一条真也です。今日は、節分ですね。
昨夜は、松柏園ホテルで「節分祭」と「隣人祭り合同厄除け祝」が開かれました。
現在はブログを休んでいますが、2月1日に大量のアクセスがありました。
どうも、この日を本格的なブログ再開日と思われた方が多かったようです。
2月をもって再開という多くの方々の期待を裏切ってしまったわけですが、リニューアル・オープンの日は本当に近づいています。どうか、もう少しだけお待ち下さい。
カンのいい方なら、再開日の予想はつくと思います。
さて、ブログ「レ・ミゼラブル」で紹介した映画に続いて、話題の映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」を観ました。今月25日に開催される第85回アカデミー賞では11部門にノミネートされている注目の作品だけあって、面白かったです。
何よりも、その奇抜な発想と最高の技術に支えられた3D映像に魅了されました。
原作は、世界的な文学賞として知られる「ブッカー賞」に輝いたヤン・マーテルの『パイの物語』です。いわゆる、ラテンアメリカ文学の「魔術的リアリズム」作品ですね。
このベストセラー小説を、「ブロークバック・マウンテン」で第78回アカデミー監督賞を受賞したアン・リーが映画化しました。アジア人ただ1人のアカデミー賞監督です。
原作は、ヤン・マーテルの『パイの物語』
物語は、インド系カナダ人のパイ・パテルがカナダ人ライターに語った自らの数奇な運命を描いています。1976年、インドで動物園を経営していたパイの一家は、カナダへ移住することになります。一家と動物たちを乗せた船は、太平洋上で嵐に襲われて難破してしまいます。家族の中で1人だけ生き残ったパイは、命からがら小さな救命ボートに乗り込みます。ところが、そのボートには、シマウマ、ハイエナ、オランウータン、ベンガルトラも乗っていました。ほどなく動物たちは次々に死んでいき、ボートにはパイとベンガルトラだけが残ります。肉親を亡くして天涯孤独となった身の上に加え、残りわずかな非常食と、あろうことか空腹のトラが自身の命を狙っている・・・・・。
あどけなさの残る少年パイは、まさに絶体絶命です。そのような極限状況の中で、想像を絶する227日の漂流生活が始まるのでした。
最初は、わが娘たちのお気に入りのテレビ番組「志村どうぶつ園」的な内容を想像していました。すなわち、人間と動物の感動的な心の交流というやつです。
でも、実際に映画を観てみて、予想とはまったく違う内容でした。
まず、テーマが宗教的なのです。一言でいって、深いのです。
かの「ノアの方舟」をイメージさせる動物を満載した船のシーンなど、宗教的な寓意は各所に見られましたが、そんなことよりもパイ自身がヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教を同時に信仰しているという設定が非常に興味深かったです。
宗教学では、あらゆる宗教の存在意義を認める立場を「宗教多元主義」といいます。
それでは、パイは宗教多元主義者なのでしょうか。
わたしは、それよりも彼は宗教の本質を見抜いているといったほうが正しい気がします。宗教の本質とは何か。それは、ずばり「物語」ということです。
グリーフケアの書である『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)やファンタジー論である『涙は世界で一番小さな海』(三五館)などに書いたように、物語には人の心を癒す力があります。わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのです。
つまり、物語というものがあれば、人間の心はある程度は安定するものなのです。
逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。
ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教といった宗教は、大きな物語だと言えるでしょう。
日本人の場合は、多くが仏教の「成仏」の物語を受け入れてきました。
そして、それが葬儀という文化を支えてきました。
「人間が宗教に頼るのは、安心して死にたいからだ」と断言する人もいますが、たしかに強い信仰心の持ち主にとって、死の不安は小さいでしょう。
中には、宗教を迷信として嫌う人もいます。
でも面白いのは、そういった人に限って、幽霊話などを信じるケースが多いことです。
