『災害と妖怪』

一条真也です。

『災害と妖怪』畑中章宏著(亜紀書房)を読みました。
著者は、1962年生れの著述家・編集者です。中沢新一氏が所長を務める多摩大学芸術人類学研究所の特別研究員で、日本大学芸術学部写真学科の講師だそうです。


柳田国男と歩く日本の天変地異



本書には、「柳田国男と歩く日本の天変地異」というサブタイトルがついています。
また帯には、「河童や天狗は、私たちのうしろめたさの影なのか?」と書かれています。
さらに帯の裏には、「地震、飢饉、干ばつ、洪水などの災害の記憶は、河童、座敷童、天狗、海坊主、大鯰、ダイダラ坊・・・・・おどろおどろしい妖怪に仮託され、人々の間に受け継がれてきた。自然への畏怖、大切な人を失った悲しみ、自分だけ生き残ってしまったうしろめたさ・・・・・が妖怪たちを生んでいるのか」と書かれています。



カバー折り返しには、次のような内容紹介があります。
柳田国男の『遠野物語』『妖怪談義』『山の人生』を繙くと、日本列島は、大地震だけでなく、飢饉、鉄砲水、干ばつなど、繰り返し災害に見舞われている。そこかしこで起こる災害の記憶は、河童、座敷童、天狗、海坊主、大鯰、ダイダラ坊・・・・・おどろおどろしい妖怪に仮託され、人々の間に受け継がれてきたのだ。遠野、志木、柳田の生まれ故郷の辻川(兵庫)、東京の代田などをたどり直し、各地に残る妖怪の足音を取材しながら、ほそぼそと残る『災害伝承』を明らかにする」



本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
一章:河童は死と深く結びつくものであるという事
二章:天狗が悪魔を祓うといまも信じられている事
三章:洪水は恐るべきものでありすべての始まりでもある事
四章:鯰や狼が江戸の世にもてはやされたという事
五章:一つ目の巨人が跋扈し鹿や馬が生贄にされた事
「あとがき」



「はじめに」の冒頭では、柳田国男が書いた『遠野物語』(明治43年・1910年)の序文が「詩情溢れる遠野郷の描写と来るべき民俗学への布石を示す主張がないまぜとなった魅力的な文章」と表現されています。
また、この序文の中にはとても大切な言葉がちりばめられていると述べられています。
それは「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」という有名な一節であり、「これは目前の出来事なり」「要するにこの書は現在の事実なり」という言葉です。
これらの言葉を受けて、著者は次のように述べています。
「『遠野物語』一巻を、数かずの妖怪が登場する怪異譚集としてみた場合、『平地人を戦慄せしめよ』と呼びかけられているのは、河童や天狗、山男に山女、そしてザシキワラシといった妖怪や小さな神々であるだろう。そして『目前の出来事』『現実の事実』という言葉に着目するとき、こういった怪異はいつまでも実在したかに思いをめぐらさずにおれないのである」



2011年3月11日に発生した大地震と大津波により、東北地方には甚大な被害がもたらされ、大量の犠牲者が生まれました。
その中で、岩手県の中央に位置する遠野市は、内陸と沿岸部を結ぶ地の利から、災害に対する後方支援の拠点として機能したそうです。
ブログ「『遠野』の絆」でも、そのことを紹介しました。
著者は、「復興に携わる多くの人々を受け入れることができたのは、遠野が『遠野物語』で知られる観光地として、宿泊施設が充実していたからにほかならない。柳田国男がわずか350部あまりを自費出版した本が、101年後に予想もしなかったであろう機能を果たしたのである」と書いています。
日本民俗学の幕を開けたとされる『遠野物語』について、わたしは、これまでにもブログ『水木しげるの遠野物語』ブログ『幽霊記』ブログ『遠野物語と怪談の時代』ブログ『遠野物語と源氏物語』などで書いてきました。



遠野物語』といえば、震災以降、第99話が注目を浴びています。
遠野出身の北川福二という人物が、三陸沿岸の田の浜に婿入りしましたが、そこで明治三陸津波(明治29年・1896年)に遭います。
福二は大津波で妻と子を亡くし、残された2人の子どもと小屋を建てて住んでいましたが、ある夜、浜辺で妻の幽霊に遭遇するという話です。
サロンの達人」こと佐藤修さんが、ご自身のブログで「福二の願望」という記事で、この99話について書かれています。以下に、『遠野物語』の原文を引用いたします。



「土淵村の助役北川清と云ふ人の家は字火石に在り。代々の山臥にて祖父は正福院と云ひ、学者にて著作多く、村の為に尽くしたる人なり。清の弟に福二と云ふ人は海岸の田の浜へ婿へ行きたるが、先年の大津波に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。
夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遙々と船越村の方へ行く崎の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたる。
男はと見れば海波の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてあると云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。
追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。」
(『遠野物語』第99話より)



福二と同じく、津波で亡くなった犠牲者の幽霊を目撃したという報告が被災地で相次いでいます。2012年1月18日付の「産経新聞」には、「水たまりに目玉、枕元で『遺体見つけて・・・』『幽霊見える』悩む被害者」という見出しの記事が掲載されました。それによれば、「お化けや幽霊が見える」という感覚が、東日本大震災の被災者を悩ませているというのです。震災で多くの死に直面した被災者にとって、幽霊の出現は「こころの傷」の表れだという見方もあります。
行政でも対応できる部署はありませんし、親族にも相談しづらいため、宗教界が教派を超えて取り組んでいるという内容でした。「水たまりに目玉がたくさん見えた」「海を人が歩いていた」という被災者の目撃談も絶えません。遺体の見つかっていない家族が「見つけてくれ。埋葬してくれ」と枕元に現れたという報告もありました。
宮城県栗原市曹洞宗寺院の住職は、お化けの悩みに関する講話の際に、「多くの人が亡くなり、幽霊を見るのは当然。怖がらないでください」と語ったそうです。
さらに住職は「幽霊について悩むことは、亡くした家族のことから少し離れて生と死を考えるきっかけにもなる。そこから生の世界で前に進む姿勢を示せるようになることにつながればいい」と語ったとか。



