水と人類

一条真也です。

今日の北九州は晴天です。雲はありますが、陽射しが強いです。
まるで、昨日の豪雨が幻であったように思えます。
しかし、あの雨は幻でも夢でもなく、紛れもない現実でした。
新聞の朝刊にも、一面で九州豪雨禍が取り上げられていました。


自宅の庭から見上げた北九州の空

朝日新聞」7月15日朝刊



死者は合計22人となり、一時は36万人に避難勧告が出されたそうです。
ブログ「大雨と人間」にも書いたように、わたしが出張で九州を離れているときに限って九州で大雨が降っていましたが、今度ばかりは豪雨に直撃されました。昨日の雨だけを見ても、「こんな大雨は、これまでに経験したことがない」と思えるほどでした。
北九州市内では4ヵ所で崖崩れが発生し、住宅1棟が床下浸水しました。
昨夕、北九州市は土砂崩れの恐れがあるとして、門司区東門司2丁目の23世帯44人に避難勧告を出したほか、一時3世帯が自主避難しました。小倉北区の黒原では、崖崩れで空き家の外壁の一部が壊れました。八幡東区高見では、高さ約2メートル、幅約20メートルにわたって土砂が崩れ、近くの3世帯6人が一時自主避難しました。


朝日新聞」7月15日朝刊



もちろん、被害は北九州市だけではありません。
行橋市では、市営住宅3棟と民家2棟が床下浸水しました。
県道や市道計9ヵ所が冠水し、うち3ヵ所で一時通行止めに、1ヵ所で道路が陥没しました。遠賀町でも冠水のため町道3ヵ所が通行止めになりました。築上町豊前市でも床下浸水が多く見られました。いずれもわが社の営業エリアであり、多くの会員様や社員のみなさんが住んでいるので、本当に心配しました。


朝日新聞」7月15日朝刊



もっとも心配したのは、やはりわが社の会員様や社員のみなさんが多い大分県でした。
大分県境を流れる山国川の水位が非常に上昇したのです。
ブログ「九州の豪雨」にも書きましたように、7月3日にも大分県では集中豪雨がありました。昨日は、福岡県八女市で結婚式場が濁流に呑みこまれて流されたそうです。
3日には、日田市にあるわが社の結婚式場「マリエールオークパイン日田」でも一部で床下浸水がありましたし、オープンしたばかりの中津駅横の結婚式場「ヴィラルーチェ」も心配でした。もちろん建物などではなく、お客様や社員の安全が心配でした。
本当に、「これまでに経験したことのない大雨」に九州は襲われたのです。


テレビで各地の豪雨による被害状況を見ながら、わたしは「まるで津波が来たようだ」と思いました。そして「九州が東北の痛みを共有したのではないか」とも思いました。
このたび北九州市が震災瓦礫の受け入れを実行しました。賛否両論というか、ものすごい反対がありましたが、わたしは意義のあることだと思っています。
自らの信念を貫かれた北橋健治市長に心からの敬意を表したいと思います。
「隣人の時代」においては、住民エゴは許されません。
わたしが副会長を務める冠婚葬祭互助会の業界団体である全互連では、来年の全国総会を福島県いわき市で開催することに決定しました。
互助会とは「相互扶助」を理念とする組織に他なりません。
「助け合い」「支え合い」こそが、互助会の存立基盤となっています。
その全国総会を福島で開催することは非常に意味があると思います。


「絆(きずな)」という言葉の中には「きず」が入っています。
傷を共有してこそ、はじめて絆は生まれるのです。
けっして口だけで「頑張って」などと言っても絆は生まれません。
その意味で、現在の被災地と北九州市の間には、絆があります。同じく、豪雨の被害に遭った人々と津波の被害に遭った人々の心もつながったのではないでしょうか。
それにしても、豪雨にしろ、津波にしろ、一瞬で多くの人命を奪う水の脅威は凄まじいものです。いったい、水とは人類にとって何なのでしょうか。
日曜日の午後、わたしは「水と人類」について思いを馳せました。



古代ギリシャのミレトスのタレスは、「万物は水である」と主張しました。
タレス本人の書いたものは残っておらず、アリストテレスが『形而上学』に「哲学の開祖タレスは、水が始原アルケーであるといっている」と記したのです。
ソクラテス以前の自然哲学者であるタレスは、世界を構成する原理的な物質は水であるという宇宙論を持っていたようです。そして、このタレスアリストテレスほどの大物が「哲学の開祖」と認めている点は重要です。アリストテレスの師であるプラトンも、水を「真実性を立証する液体」と表現しています。そして、このタレスの水の宇宙論を批判的に受け継ぐことで、ギリシャの科学は発展しました。
しかし、実際はタレスが水の宇宙論を最初に提唱したのではありません。タレスよりも2、3世紀前のホメロスが有名な『イリアス』の中に「万物の生みの親であるオケアノス」と書いているのです。オケアノスとは「大洋」という意味で、後に英語ではオーシャンと呼ばれます。ホメロスは、世界が大洋、つまり水から生まれたと語っているのです。



