『墜落遺体』『墜落現場』

一条真也です。

25年前の日航機墜落事故の現場の状況がよくわかる名著があります。
当時、遺体の身元確認の責任者を務めた群馬・高崎署の元刑事官である飯塚訓氏の著書『墜落遺体』と『墜落現場 遺された人たち』(ともに講談社+α文庫)の2冊です。


                御巣鷹山日航機123便の真実


それらを読むと、その惨状の様子とともに、極限状態において、自衛官、警察官、医師、看護婦、葬儀社社員、ボランティアスタッフたちの「こころ」が一つに統合されていった経緯がよくわかります。
看護婦たちは、想像を絶するすさまじい遺体を前にして「これが人間であったのか」と思いながらも、黙々と清拭、縫合、包帯巻きといった作業を徹夜でやりました。そして、腕一本、足一本、さらには指一本しかない遺体を元にして包帯で人型を作りました。
その中身のほとんどは新聞紙や綿でした。それでも、絶望の底にある遺族たちは、その人型に抱きすがりました。その人型が柩に入れられ、荼毘に付されました。
どうしても遺体を回収し、普通の葬式をあげてあげたかったという遺族の方々の想いが伝わってくるエピソードです。



人間にとって、葬式とはどうしても必要なものなのです。
そして、葬式をあげるにはどうしても遺体が必要でした。
儒教の影響もあって日本人は遺体や遺骨に固執するなどと言われますが、やはり亡骸を前にして哀悼の意を表したい、永遠のお別れをしたいというのは人間としての自然な人情ではないでしょうか。
飛行機の墜落事故も、テロも、地震も、人間の人情にそった葬式をあげさせてくれなかったのです。さらに考えるなら、戦争状態においては、人間はまともな葬式をあげることができません。
先の太平洋戦争においても、南方戦線で戦死した兵士たち、神風特攻隊で消えていった少年兵たち、ひめゆり部隊の乙女たち、広島や長崎で被爆した多くの市民たち、戦後もシベリア抑留で囚われた人々・・・・彼らは、まったく遺族の人情にそった、遺体を前にしての「まともな葬式」をあげてもらうことができませんでした。
逆に言えば、まともな葬式があげられるということは、平和であるということなのです。
わたしはよく「結婚は最高の平和である」と語るのですが、葬式というものも「平和」に深く関わった営みなのです。



また、わたしは、つねづね、「死は最大の平等である」と語っています。
すべての死者は平等に弔われなければなりません。
価格が高いとか、祭壇の豪華さとか、そんなものはまったく関係ありません。
問題は金額ではなく、葬式そのものをあげることなのです。
葬式とは人間の「こころ」に関係するものであり、もともと金銭の問題ではないからです。
わたしは、『沈まぬ太陽』『墜落遺体』『墜落現場 遺された人たち』をはじめ、御巣鷹山日航機墜落事故の遺族の文集である『茜雲 総集編』(本の文化社)も含めて多くの資料を読みました。
そのとき考えたことは拙著『葬式は必要!』(双葉新書)にも書きましたが、あらためて冠婚葬祭とは「人間尊重」の実践であるという思いを強くしました。
さらに、ヒトは葬儀をされることによって初めて「人間」になるのではないでしょうか。
ヒトは生物です。人間は社会的な存在です。葬儀に自分のゆかりのある人々が参列してくれて、その人たちから送ってもらう――それで初めて、故人は「人間」としてこの世から旅立っていけるのではないでしょうか。葬儀とは、人生の送別会でもあるのです。
いつの日か、520名の犠牲者が昇天した“霊山”であり、4名の奇跡の生存者を守った“聖山”でもある御巣鷹山に登ってみたいと思いました。


2010年8月13日 一条真也

花火大会

一条真也です。

今日からサンレー本社は夏休みに入りました。
それでも、ホテルや冠婚葬祭の現場で働いている仲間がたくさんいます。まことにサービス業とは因果な商売ですが、そのぶん、人を幸せにする素晴らしい仕事です。
もちろん、現場で働く社員のみなさんには、時期をずらして休暇を取っていただきます。
さて今夜は、門司と下関で「関門海峡花火大会」が行われました。
今年で、もう23回目だそうです。わたしは自宅の2階から見物しました。