著者は、「はじめに」の最後に、柳田の『妖怪談義』の序文の一節を紹介しています。
「化け物の話を一つ、できるだけきまじめにまた存分にしてみたい。けだし我々の文化閲歴のうちで、これが最も閑却されたる部面であり、従ってある民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもあるからである。私の目的はこれによって、通常の人生観、わけても信仰の推移を窺い知るにあった」
これにならって著者も、本書において、災害にまつわる妖怪や怪異現象について「できるだけきまじめに」考えていきます。


本書での著者の主張は、「妖怪は私たちのうしろめたさの影」であるというものです。
柳田国男といえば日本民俗学の祖ですが、彼の『遠野物語』『妖怪談義』『山の人生』などを繙くと、日本列島は、大地震だけでなく、飢饉、鉄砲水、旱魃など、始終、災害に見舞われました。そして、河童、座敷童、天狗、海坊主、大鯰、ダイダラ坊といった妖怪たちは、災害の前触れ、あるいは警告を鳴らす存在として、常に日本人の傍らにいたのです。 安政の大地震をはじめ、毎年そこかしこで起こる災害の記録は、おどろおどろしい妖怪に仮託され、人々の間に受け継がれてきたのでした。
特に、河童のイメージは津波や洪水などでの水死者と重ね合わされました。
「水」がもたらす災いは現実に、いまも豪雨などであります。地方によっては水害の要因を河童に求めるために、その部分だけが強調されて伝わってきてしまったというのです。
著者は、遠野、志木、生まれ故郷の辻川(兵庫)、東京の代田などをたどり直し、各地に残る祭りや風習などを取材します。そこで、細々と残る「災害伝承」、民俗的叡智を明らかにしていくのでした。妖怪たちの背後から、自然への畏怖、親しい人の喪失、生き残ってしまったうしろめたさ、言葉にならない悲しみが漂ってきます。



本書には、わたしが知らなかった多くのことが書かれていました。たとえば、柳田国男の後継者の1人である民俗学者早川孝太郎が「海坊主」を目撃していていたこと。
早川が見た「海坊主」は、水死者の幽霊ともUMA(未確認生物)とも推測されますが、いずれにしても驚きました。また、遠野地方が何度も飢饉に遭っていたこと、関東地方が巨人伝説の宝庫であったことも初めて知りました。
「巨人伝説」について、著者は次のように書いています。
「『巨人伝説』は世界各地に分布し、『遠い過去の存在』は人並みはずれた体で、標準を超える姿と想像するとともに、異常な存在として畏怖や蔑視の対象にしてきた。そして、世界の秩序を揺るがしたり世界を創造するといったように、この世の成り立ちにかかわる役割を果たすことが多いとされる。日本でも鬼・天狗・英雄などの異人や神、またはその使者が巨人とされることがあり、池や湖沼を巨人の足跡や腰をかけた跡、山や島をその持ち物や排泄物などと説く例は少なくない。地形創出伝承の主人公は、ダイダラ坊や大人のほかに、鬼八、金八、弥五郎などと呼ばれるものもいた。ダイダラという名前の系統では、ダイダラ坊、ダイダラ法師、ダイダラボッチ、デエラボッチ、ダイラ坊、大太法師、大道法師、デーデーボなど各地でさまざまな呼び名がある」
なんとなくブログ『進撃の巨人』で紹介した漫画を思い出してしまいますが、ダイダラボッチとかデエラボッチという名前を聞いて、アニメ映画「もののけ姫」に登場する「シシ神」の別名である「ディダラボッチ」を思い浮かべる人もいることでしょう。


著者は、このシシ神について次のように書いています。
宮崎駿によるスタジオジブリの長篇アニメーション『もののけ姫』の舞台は、室町時代の日本とされる。この物語で、山林を開拓して鉄をつくるタタラの民と対立し、森を守ろうとする『もののけ』の長は『シシ神』、あるいは『ディダラボッチ』と呼ばれる巨大な森の神である。制作ノートによると、このシシ神=ディダラボッチは、『生命の授与と奪取を行う神。新月に生まれ、月の満ち欠けと共に誕生と死を繰り返す。その首に不老不死の力があると信じられている。夜の姿はディダラボッチで、独特の模様と半透明な体を持つ。体内で青い光を放ちながら、夜の森を徘徊する』ものだとされる」



本書の終わりには、柳田の『一目小僧その他』の最後に置かれた「熊谷弥左衛門の話」が紹介されます。各地に点在する稲荷の小祠の由来について考察した文章ですが、この一篇は「そこでたった一言だけ、私の結論を申し上げます。曰く、およそこ世の中に、『人』ほど不思議なものはない」という言葉で締めくくられています。この言葉を受けて、著者は次のように述べます。
「人は大きな苦難も小さな不思議もほかの人に伝えようとして、あまりうまくいかなかったかもしれない。でもそういう営みを丹念に見ていくと、なにか未来への手がかりが得られるのではないか。柳田国男民俗学は、そんな野心に満ちたものだったはずだ。不思議な存在である『人』がいるかぎり、災害と妖怪は生み出されるのであり、それらとの葛藤をささやかな文化にしていくのもまた『人』なのであった」
本書は、現在構想中の『唯葬論』(仮題)にインスピレーションを与えてくれました。
ただ、「柳田国男」という人物はいませんので、表記を「柳田國男」と正確にしてほしかったです。本書を読んでいる間、そのことがずっと気になって仕方がありませんでした。


2012年8月10日 一条真也

『恐山』

一条真也です。

8月9日になりました。「長崎原爆の日」です。
67年前、本当は小倉に落ちるはずの原爆でした。
小倉に落ちていたら、わたしはこの世に生まれてきませんでした。
長崎の多くの犠牲者を想わずにはいられません。