また、ユダヤ人も水から天地が創造されたと考えていたふしがあります。
旧約聖書』の「創世記」の冒頭には、「はじめに神は天と地を創造された」とはじまり、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」と続きます。「淵」というのは深淵で、深い水のことです。そして、2日目に神は「水の間に大空があって、水と水とを分けよ」と言いました。
水を2つに分けることによって、天と地をつくったわけです。
タレス宇宙論を思わせますが、この宇宙論ユダヤ人の創作ではありません。
その原形は、紀元前2000年紀のバビロニアの神話「エヌマ・エリシュ」の宇宙論にありました。この神話によれば、英雄神マルドゥク水の女神であるティアマトを2つに切り裂き、それによって天と地を張りめぐらしたといいます。
「創世記」で「淵」と訳されたテフヌトは、「エヌマ・エリシュ」の水の女神ティアマトと語源を同じくします。おそらくこの水の神の殺戮による天地創造神話の起源はシュメール時代までさかのぼるとされます。紀元前3000年頃からメソポタミアで語られていた神話が、バビロニアに伝わり、ユダヤ人がバビロンに捕囚されていた前6世紀頃にバビロニアの世界創造の神話と遭遇したと推測されています。



水の宇宙論は、シュメール・バビロニアユダヤギリシャに限らず、インドや中国にまで及びます。インドにおいては、アーリア人聖典である『リグ・ヴェーダ』の「宇宙開闢の歌」の中に「原初は水と暗黒であった」という宇宙の生成論が見られます。
また、『ヴェーダ』の註釈である「プラーフマナ文献」の中にも、「太初において、宇宙は実に水であった」という水の宇宙論があります。
古代の中国でも水の宇宙論が唱えられました。
前漢の『淮南子』天文訓では、「気」から天地・万物が生まれたとありますが、古くは、水を始原とする宇宙論でしたし、戦国時代に成立した『書経』には「一は水と為す。二は火と為す。三は木と為す。四は金と為す。五は土と為す」という五行説が紹介されていますが、これも水にはじまる生成論でした。
老子』や『太一生水』といった道家の書でも、水の始原性を強調しています。
この他にも、水から世界がはじまるという神話はアメリカのマヤやオーストラリアのアボリジニなど新大陸をはじめ、広く世界中に求められます。



さて、人は水がなくては生きていけません。しかし、今や清潔で安全な水を確保できる国は、日本を含めてわずかになってしまいました。
これからの人類は水の危機に確実に直面すると言われます。
とりわけ深刻なのは畑作牧畜民の人々です。彼らが水の危機に直面したとき、4000年目に引き起こされたような民族大移動が東アジアでも起こるかもしれない。
清潔な水を保つには、森の存在が欠かせません。
日本は神道の存在によって、結果的に森が守られ、水が守られてきました。
伝統的に自然に畏敬の念を抱き、森を大切に守る文化が続いたことによって、日本の森林の約8割は残されているのです。逆に、ヨーロッパ諸国は約2割しか森が残されていないといいます。伝統的に森を悪魔の棲むところだとするキリスト教の影響で、森林を切り開き、ひたすら都市をつくってきたのです。



日本の神道をはじめ、ヨーロッパでも大地母神を信仰する多神教の世界では、水は命の水でした。そして、水の神、水の精としての龍を信仰します。
しかし、キリスト教はその水から命を奪ったのです。すなわち、「水には命はなく、水の神も存在しない」として、水の神ドラゴンを抹殺したのです。こうしてキリスト教の世界においては、水はたんなる洗礼のための清めの水になってしまいました。
キリスト教徒はイエス・キリストの言行録としての『新約聖書』のみならず、ユダヤ教徒イスラム教徒と同じく『旧約聖書』を啓典としています。
「創世記」の冒頭には水による天地創造が描かれています。
神は「光あれ」と最初に言ったとされますが、液体化された光が水なのです。
そして、その水の神は龍の姿をしているのですが、ほとんどのキリスト教徒たちはそのことに気づきませんでした。ですから、キリスト教の聖人たちは龍を踏みつけ、ドラゴンを殺してきたのです。ここで、わたしたちはキリスト教が殺してきた西洋のドラゴンが火を吐く龍であったことに気づきます。サラマンダーなどの伝説やファンタジーに登場する龍もみな火を吐きます。西洋の龍は火の神なのでしょうか。
もともと、大河で誕生した龍とは水の神であったはずなのに・・・・・。


