが、雨と儒教には深い関係があります。
儒教の「儒」という字は「濡」に似ていますが、語源は同じです。
ともに乾いたものに潤いを与えるという意味があります。すなわち、「濡」とは乾いた土地に水を与えること、「儒」とは乾いた人心に思いやりを与えることなのです。
孔子の母親は雨乞いと葬儀を司るシャーマンだったとされています。
雨を降らすことも、葬儀をあげることも同じことだったのです。
雨乞いとは天の「雲」を地に下ろすこと、葬儀とは地の「霊」を天に上げること。
その上下のベクトルが違うだけで、天と地に路をつくる点では同じです。
母を深く愛していた孔子は、母と同じく「葬礼」というものに最大の価値を置き、自ら儒教を開いて、「人の道」を追求したのです。
最後に、このたびの大雨で亡くなられた方々の御冥福をお祈りいたします。合掌。


2012年7月13日 一条真也