死者のいる場所



『恐山』南直哉著(新潮新書)を読みました。
「死者のいる場所」というサブタイトルがつけられ、帯には「人は死んだらどこへゆく――『恐山の禅僧』かく語りき。」と書かれています。
また、表紙カバーの折り返しには、次のような内容紹介があります。
「死者は実在する。懐かしいあの人、別れも言えず旅立った友、かけがえのない父や母――。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこにいる。日本一有名な霊場は、生者が死者を想うという、人類普遍の感情によって支えられてきた。イタコの前で身も世もなく泣き崩れる母、息子の死の理由を問い続ける父・・・・・。
恐山は、死者への想いを預かり、魂のゆくえを決める場所なのだ。
無常を生きる人々へ、『恐山の禅僧』が弔いの意義を問う」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「まえがき」
第一章:恐山夜話
第二章:永平寺から恐山へ
第三章:死者への想いを預かる場所
第四章:弔いの意味
「無常を生きる人々〜あとがきに代えて」



1958年(昭和33年)生まれの著者は、恐山の菩提寺住職代理(院代)です。
かの永平寺で20年間も修行していたそうです。
同じ曹洞宗でも永平寺と恐山のカラーはまったく違いますので、著書が初めて受けた衝撃の大きさが本書から伝わってきます。
最初に著者は、「古くから日本人に知られる霊場でございますから、そこがどんなにおどろおどろしい場所であるか、それを知りたいと思っている方もたくさんおられることでしょう。『日本三大霊場』『日本三大霊地』『日本三大霊山』、そのいずれにもランク・インしているのは恐山だけであります」と述べています。
ちなみに、それらの「三大霊〜」の内容は以下の通りです。
「日本三大霊場」(恐山:青森・白山:石川・立山:富山)
「日本三大霊地」(恐山:青森・立山:富山・川原毛:秋田)
日本三大霊山」(恐山:青森・高野山:和歌山・比叡山:滋賀)


このように恐ろしい場所の代名詞にもなっている恐山ですが、わたしが初めてその名を知ったのは小学4年生のときでした。その頃、「少年マガジン」に「うしろの百太郎」の連載がスタートしました。つのだじろうによる心霊マンガでしたが、その第1回目に恐山で撮影された心霊写真が紹介されていたのです。
わたしは、「心霊写真」などというものも初めて知りました。
それ以来、中岡俊哉の「恐怖の心霊写真集」シリーズにハマリました。
わたしは、「うしろの百太郎」によって、心霊の世界について啓蒙(?)されたのです。



「うしろの百太郎」の心霊写真には、たしかイタコのような老婆が写っていました。
「イタコ」といえば、「恐山」の代名詞のようになっています。
「イタコ」とは、いったい何なのか。本書『恐山』には、次のように書かれています。
「はたして、イタコとは何者なのか。もとは青森を中心とする北東北地方で霊媒をする女性のことを指すようです。まあ、霊媒師というか巫女さんのことです。
『口寄せ』と呼ばれる降霊術を行い、死者の魂を呼ぶと言われています。しかしこれは起源がはっきりしていません。目の不自由な女性の生業として始まったのだろうと言われていますが、はっきりとした起源はない。古くからこの地域の民間信仰にもとづいたものだとは思うのですが、それについては一般に大きな誤解があります。それは、『恐山のイタコ』というものは、元来存在しない、ということです。つまり、恐山がイタコを管理しているわけでも、イタコが恐山に所属しているわけでもないのです。両者の間に一切の契約関係はございません。そのことをまず申し上げなくてはいけない」
つまり、イタコというものは個人事業主なわけですね。


どうしても恐山というと、イタコに興味が向けられます。
著者も、7年以上も恐山にいればイタコが死者の霊を「口寄せ」した事実はあったのだろうというケースを耳にすることも当然ありました。しかし、その前に著者は、次のように死後の世界や霊魂の行方に関する仏教の公式見解を述べるのでした。
「『はたして死後の世界は霊魂があるのか、ないのか』と問われたときに、『答えない』というのが、ブッダの時代からの公式見解です。それを仏教では『無記』と呼びます。
ある男が、この世の成り立ちや死後の世界の有無についてブッダに解答を迫るが、ブッダは一貫してそのような質問には答えなかった、という故事があります。
ブッダのそのような態度が『無記』と呼ばれるものなのです。
なぜ答えないのか。それは『ある』と答えても、『ない』と答えても、いずれにせよ論理的な矛盾が生じて、世界の体系が閉じてしまうからです」
著者はまた、「必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持って生き切るにはどうするか。それこそが仏教の一番大事なテーマであって、死んだ後のことは、死ねばわかるだろう、ぐらいに考えればいい」というのが仏教の公式見解であると述べます。



では、「恐山の禅僧」である著者は、いわゆる幽霊を見たことはないのか。
著者は、「見た」ことは一度もないと断った上で、次のように述べます。
「ただ、私が見ていないからといって、『ない』とは言い切れません。私はこの世に常識や科学で説明できない不思議な現象が多く存在することを否定しません。先ほど述べたように、『ある』とも『ない』とも断言できません。もしかしたらその不思議な現象を、『心霊』モデルで説明した方が、納得しやすい場合もあるでしょう。しかしお坊さんとしては、『心霊』の実在の有無ではなく、それが人間の生き方にどう関わるのか、それこそが問題だと思っています。心霊が実在するとしたら、それは人間の問題の何を解決するのか、より良い生活を導くのか、他人との関係が豊かに深くなるのか。
肝心なのは、そのことなのです」



本書には、「死者のいる場所」というサブタイトルがついています。「死者のいる場所」というのは「心霊スポット」というだけではなく、「慰霊の場所」という意味合いもあります。
霊場恐山には故人を思慕する人々がたくさん訪れ、五月人形や花嫁人形、あるいは故人が生前着ていた遺服を供える人もいるそうです。
こういった遺族の行為について、著者は「人形や服を供えることで、何とかその亡くなった人を存在させようとしているのです。このことを私は、単純に『悲しみ』『切なさ』『懐かしさ』のような、気持ちや感情の問題として考えることができません。ここには何か、圧倒的なリアリティがある。それが恐山の凄みでもあるのです」と述べます。