                8月14日付「朝日新聞」朝刊より                                    


花火といえば、日本の夏の風物詩ですね。
わたしは大の花火好きで、毎年、関門海峡を1万3000発の花火で彩る海峡花火大会を楽しみにしています。勇壮な関門橋を挟み、本州と九州の両岸から大量の花火が打ち上げられる光景はとてもドラマティックです。
日本人は桜と美人と富士山を好みます。
桜は散ってしまうし、美人は薄命、富士山の雄大な姿はいつも眺められるわけではありません。はかないものほど美しく、見る者の心を打つのでしょう。
花火だって同じです。華麗に天空に花咲き、一瞬にして消えていく。この消耗の過程が美を構成し、あとには何も残らない完全消耗の芸術だと言えるのです。


日本の夏の風物詩である花火ですが、じつはヨーロッパ生まれです。
その起源は古代ギリシャ・ローマの時代にさかのぼるとの説もありますが、現在のような花火は火薬の発明以後で、13世紀にイタリアのフィレンツェで始まったそうです。
ヨーロッパ諸国に伝わったのは16世紀です。
主に戦争の終結の祝賀会などで打ち上げられたといいますから、花火は「平和」と結びついていたことになります。たとえば、1748年にオーストリアの王位をめぐって、マリア・テレジア王女とヨーロッパ諸国が対立して戦ったオーストリア継承戦争終結して、平和条約が調印されました。
そのとき、盛大な祝賀会が各地で催されて花火も大いに打ち上げられました。
特にマリア・テレジアを助けた数少ない国のひとつだったイギリスの喜びはひとしおで、国王ジョージ二世はロンドンのグリーンパークで祝賀花火大会を主催しました。
ちなみにイギリスで活躍していたヘンデルが音楽を担当し、大会を大いに盛り上げました。名曲「王宮の花火の音楽」は、このときに作曲したものです。彼はバロック音楽を代表する一人ですが、花火はバロック精神そのものが最も好んだものでした。
すなわち花火は、瞬間性、はかなさ、華麗さ、幻想性などのシンボルだったのです。


イタリアで生まれヨーロッパで流行した花火が日本に伝わったのは、1543年の鉄砲伝来とともに火薬の配合が伝えられた後です。
1585年の夏、皆川山城守と佐竹衆の対陣のとき、慰みにそれぞれ敵陣に花火を焼き立てたことが見えるのが最も古い記録です。
江戸の名物として知られたのが「両国の花火」です。
1731年に全国的な凶作と江戸の疫病流行で多くの死者が出たため、幕府が慰霊と悪疫退散をかねて両国橋近くで水神祭を催しましたが、そのときに両岸の水茶屋が余興として献上花火を上げたのが始まりとされています。
花火は元禄時代以後、江戸で次第に豪華になっていきます。


わたしは、以前、東京に住んでいた頃に多摩川の花火大会に出かけたことがあります。もう20年ほど昔になりますが、この花火大会が何ともすごかった。
はじめは多摩川の東京側の土手にゴザを敷き、幕の内弁当を肴に缶ビールを飲みながら、ほろ酔い気分で花火を楽しんでいました。
すると、だんだん空模様がおかしくなり、暗雲がたちこめてきました。雲があったほうが花火も映えるからと別に気にしないで見物を続けていたら、そのうち稲妻が光り出しました。それも花火と花火の間に光るのです。
花火、稲妻、花火、稲妻・・・・・と、それぞれに夜空を照らし上げ、そんな状態が小一時間も続きました。まさに、空前のスペクタクル!
たくさんの見物客はすっかり興奮して、しまいには「今のは稲妻が勝っていた」「今のは六・四で花火の勝ち」などと言い出す始末です。
そして最後の仕掛け花火「ナイアガラの滝」が終わった瞬間、雨がザァーッと降り始め、すぐ近くに雷が落ちたのです。


雷とは「神鳴り」であり、神の怒りであると昔から考えられていました。
おそらく地上から人間が変なものを打ち上げてくるので、神様が最初は稲妻で張り合ったものの、ナイアガラの滝を見て敗北を知り、怒って雷を落としたのかもしれません。
こんな不思議な体験は生まれて初めてでしたが、夜空を舞台にした神と人との競演のおかげで花火大会が何倍にも楽しめました。
1990年7月26日の夜の出来事でした。



2010年8月13日 一条真也