宗教が説く「あの世」は信じないけれども、幽霊の存在を信じるというのは、どういうことか。それは結局、人間の正体が肉体を超えた「たましい」であり、死後の世界があると信じることです。宗教とは無関係に、霊魂や死後の世界を信じたいのです。
幽霊話にすがりつくとは、そういうことだと思います。
なお、この映画は、そして原作小説は、それ自体が純粋な物語でありながら、ラストにカナダ人ライターによるフロイト的な精神分析(途中でパイとトラは、ミーアキャットが大量に生息する浮島に流れ着くのですが、その島の形も非常にフロイト的でした)を紹介することによって、「じつは現実というのも物語なのだ」という真理を明らかにしています。
万人が認める客観的な真実など存在せず、その人間がどの物語を選ぶかで真実は選ばれてゆくのです。映画のラスト近くで、ライターに対してパイは「君は、どの物語がいいんだい?」と尋ねるシーンがありますが、それは「君は、どの宗教がいいんだい?」という言葉と同じ意味だと思いました。
それから、この映画を観て、わたしが考えたのは「礼」の問題でした。
227日もの漂流生活を共にしたパイとトラですが、最後にトラは何ごともなかったかのようにパイのもとを去っていきます。「さよなら」も言わずに、パイを一瞥もせずに漂着したメキシコのジャングルに消えていったトラの後ろ姿を見ながら、パイは号泣します。
パイは、苦楽を分かち合ったトラに「お別れの挨拶」をしてほしかったのです。
もちろん、動物であるトラが挨拶などするはずもありませんが、この場面を観て、わたしは「礼」が「人間尊重」の別名であることの見事な証明になっていると思いました。
そういえば、映画の最初の方に、トラと友達になろうとする幼いパイを父親が諌めるシーンが出てきます。父親は、息子に向かって「動物と人間は相容れない」と諭すのでした。
そう、「礼」とはきわめて、そして、どこまでも人間的な問題なのです。
「礼」については、『孔子とドラッカー新装版』および『礼を求めて』(ともに三五館)に詳しく書きました。「礼」を追求した人物に、安岡正篤と松下幸之助がいます。
陽明学者の安岡正篤は、「人間はなぜ礼をするのか」について考え抜きました。
彼は「吾によって汝を礼す。汝によって吾を礼す」という言葉を引き合いに出して、「本当の人間尊重は礼をすることだ。お互いに礼をする、すべてはそこから始まるのでなければならない。お互いに狎れ、お互いに侮り、お互いに軽んじて、何が人間尊重であるか」と喝破しました。
また、「経営の神様」といわれた松下幸之助も、何より礼を重んじた人でした。
彼は、世界中すべての国民民族が、言葉は違うがみな同じように礼を言い、挨拶をすることを不思議に思いながらも、それを人間としての自然の姿、人間的行為であるとしました。すなわち礼とは「人の道」であるとしたのです。そもそも無限といってよいほどの生命の中から人間として誕生したこと、そして万物の存在のおかげで自分が生きていることを思うところから、おのずと感謝の気持ち、「礼」の身持ちを持たなければならないと人間は感じたのではないかと松下幸之助は推測しています。
礼は価値観がどんなに変わろうが、人の道、「人間の証明」です。それにもかかわらず、「お礼は言いたくない、挨拶はしたくない」という者がいるという事実に対して、彼は「礼とは、そのような好みの問題ではない。自分が人間であることを表明するか、猿であるかを表明する、きわめて重要な行為なのである」と述べています。
日本語吹き替え版では、主役パイの声を俳優の本木雅弘氏が担当しています。
本木氏が主演した「おくりびと」もアカデミー外国語賞に輝きましたが、葬儀がテーマでした。孔子や孟子が説いたように、葬儀こそは人間にとっての究極の「礼」です。
究極の「礼」の映画である「おくりびと」の主演男優が、「礼」の意味を問う作品の吹き替えをしたわけです。なかなか粋な起用だと思いました。
ちなみに、本木氏は「Yahoo!映画」の単独インタビューにおいて、この映画を観た印象を、「クライマックスの展開が、ある意味で衝撃的だったんです。これは原作にも書いてありますが、目の前に広がる世界には、見えるものだけが存在するのではなく、どう感じ、どう理解するのかが大切。理解することで何かが自分にもたらされる。各自それぞれ違うアプローチで考え、その世界が『自分の物語』になると気付かされる作品でした」と語っています。読書家の本木氏らしい、哲学的な深いコメントだと思います。
わたしは、「礼」の問題から、さらに人間同士が挨拶をすることの意味を考えました。
というのも、認知症の患者さんなどには挨拶ができない方もいるからです。「挨拶するのが人間」ならば、そのような方々は人間かという問題が立ち上がってきます。