著者は「霊場恐山は、幽霊が出るから1200年続いたわけではない」としながらも、その一方で「魂の有無に恐山はかかっている」とも述べます。
そして、「魂とは何か」について、「私に言わせれば、それは人が生きる意味と価値のことです。大和魂と言えば、日本人として生きる意味と価値のこと。武士の魂と言えば、侍として生きる意味と価値のことです」と述べています。
魂とは、どこにあるのか。この問いに対して、著者は次のように答えます。
「魂というものは、1にかかって人との縁で育てるものです。
他者との関係の中で育むものでしかないのです。
よくよく考えてみればわかるでしょう。魂というものの最初の種、これを植えてくれる人があるとすれば、母親をおいて他にいないと思います。本当は両親と言いたいところですが。私も父親なので誤解のないように言っておきますが、父親の役割や責任を免除しているわけではありません。客観的に考えて、私は母親だと思うのです」



本書には、「人は死んだらどこへゆく」という問題についても語られています。著者が修行僧時代、出家してしばらくした頃のこと。著者が使えていた老僧から「おまえは人が死んだらどこへ行くか知っているか」と質問され、答えられなかったそうです。すると、その老師は、「人が死ぬとな、その人が愛したもののところへ行く」と語ったとか。
続けて老師は「人が人を愛したんだったら、その愛した者のところへ行く。仕事を愛したんだったら、その仕事の中に入っていくんだ。だから、人は思い出そうと意識しなくても、死んだ人のことを思い出すだろう。入っていくからだ」と言い、さらには「愛することを知らない人間は気の毒だな。死んでも行き場所がない」と言ったというのです。
この言葉は、非常にわたしの心に突き刺さりました。さすがは禅の老師ですね。



著者によれば、霊場恐山は1200年の間、「もう一度会いたい 声が聞きたい」「また会いに来るからね」という死者への想いによって支えられてきました。
その想いが地層のように積み重なり、それが形になった場所が恐山だといいます。
そして、世間では最近「パワースポット」という言葉が流行していますが、著者は恐山のことを「パワーレス・スポット」と呼び、次のように述べます。
「パワースポットと呼ばれる場所は、そこに何かありがたいもの、超自然的なもの、人知で計りがたいものがあって、そこから不思議なパワーが発散される場所のことでしょう。だからそこに行けば、元気をもらえたり、癒されたり、何かご利益を得ることができると信じられ、それを求めて人が集まる。そのような場所がパワースポットだというのならば、恐山は真逆でございます。恐山が霊場であるのは、パワーがあるからではないんです。力も意味も『ない』から霊場なんです。つまり恐山は、『パワーレス・スポット』なのです」



第三章「死者への想いを預かる場所」は、慰霊・鎮魂・さらにはグリーフケアという問題も絡んで、非常に読み応えがありました。
著者は、恐山を「仏教では割り切れない場所」であるとし、「死者供養を例に考えてみましょう」と読者に呼びかけて、次のように述べます。
「それまで永平寺で学んだ仏教の理論をもってすれば、『無記』というカードを使って、『死後の世界や霊魂を“ある”とも“ない”とも言わない。それが仏教の考え方です』と、答えを保留することができます。
『死後の世界や霊魂が“ある”と思う人は“ある”と思えばいい。“ない”と思うならそれでいい』そのように仏教の公式見解を伝えて、放っておけばいい。そう割り切ればいいのです。そのカードを切ってしまえば、別にこちらが困ることはありません。
仏教教義上、間違ったことは決して言っていないし、理論的な混乱も生じません」
しかし、一方で著者は次のようにも述べます。
「ところが恐山に身を預け、いざ当事者になってみると、そうはいかないのです。
『無記』のカードだけでは割り切ることのできない、動かしがたい、圧倒的な想いの密度と強度――それを私はリアリティと呼んでいます――がそこにはある」



そして著者は、ついに「死者は実在する」と考えなければ、恐山のことは理解できないと思い至ります。そこから、「死」についての著者の思索は深まっていきます。
まず最初に「死者=死」ではないとして、次のように述べます。
「一見、死というものは死者に埋め込まれている、張り付いていると思われがちです。しかし私が恐山でつかんだ感覚としては、死は実は死者の側にあるのではありません。むしろそれは死者を想う生者の側に張り付いているのです。
なぜなら、死こそが、生者の抱える欠落をあらわすものだからです。その欠落があるからこそ、生者は死者を想う。欠落が死者を想う強烈な原動力になっているのです。
死者のことが忘れられない、というのは、忘れられない構造が人間の中にあるからです。死者を忘れるということは、生きている人間が抱える欠落を、何か適当な意味をつくってふさぐことに等しい。しかし、死とはあらゆる意味を無効にしてしまう欠落です。死者こそがこれを意識させる。私が恐山に来てつくづく思ったのは、『なぜみんな霊の話がこんなに好きなのだろうか』ということです。それは人間の中に根源的な欲望があるからです。そしてその欲望は不安からやって来ます。
つまり、霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には、『自分はどこから来てどこに行くのかわからない』という抜きがたい不安があるわけです。
この不安こそがまさに、人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、『死者』へのやむにやまれぬ欲望なのです」



死というものを考えるとき、よく「1人称の死」「2人称の死」「3人称の死」と3種類に分ける言葉が使われます。その言葉自体は、名著『死』を書いたフランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチによって広められたものです。
このジャンケレヴィッチの言葉に対して、著者は次のように述べます。
「1人称の死、というのは、自分の死。
2人称の死、というのは、家族や近親者の死。
3人称の死、というのは、他人の死。
そのように“死”を分けて考える。
だけど私に言わせれば、2人称と3人称の死、というのは、“死”ではありません。
それはただの“不在”か“消滅”です。他者の不在や消滅を目の当たりにした者が、これが自分にもいずれ起こることだと考えたときに、初め“死”がリアルなものとして立ち上がり、死についての自覚が生まれるのではないでしょうか。
2人称、3人称の死というのは、1人称の死を投影しただけです。他人の死というものは、自分の死の参考には決してならないものです。何人称であろうが、つまり「あなたの死」であろうが、「彼の死」であろうが、ある不在が自分にも起こると思った瞬間に、死という言葉が我が身にもリアルに迫ってくるのです」



