『もののけの正体』

一条真也です。

もののけの正体』原田実著(新潮新書)を読みました。
著者は1961年生まれ、広島県出身。龍谷大学を卒業して、古神道や日本の霊学関係の専門出版社である八幡書店に勤務したこともある歴史研究家です。
また、トンデモ本を批判的に楽しむ団体である「と学会」の会員でもあります。


怪談はこうして生まれた



わたしは、『もののけの正体』というタイトルよりも「怪談はこうして生まれた」というサブタイトルのほうに惹かれました。本書の帯には「鬼、天狗、見越し入道、水の精、コロボックル、キジムナー、アカマタ」「妖怪たちの誕生の秘密!」と書かれています。
また、カバーの折り返しには、次のような内容紹介があります。
「鬼に襲われた、天狗に出くわした、河童を目撃した・・・・・ほんの数十年前まで、多くの日本人が、妖怪や幽霊など『もののけ』の存在を信じ、体験や伝説を語り継いできた。もののけたちはどうやって生まれてきたのか。日本の怪談や奇談の数々から民俗学的な視点で、その起源の謎に迫る。日本古来の妖怪や魔物をはじめ、江戸時代の化物、琉球地方や蝦夷地のアイヌに伝わるもののけも多数紹介! 
日本人の恐怖の源泉を解き明かす」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「まえがき」
第一章:もののけはどこから来たか?
第二章:もののけ江戸百鬼夜行
第三章:『百物語』のもののけたち
第四章:恐怖の琉球――南国のもののけ奇談
第五章:もののけ天国・蝦夷地――アイヌもののけ
終章:もののけと日本人――なぜ怪を求めるのか?
「あとがき」
「主要参考文献一覧」


著者・原田実氏の書いた本



わたしは、これまで著書が書いた本を何冊か読んでいます。
その中でも、本書とテーマが重なる『日本化け物史講座』(楽工社)は妖怪や幽霊を網羅的に取り上げつつ、うまくカテゴライズしてまとめており、なかなかの好著でした。
本書の場合もさまざまな妖怪や幽霊が登場するのですが、その分類があまりにも雑駁というか、コンセプトが見えておらず、読後の満足は得られませんでした。
それと、とにかく引用部分が多過ぎて、読みにくかったです。
本書のテーマのような民俗学的な内容を書く場合、資料からの引用は避けられませんが、それにしても多過ぎます。本書のアマゾン・レビューに「コピペで一冊できました」というものがあり、「black bird」というレビュアーが次のように書いています。
「冒頭の鬼娘に関する一文から、他の書籍からの孫引きであり、続く内容の殆ども先行研究からの切りばりである。著者は他者の論考を、あたかも自分が考えたことのように文章化している。もちろん参考文献には一次資料が一切見当たらない」
もちろん、「コピペで一冊できました」とまではわたしは思いませんが、このレビュアーの言うことにも一理あります。



アマゾン・レビューといえば、なんと著者である原田実氏も実名で本書のレビューを投稿しています。著者本人がレビューを投稿するのは初めて見ました。ちょっと驚きましたが、レビューの内容は「週刊読書人」に掲載された原稿の転載だそうです。
そのセルフ・レビューの最後に、著者は「本書をつらぬくテーマを一言でいえば、だ、ということである。そして、妖怪が忌まれるのもファンシー化するのもその装置が異なる方向に機能した結果なのである。冒頭で示唆したように、妖怪という装置は現代もなお機能し続けている。本書が現代人と妖怪とのより良い付き合い方を考える上での一助となれば、著者として幸いそれに過ぎるものはない」と書いています。



この「妖怪とは人間が生きていく上で欠くべからざる文化的装置」という意見にはまったく賛成ですが、わたしは「幽霊も人間が生きていく上で欠くべからざる文化的装置」と考えています。本書のサブタイトルは「怪談はこうして生まれた」ですが、怪談の主役ともいえる幽霊についての記述の少なさは期待外れでした。
妖怪の正体にしても、海の妖怪「磯撫」の正体がシャチであるとか、熊の化け物である「鬼熊」の正体がヒグマであるとか、さらには「雷獣」の正体がイタチであるとか、先人の研究を紹介しつつ書いていますが、どうもパンチに欠けるというか、物足りません。