もちろん、認知症の患者さんは立派な人間です。
でも、介護ヘルパーさんたちにバーンアウト(燃え尽き)症候群が多いのは、患者さんたちの口から挨拶や感謝の言葉が発せられないことも大きな理由だそうです。
いくら大変な思いをして介護のお世話をしても、患者さんから「ありがとう」の一言があれば、人間は頑張れるものです。でも、その一言がなく、ただただ無言の相手にケアをしなければならない辛さは想像するに余りあります。
挨拶の言葉を返してくれない相手に対する「礼」の問題は、とても重要だと思います。
また、ブログ「老人漂流社会」に書いたように、現在の日本では病院にも介護施設にも入れない高齢者が増加する一方です。この「ライフ・オブ・パイ」は漂流の物語ですが、パイとトラはメキシコの海岸に漂着しました。
では、日本の漂流老人たちは、どこに漂着するのか。
どうすれば、「老人漂流社会」を「老人漂着社会」に変えることができるのか。
一日も早く、漂流する高齢者たちの漂着先としての隣人館を広く展開しなければ・・・・・
この奇想天外な漂流映画を観ながら、そんなことを真剣に考えました。
ということで、この作品からは儒教的な「人間尊重」は感じられませんが、仏教的な「万物平等」のメッセージは強く感じました。
漂流するボートの上では、人間もトラも1個の生物として平等です。
また、最新のCGを駆使して描いたクジラやイルカやトビウオが登場するシーン、夜の太平洋に浮かぶ星々とその彼方に広がる無限の宇宙・・・・・それらはあまりにも美しく、この世で目に見える世界はすべて幻影ではないかという心境になり、さらには仏教的な無常観さえ感じました。パイが信仰していたヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教ではなく、仏教の香りをこの映画から嗅ぎ取ったのは、わたしだけではないはずです。
それにしても、この映画の映像美には感動をおぼえました。
動物たちの動きや表情を見事に表現しきっています。
特に、CGで描かれたトラは本物にしか見えませんでしたし、ちょっと凄すぎる!
また、最近少し食傷気味だった3Dですが、ブログ「タイタニック3D」で紹介した作品以来の大当たりでした。この、ある意味で荒唐無稽なファンタジーを3Dで映像化するというアン・リー監督の目論見は大成功したと言えるでしょう。
この映画だけは、絶対に3D版で鑑賞されることをおススメします。
最後に、長い漂流の末に生き残ったパイが「トラがいたから、自分は生き残れた・・・」と、しみじみと語った言葉が心に残りました。
トラに喰われまいという警戒心ゆえに、227日もの長い時間、緊張感を保ち続けることができたというのです。もしトラがいなくて、自分1人だけだったら、とうの昔に生き残ることを諦めていただろうというわけです。
最初はボートに同乗したトラをひたすら怖れ、逃げ回っていたパイですが、次第にトラと共生する道を選びます。映画評論家の清水節氏は、「絶体絶命の下、ただ生きながらえるのではなく、脅威を身近に感じることで緊張がみなぎり、自らの衰弱を防いで生命力を保つ。トラは捕食者ではなく、守護神だったのかもしれない」と、「映画.com」で述べていますが、わたしも同感です。
日を追うごとに生きる知恵を身につけ、絶対に諦めない精神力を育んでいくパイの姿は、この作品がビルドゥングスロマン、つまり未熟だった少年が成熟した大人に成長していく物語であることを示しています。
そして、その場面を観ながら、わたしは自分自身の姿に重ね合わせていました。
2001年に社長に就任してから12年、必死で頑張ってきたつもりですが、じつはわたしにはパイにとってのトラのような存在がいました。ある同業の経営者の方です。
“北九州市”という名の、それほど広くないボートにトラが同乗してきたのです。(しかも、その後、狭いボートにはライオンまで乗り込んできました!)
そのトラは潤沢な資金を持っており、わが社に猛烈な設備投資攻勢をかけてきました。当時のわが社は苦境にありましたので、非常に戸惑いました。でも、今ではその人のおかげで、わが社は本当の意味で強くなったのだと感謝の念さえ抱いています。
冠婚葬祭業界の猛虎のおかげで、わが社は生き残り、わたし自身も少しは成長できたような気がしてなりません。現在の正直な心境です。
この映画は『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で取り上げました。
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2013年2月2日 一条真也拝