「人は死んでも関係性は消えない」とする著者は、次のように述べます。
「自分に欠落したものを死者が見せ、その欠落が欲望するものを死者に預けていく。
『死者に会いたい』と考える根底のところでは、そのような無意識のはたらきがあるのではないでしょうか。友人であれ夫婦であれ家族であれ、生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。
しかし、それが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶とともに残存し、消えっこないのです」
ただし、関係性や意味を生者がずっと抱えていくことは困難です。
生者が抱えたままでは日常生活を送ることができなくなります。



ならば、どうするのか。著者は、次のように述べます。
「死者にその関係性を預かってもらうのです。私たちの想い出す、懐かしむという行為によって、死者は現前し続けます。不在のまま、我々に意味を与え続ける。だけど生者はその意味を持ちようがない。抱えきれない。
相手が生きていれば、その関係性や意味を互いに持ち合うことができます。また、意味を変化させたり、再生産したりすることもできるでしょう。
しかし相手が不在の場合、これはどうしようもありません。お手上げです。両者をつなぐ意味だけが残り、しかもそれは生者の行動さえも変えてしまう力を持つのですから、その力に押されて精神的に参ってしまう人がでてもおかしくありません。身近な人の死に囚われて、一時期は一歩も身動きが取れなかったという人が、よく恐山を訪れますが、まさにそれです。生者は、死者という『不在の関係性』を持ち切れません。その代わり、死者にその『不在の意味』を担保してもらう他ないのです。
死者に関係性や意味を預かってもらうしかないのです」



死者に関係性や意味を預かってもらう場所こそ、霊場恐山なのです。
さらに、続けて著者は次のように述べます。
「重要なのは、生者との関係性が消えてしまうと、その関係性の密度は、むしろ死んでしまった後の方が強化される、ということです。
よく言うでしょう。『自分の親が死んでからそのありがたさがわかった。生きている間に親孝行しておけばよかった・・・・・・』
いつまでも相手がいると思うと、愚かにもその人をあまり大切にしなかったり、会いに行かなかったりします。しかし、いつでも会えると思っているうちに相手が死んでしまったら、後々まで大きく響きます。感謝でも謝罪でも、その人が生きているうちにしておかなければ、それは後悔という形で永遠に残ってしまいます」



関係性のあった相手が亡くなると、その後に残る意味は強烈なものになります。
それはイメージや観念として残るのですが、生者だけでは持ちきれないので、死者に預かってもらうしかないのです。著者は述べます。
「死者の想い出というのは、それが懐かしさを伴うものだろうが、恨みを伴うものだろうが、死者に背負わせるべきものなのです。生者が背負うものではなく、死者に預かってもらうしかないのです。恐山というところは、そのような死者の想い出を預かる場所なのです。『恐山は巨大なロッカーである』とも言えるでしょう。想い出というのは、預けておく場所が必要です。よく『過去を引きずるな』と言いますが、それは『死者の想い出を生者が持ち切れない』からです。『死んだ人のことは忘れなさい』とも言いますが、忘れられるわけがありません。それが大事な人だったらなおさらのことでしょう。その想い出は死者に預かってもらうより他ないのです」



「恐山は巨大なロッカーである」とは、名言ですね。ロッカーといえば、わたしは納骨堂をイメージしてしまいます。よく考えると、納骨堂や墓に預けるものとは遺骨だけではなく、故人の思い出もそうですね。ここで、供養の問題が出てきます。
著者は、供養について次のように述べています。
「死者と向き合う、というのは、仏教の問題とは直接関係がないのです。
どの世界のどの宗教にも死者と向き合う儀式があります。亡くなった人への想いというのは全世界共通のもののはずで、その感情をどのような枠に入れて処理するか、というところでそれぞれの宗教の問題になってきます。
それは仏教的なものもあれば、キリスト教的なものもあれば、恐山的なものもある。どれを使っても別にいいわけです。仏教の中でも極楽浄土を設定するものもあれば、我々禅宗のやり方でもいい。それはその人が生きている世界や縁で決まってくるもので、そこには優劣も本質的な違いもないと私は思います」


死者儀礼のあり方について考える



供養の問題は、当然ながら、葬儀という死者儀礼の問題につながります。
最近、「葬式は、要らない」という言葉に代表されるように、あちこちで葬式仏教批判が行われています。葬式仏教の形骸化が叫ばれ、仏教の僧侶を必要としない無宗教の葬儀も増えています。このような風潮に対して、わたしは『葬式は必要!』(双葉新書)を書いたわけですが、著者も次のように述べています。
「死者に対して何かを想うということと、死者儀礼というのは別のものです。
しかしもっと決定的なのは、こうした儀式仏教に対する批判や意識の変化が、死者の扱い方とは別問題だということです。儀礼の煩雑や金銭問題などは、所詮、枝葉の話です。
むしろ問題は、生者の側にあります。
最大の原因は、他者や自己の存在感が希薄になっていることです。
死者供養の形骸化というのは、生者が軽く扱われていることと並行して考えるべき問題です。生者の意味が軽くなっているから、死者の意味も軽くなっているのです。
繰り返し述べているように、死者のリアリティと生者のリアリティは同じである、と私は思っています。生のリアリティの根本にあるのは他者との関係性です。他者との関係性が軽くなってしまえば、生きている人間の存在感も軽くなる。他者に強い思い入れもなければ、他者から得るものも当然少なくなってきます。
それは他者とて同じこと。存在感が希薄になりつつある生者に、死者を想い出す余裕はありません。葬式に対する意識が薄くなるのも当然です」
この著者の意見に、わたしもまったく同感です。