しかし、第四章「恐怖の琉球――南国のもののけ奇談」は、なかなか興味深い内容でした。沖縄には、「キジムナー」という古木の精の伝説があります。
キジムナーとは「木に憑く物」という意味で、地域や木の種類によっては「キムジン」「キムナー」「ブナガヤー」「ハンダンミー」とも呼ばれます。その姿は、赤い顔の子どものようだとも、全身が毛に覆われているともいわれています。
水辺を好むところから、本土でいるところの「河童」の一種だという説もあります。
この伝説のキジムナーが、1970年代半ばから沖縄で恐ろしい悪霊として語られるようになり、その原因が、アメリカ映画「エクソシスト」にあるというのです。


著者は、キジムナーのイメージの変容について、次のように述べます。
「かつての沖縄ではキジムナーは夜、寝ている人や夜道を歩く人に他愛のないいたずらをしかけるとされていた。言い換えると当時の人は寝床の中や夜道でなにか違和感を覚えた時に、それをキジムナーのしわざにしていたわけだ。キジムナーにいたずらされる、言い換えるとキジムナーに憑かれるというのはその時代の人にとってはよくある経験であり、過度に怖がる必要がないものだった。むしろ人懐こいキジムナーをイメージすることで、そうした違和感にとらわれてパニックに陥ることを防いでいたわけである。
ところが『エクソシスト』という映画は迫真の映像で、人間が姿なき何者か(映画の中での脈絡でいえば悪魔)に憑かれることの恐怖を描き出していた。
そのため、それまで大したこととみなされていなかった、キジムナーの憑依が新たな恐怖の対象になったわけである。『エクソシスト』のアメリカ公開は1973年12月、日本公開は74年7月のことである。米軍基地内では映画の公開はアメリカ本国に合わせた時期となるため、基地が多い沖縄では日本の他の地域での宣伝が本格化する前からこの作品の噂が広まっていた可能性もある」


ブログ「沖縄復帰40周年」にも書いたように、1972年5月15日、沖縄は占領国のアメリカから日本に復帰しました。それ以降、沖縄では県内の諸制度をアメリカ基準から日本基準に変更するための努力が重ねられましたが、それは簡単にできることではありませんでした。自動車がアメリカ式に右側走行から日本式の左側走行に改められたのが、やっと1978年7月30日だったというぐらい、制度の変更は難航したのです。
この事実を踏まえて、著者は次のように述べています。
「沖縄の人々にとって、それは単にうわべの制度だけでなく、沖縄の支配者がアメリカから日本政府に替わったということを心理的にも受け入れていく過程であった。アメリカも日本政府も、琉球時代以来のコミュ二ティからすれば外部の勢力に違いはない。その外部からの支配者の交替を受け入れ、それを帰属意識にも反映させていこうとしている時期、『エクソシスト』は封切られたのである。それはまさに外部の者の憑依で、人の意識が左右されてしまう現象を恐怖として描いた作品であった。外部の勢力からの影響に対する不安を強く感じていた沖縄の人が、日本の他の地域の人以上に強い影響を受けたとしてもおかしくはない。キジムナーに関する伝承や意識の変化は、そうした影響の1つとして解釈できる。いわばキジムナーは、沖縄の本土復帰のとばっちりを受けて、さほど罪のないいたずら者から、凶悪なもののけへと変身させられたわけである」



キジムナーに限らず、沖縄の習俗伝承には、憑き物系のもののけや来訪神に関わるものが多い。著者は、これを沖縄の社会事情と深く関連していると分析します。
沖縄では、ノロやユタといった神女たちがさまざまな祭祀を執り行い、庶民の生活に深く関わる存在となっていますが、これについて著者は次のように述べます。
「彼女たちの職掌というのはつまるところ来訪する神を迎え、憑き物を払うことなのである。彼女たちが人々の生活に深く関わっている以上、来訪神や憑き物は社会的・文化的に認知された存在であり続けるし、またそうしたものたちが認知されている以上、神女たちの職掌も必要とされ続けるのである」



本書の中で、この沖縄のキジムナーやノロ・ユタといった神女について書かれた第四章が最も興味深い内容でした。いっそ、江戸時代の妖怪話とか、『絵本百物語』の紹介など一切やめて、この沖縄のもののけ問題だけを取り上げて深く書き進めれば、きわめて知的好奇心に満ちた一冊になったのではないでしょうか。
とはいえ、新書出版の現場とは、著者の意向よりも版元や編集者の意向が何かと強いもの。そのへんはわたしもよく理解していますので、著者に同情する点も多々あります。


2012年8月13日 一条真也