火と水。ここに人類の謎があるような気がします。
人類がどこから来て、どこへ行こうとしているかの謎を解く鍵があるように思います。
もともと世界は水から生まれましたが、人類は火の使用によって文明を生みました。
ギリシャ神話のプロメテウスは大神ゼウスから火を盗んだがゆえに責め苦を受けますが、火を得ることによって人間は神に近づき、文明を発展させてきたのです。
そして、文明のシンボルとしての火の行き着いた果てが核兵器でした。
ヒロシマ ナガサキ」という原爆のドキュメンタリー映画がありますが、広島で被爆した男性が「原爆が落ちた直後、きのこ雲が上がったというが、あれはウソだ。雲などではなく、火の柱だった」と語った場面が印象的でした。その火の柱によって焼かれた多くの人々は焼けただれた皮膚を垂らしたまま逃げまどい、さながら地獄そのものの光景の中で、最後に「水を・・・・・」と言って死んでいったといいます。 
命を奪う火、命を救う水という構造が神話のようなシンボルの世界ではなく、被爆地という現実の世界で起こったことに、わたしは大きな衝撃を受けました。考えてみれば、鉄砲にせよ、大砲にせよ、ミサイルにせよ、そして核にせよ、戦争のテクノロジーとは常に「火」のテクノロジーでした。火焔放射器という、そのずばりの兵器など象徴的です。


「水」も「心」も最終的につながっている



人類の歴史は「四大文明」からはじまりました。
その4つの巨大文明は、いずれも大河から生まれました。
世界をつくった八大聖人』(PHP新書)や『涙は世界で一番小さな海』(三五館)にも書きましたが、孔子ブッダソクラテス、イエスの「四大聖人」は、大河の文明を背景として生まれた「水の精」ではなかったかと思います。
世界をつくった八大聖人』といえば、「吾」というブログに素晴らしい書評が掲載されています。そこで、聖人と水の関係についても簡潔にまとめてくれています。



さて河ですが、大事なことは河は必ず海に流れ込むということです。
さらに大事なことは、地球上の海は最終的にすべてつながっているということ。
チグリス・ユーフラテス河も、ナイル河も、インダス河も、黄河も、いずれは大海に流れ出ます。人類も、宗教や民族や国家によって、その心を分断されていても、いつかは河の流れとなって大海で合流するのではないでしょうか。
人類には、心の大西洋や、心の太平洋があるのではないでしょうか。
そして、その大西洋や太平洋の水も究極はつながっているように、人類の心もその奥底でつながっているのではないでしょうか。
それがユングのいう「集合的無意識」の本質ではないかと、わたしは考えます。
アンデルセンは、涙は「世界でいちばん小さな海」だといいました。
そして、わたしたちは、自分で小さな海をつくることができます。
誰かを愛し、感謝し、心配し、悼むことで、人は「世界でいちばん小さな海」を流します。
その小さな海は大きな海につながって、人類の心も深海でつながるのです。


楽園とは豊かな水をたたえた場所



リゾートの思想』(河出書房新社)や『リゾートの博物誌』(日本コンサルタントグループ)にも書いたように、ユートピアの概念とはパラダイス、つまり楽園から下ってきたものでした。その楽園はさらに天国の概念が下ってきたものですが、極楽浄土やエデンの園のイメージが代表するごとく、天国や楽園とは豊かな水をたたえた場所です。
人類における最初の戦争は、おそらく水飲み場をめぐっての争いではなかったでしょうか。それほど、水は人間の平和や幸福と深く関わっていると思うのです。
そして、火は文明のシンボルです。いくら核兵器を生んだ文明を批判しても、わたしたちはもはや文明を捨てることはできません。
歴史的に見れば、戦争が文明を生み出したと言えるでしょうが、その不思議な戦争の正体とは間違いなく火であると、わたしは思います。
そして、自動車も冷暖房機もケータイもパソコンも、みな火の子孫なのです。
その最たる子孫こそ、原子力発電所であったことは言うまでもありません。


わたしたちは、もはや火と別れることはできないのでしょうか。
しかし、水は人類にとって最も大切なものであることも事実です。
ならば、どうすべきか。わたしは、人類には火も水も必要なことを自覚し、智恵をもって火と水の両方とつきあってゆくしかないと思います。
人類の役割とは、火と水を結婚させて「火水(かみ)」を追い求めていくことではないでしょうか。「火水(かみ)」とは「神」です。これからの人類の神は、決して火に片寄らず、火が燃えすぎて人類そのものまでも焼きつくしてしまわないように、常に消火用の水を携えてゆくことが必要ではないかと思います。そんなことを、わたしは昨日の大雨がウソのように晴れ上がった北九州の空を見ながら考えました。



「火」といえば火山もそのシンボルでしょうが、火山と原発は「自然」と「人工」の違いこそあれ、「火」の発生場という面では共通しています。
ちょうど、火山が登場する宮沢賢治のアニメ映画「グスゴーブドリの伝記」が上映されていますので、今夜にでも映画館に行ってみたいと思います。
最後に、このたびの豪雨で犠牲となられた方々の御冥福をお祈りいたします。合掌。


2012年7月15日 一条真也