「葬式無用論」とセットになっているのが「無縁社会」の問題です。いつも指摘していますが、NHKスペシャルで「無縁社会」が最初に放映されたのも、島田裕巳氏の『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)の初版が刊行されたのも、ともに2010年の1月でした。
このとき、日本人の「こころ」は大きな曲がり角を迎えたと思っていますが、結局、「無縁社会」と「葬式は、要らない」は同じ意味というか、同義語ではないかと思います。
著者も、「無縁社会」について次のように述べています。
「『無縁社会』と呼ばれる昨今は、『最近、葬式抜きで、いきなり埋葬する方法が増えてきています。これはお坊さんとしては反対でしょう?』と尋ねられたことも数度あります。
残念だとは思いますが、反対ではありません。どう葬ろうと、葬る人の自由です。仏教の教義をどんなに検討しても、そこから直接現在のような葬式をしなければいけないという確実な根拠は、引き出せません。仏教僧が葬式をできるのは、それを望む人がいる限りにおいてです。したがって、今後も僧侶が葬式に関わりたいと思うなら、仏教のファンを増やし、僧侶への信頼を培い、『仏教僧侶であるあなたに自分の葬式をしてほしい』と、檀家なり信者なりに言ってもらう努力をするしか、対策はないのです。
私は巷間言われている『葬式仏教』に未来はない、と思っています」


 
そして、著者は「死者儀礼」そのものの意味を問い、次のように述べます。
「死者儀礼の場合、人が人を弔うことには、どのような意味があるのか。そしてそれをなぜ仏教が担うのか。お坊さんが果たす役割とは何か――。
そこまで問いを深く下ろして、考えなければいけないのです。
弔いという行為は、人類共通のものです。古今東西、どの民族、どの文化にも存在します。人が人と死に別れるためには、何らかの儀式が必要なのです。そこを見つめない限り、葬儀のイノヴェーションもあり得ないでしょう」



「弔いの意味」について考える上で、著者は述べます。
「人が誰かと死別するということ、その死別を悲しむ人がいるということ、そして追憶には長い時間を要する、ということについて真剣に考えなければいけません。
人間だけが人間を看取ります。
人間だけが人間を埋葬します。
そして人間だけが故人を想い出します。
そのことをふまえて、根底から弔いの意味を問い直さなければいけないのです」



わたしは、葬式仏教が日本人の宗教的欲求を満たしてきたことの意味は大きいと思っています。また、遺族の悲しみを癒すグリーフケアにおいても、日本では仏教が最大の役割を果たしてきました。著者は仏教を「死者を想うための器」として、述べます。
「人間は水を飲むのにもコップという器を使います。
人間の衝動というものは、何かで汲み上げられない限り感情にはなり得ません。
死に対する衝動を汲み上げるにも、何らかの器が必要なのです。
その器として機能したのが、日本の場合は仏教だったのです。
それは恐山でも同じです。仏教の器があるからこそ、そこに入っているものの匂いや味、形がわかるのです。人が死を思い、故人を拝むには器が必要なのです。
目に見えるものをよすがとしなければ、死者というものも立ってきません。
何もないところで、『自由に死者を想い出してごらん』と言われても、思考は次第にとりとめなく拡散するばかりで、しまいにはどうしてよいかわからなくなるでしょう。
そこには何らかの器が必要なのです」
同感です。この文章は、葬式仏教の理論武装に今後なりうる可能性を持っています。


 
また、著者の「死者」についての考え方にも強く共感しました。
著者は「死者は懐かしくて恐いもの」であるとして、次のように述べます。
「おそらく、人間には拝むものが必要なのです。
なぜなら、死や死者に対する懐かしさと恐れが、人間には抜き難くあるからです。
なぜ、そのような感情が生じるかというと、死という、わけのわからない何かが自分の内側にもあるからです。それを処理するためには、拝む対象がどうしても必要になってくる。ただ、むき出しの死者に対して拝むことはできません。それは恐いことです。
死者を拝むためには、死者の輪郭をはっきりさせて、自分との距離を作ってくれるものが必要になってきます。それが宗教の仕掛けなのです。
お墓でも、仏像でも、位牌でも、イタコでもいい。
一定の距離を生者と死者の間に作るために、そのような装置が必要になってきます」



最後に、本書には東日本大震災で生まれた膨大な犠牲者(死者)と被災者(遺族)のことが書かれています。震災後、20歳そこそこの頭を金色に染めたヤンキー風の若者が、著者の寺を訪れたそうです。気仙沼から来たという彼は、震災の犠牲となった妻と赤ん坊のために塔婆の供養に来たのでした。しかし、彼からはまったく悲しみが感じられず、まるでコンビニしているのと変わらぬ様子だったそうです。
そんな姿に呆然としながらも、著者は「彼はいま、悲しくないのだ」と気づきます。
そして、次のように書いています。
「彼らには、まだ死者がいない。失われた人が死者になりきっていないのだ。死そのものを理解できない人間は、別離という生者の経験になぞらえて死を考えるしかない。
別れとは何か。それは、今まで自分の人間関係の中に織り込まれていた人物を、不在者として位置づけなおすことである。『不在』という意味の存在者に仕立てることである。
だから、別れには挨拶がいるのだ。作法が要るのである。挨拶は、そのような存在の仕方を互いに許し、確認する行為である。死による別離も事情は同じである。弔いという行為が人間の社会にあるのは、生者に挨拶があるのと同じことなのだ。この過程を経ないと、別れは別れにならず、死者は死者として『存在』できない。
その『存在』と生者は新しい関係を結ぶことができない。適当な距離をとれない」



人間にとって、いったい「弔い」とは何なのでしょうか。著者は述べます。
「そもそも、弔いとは時間のかかる行為なのである。ときに儀礼の形式をかりながら感情を整理して、死者を死者たらしめるには、短くない過程が必要なのだ。
突然の大量の犠牲者と被災者の状況を思えば、おそらく彼らには十分な別れがない。つまり、『死者』になりきれない。遺体が発見されなければなおさらだ。その意味では、事故などで急に家族を奪われた遺族も同じである。失われた人への様々な想いも、死者になりきれない存在には預けようがない。『ひょっこり帰ってきそうな気がする』人に、『なぜ死んじゃったの』と、剥き出しの悲しみをぶつけることはむずかしい」



東日本大震災後、多くの日本人が「死」を見つめています。
死者とは何か。死者儀礼とは何か。供養とは何か。
ある意味で現代的なこれらの問題を前にして、1200年にわたって「死者のいる場所」であり続けてきた恐山という窓を覗きながら考えることは非常に意味があると思います。
仏教の枠を超えた著者の哲学的思索にも、知的好奇心を大いに刺激される好著です。


2012年8月9日 一条真也

『トーチソング・エコロジー』

一条真也です。

『トーチソング・エコロジー』第1巻、いくえみ綾著(幻冬舎コミックス)を読みました。
朝日新聞の書評で知って興味を持ち、購入しました。平凡な役者志望の若者の前に、自分にしか見えない不思議な少女が現れるというファンタジー漫画です。


生者の側には、いつも死者がいる!



帯の裏には、次のような内容紹介があります。
「しがない役者、清武迪。最近なぜか頭の中で聴いたことのない歌が鳴っている。そんなとき、アパートの隣の部屋に、高校時代の同級生だった日下苑が引っ越してきて!?そして彼女に寄り添う謎の少女とは・・・・・。この世の片隅で鳴る、不思議な失恋歌」
そう、「トーチソング」とは「失恋歌」という意味なのですね。



著者は、わたしより1歳下の1964年生まれで、北海道名寄市出身だそうです。
現在は北海道札幌市に在住とのこと。1979年、「マギー」でデビューし、2000年に『バラ色の明日』で第46回小学館漫画賞を受賞、さらに09年には『潔く柔く』で第33回講談社漫画賞少女部門を受賞しています。
ペンネームの「いくえみ綾」は「いくえみ・りょう」と読みます。
これは、尊敬する漫画家くらもちふさこの『小さな炎』『白いアイドル』『糸のきらめき』それぞれの登場人物の名前に由来するそうです。



わたしは著者の漫画を読むのは初めてなのですが、絵もうまく、物語にもすっと入っていけました。なんというか、少女漫画の絵の中には生理的に合わない作品が多々あり、また恋愛偏重のストーリーにも違和感を覚えることが多いのです。
でも、この作品は、どちらかというとわたし好みの漫画でした。
何よりも、「生者は死者とともに生きている」という世界観がわたしにマッチしました。
主人公の清武迪は、隣人・日下苑が恋心を寄せていた高校時代の親友の霊が見えるのです。彼は自殺したのですが、そのことは迪にとって大きな出来事でした。
「親友を亡くした人は、自分の一部を失う」という言葉があります。
まさに、親友の死によって迪の一部は失われてしまったのでした。
そんな迪の前に、ときどき親友の霊が現れては、他愛もない会話を交すのでした。
といっても、この作品はいわゆるホラーではありません。
死者が生者の側に寄り添っていることを当たり前のこととして自然に描いています。


魂のエコロジー」を提唱しました



このナチュラルな死者の描き方がタイトルの「エコロジー」という言葉につながるように思います。わたしは、本書のタイトルから「魂のエコロジー」という言葉を連想しました。
かつて、わたしが『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)で提唱した言葉です。わたしは、同書で次のようなことを書きました。
現代の文明は、その存在理由を全体的に問われていると言えます。
近代の産業文明は、科学主義、資本主義、人間中心主義によって、生命すら人為的操作の対象にしてしまいました。そこで切り捨てられてきたのは、人間は自然の一部であるというエコロジカルな感覚であり、人間は宇宙の一部であるというコスモロジカルな感覚です。ここで重要になるのが、死者と生者との関わり合いの問題です。



日本には祖霊崇拝のような「死者との共生」という強い文化的伝統がありますが、どんな民族にも「死者との共生」や「死者との共闘」という意識が根底にあると言えます。
20世紀の文豪アーサー・C・クラークは、SFの金字塔である『2001年宇宙の旅』の冒頭に、「今この世にいる人間ひとりの背後には、20人の幽霊が立っている。それが生者に対する死者の割合である。時のあけぼの以来、およそ1000億の人間が、地球上に足跡を印した」と書いています。私はこの数字が正しいかどうか知りませんし、また知りたいとも思いません。重要なのは、私たちのまわりには数多くの死者たちが存在し、私たちは死者たちに支えられて生きているという事実です。
多くの人々が孤独な死を迎えている今日、動植物などの他の生命はもちろん、死者たちをも含めた大きな深いエコロジー、いわば「魂のエコロジー」のなかで生と死を考えていかなければなりません。本書『トーチソング・エコロジー』が、「魂のエコロジー」を日本人が考え直すきっかけになることに期待しています。
第2巻以降を読むのは、今からとても楽しみです!


2012年8月7日 一条真也

『死者は生きている』

一条真也です。

『死者は生きている』和田惟一郎著(PHP研究所)を読みました。帯には「死者の霊魂は実在し、生者と交信したがっている!」と赤字で大書され、続いて「心霊現象に懐疑的だったドイルは、なぜ心霊主義者になったのか。医師として科学的な態度で探求を続け、魂の実在を確信するに至った多くの証拠と研究を紹介。」と書かれています。


コナン・ドイルが見つけた魂の世界



また、アマゾンには、本書の内容が以下のように紹介されています。
「死者は生きている。なぜなら、霊能力者を介して私たちに語りかけ、また私たちの前に幻像として現われるからである。死者の霊魂は実在し、私たちに何事かを語りかけようとしている。いわゆる幽霊が本当にいるかどうか科学的に探求しようとしたのが、19世紀後半に英国で誕生した心霊現象研究協会(SPR)である。SPRは当時流行していた交霊会や心霊現象のインチキを暴く一方で、どんなに実験をしても真正と認めざるを得ない心霊現象も数多く報告している。メンバーの言葉を借りれば『人を20回も絞首刑に処せられるほど証拠はそろっている』のである。
このSPRに所属していたコナン・ドイルは、当初心霊主義には懐疑的だったが、嘘偽りのない霊現象を目の当たりにし、最後には確固たる心霊主義者となった。本書はなぜドイルが霊の実在を確信するようになったか、多くの事例と研究を紹介しつつ、霊現象の科学的な背景にも迫る野心的な試みである」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
「プロローグ」
第一章:コナン・ドイルとはどのような人物か
第二章:「死者は生きている」をドイルはどう証明したのか
第三章:英国心霊現象研究協会(SPR)
第四章:コナン・ドイルの論証は正しいか



「目次」を見てもわかるように、本書は作家コナン・ドイルを中心に、イギリスの心霊研究の歴史について書かれた本です。『死者は生きている』というタイトルから、わたしはブログ『人は死なない』で紹介した本を連想しました。考えてみれば、あの本の著者である矢作直樹氏も、コナン・ドイルも医師という共通点がありますね。
現役の東大医学部の教授で臨床医である矢作氏は「人は死なない。そこにいる」と述べていますが、それは本書『死者は生きている』のメッセージとまったく同じです。


本書のテキストとなった3冊の翻訳書



さて本書は、著者も「プロローグ」で述べているように、『コナン・ドイルの心霊学』コナン・ドイル著、近藤千雄著(新潮選書)、『英国心霊主義の抬頭』ジャネット・オッペンハイム著、和田芳久訳(工作舎)、それにブログ『幽霊を捕まえようとした科学者たち』で紹介したデボラ・ブラム著、鈴木恵訳(文春文庫)の本の3冊を主なテキストにして書かれています。というよりも、ほぼこの3冊の内容のダイジェストと言ってもいいでしょう。
でも、翻訳書が持つ読みにくさをリライトすることで解消し、心霊の世界に詳しくない読者でも気軽に読めるライトな本に仕上がっています。



本書の主人公というべきコナン・ドイルは言うまでもなく作家です。
そう、シャーロック・ホームズの産みの親として有名です。
著者の和田氏はドイルほど知的で推理能力の優れていた人はいなかったとして、ホームズのシリーズに触れながら、以下のように述べています。
「主人公のホームズは犯罪学を研究している設定になっているのだが、ホームズの犯罪学は犯人の身体的特徴や癖、犯行現場に残る痕跡などから犯人像に迫る、非常に科学的なものである点である。ドイルはホームズを、足跡や付着した泥、繊維などから犯人像や経路などを判断する、地質学、博物学などあらゆる科学的な知識に通じた人物とし、科学的な捜査をする探偵とした」
犯罪学は、有名なチェーザレ・ロンブローゾによって確立されます。
ロンブローゾはイタリアの精神科医で犯罪人類学の創始者ですが、ホームズはそれ以前にその手法に通じた探偵として世に現れました。
ホームズシリーズがあらかた発刊された頃、エジプト総督府の警察官学校では、教材としてホームズシリーズが使われていたそうです。
著者は、「ドイルは小説という分野をもって、近代的な犯罪学の先駆モデルをつくっていたと言ってよい」と述べています。



そのように科学的な人物であったコナン・ドイルが、なぜ心霊主義者になったのか。
これについて、本書には次のように書かれています。
「ドイルが心霊主義を告白するに至った動機は、自分の長男と弟、義弟はじめ多くの身内を奪った第一次大戦の衝撃であり、特にそれが首謀国ドイツはじめ主要なキリスト教国どうしの戦争であったことに、ドイルは深く傷ついていた。
そして第一次大戦の開戦とあわせるかのようにドイルの身辺で頻発した心霊現象が、ドイルの心霊主義を決定的にした」



それでは、ドイルが心霊主義を擁護する論拠とは何だったのか。
それは、霊媒のもとで既存の科学で説明できない超常現象が起こることと、死者と交信できるのが事実であることの2つでした。
そしてドイルは、そのような現象は『聖書』にも多く記述されており、イエスも12人の弟子も霊能者であったと主張します。著者は、イエスが起こした奇跡と心霊主義を結びつけるドイルの考えについて、次のように述べています。
「このドイルの思想には、論じなければならない重要な要素が含まれている。なぜなら、イエスの時代に『しるしと不思議』がたて続けに起こったように、心霊現象が19世紀のなかばまら劇的かつ爆発的に起こり、社会現象にまで発展し持続したのは、人間の思惑を越えた何かがあると、ドイルは考えていたからである。つまりドイルは、19世紀以来、誰もが見たり聞いたりできるようになった心霊現象は、人類に道徳と生存の危機が迫っているということを知らせ、人類を道徳的、霊的に目覚めさせるために、高級霊界が人間の世界に起こしているのだ、と認識していた。そして迫りくる生存と道徳の最大の危機は、第一次世界大戦であるとドイルは考えたのである」
このドイルの抱いていた危機感というものを、わたしも強く共感します。



さて、本書はドイルを中心としたイギリスの心霊研究についての翻訳書を要約した部分があると前述しましたが、それでは著者自身の考えはどうなのでしょうか。
本書には、次のように書かれています。
「筆者が導いた結論をあえて言うならば、心霊現象をみられるような超常現象が実在することは疑えない、ということである。超常現象がニュートン力学を核とする世界観には完全に反すると承知したうえで、なおかつ超常現象は現に実在すると、筆者は判断するのである。断っておくが、とりあえず肯定するのは、心霊現象を含む超常現象が存在するというこの一点である。こうした超常現象は霊が起こすとか、霊が霊界で永遠に生きているなどという心霊主義全体を肯定するかはさておき、心霊現象と呼ばれる超常現象は実在する、と筆者は判断する」



では、この「筆者」とはどういう人なのでしょうか。
本書の〈著者略歴〉によれば、「1944年、神戸市生まれ。歴史研究家。神戸大学経済学部中退。1985年頃から知的理性的人間に興味をもち、その典型としてアインシュタイン織田信長の研究を始める。公務員の傍ら、自然科学と精神医学などを学び、作家として活躍」とあります。アインシュタインを研究し、自然科学を学んだというだけあって、本書には次のように書かれています。
「私たちが日々経験している物理的世界を構成している物質は、全て素粒子という量子によって構成され存在している。そしてこの量子は量子力学が明らかにしたように、人間が観測するまでは物理学的に存在せず、観測した瞬間に姿を現わすのである。アインシュタインがボヤいたように月は人間が見たときだけ存在し、コンピューターの原理を確立した超天才フォン・ノイマンが断言したように、山や河は人間が見たときに現出するのである。これを量子力学では波束の収縮とか観測者効果というが、量子力学はどこまでも正しい理論であると認められ、ニュートン力学量子力学の一部の範囲だけに近似的に成り立つ理論であることが判明している」



さらに、著者はアインシュタインの「相対性理論」について述べます。
「そもそも相対性理論光速度の法則は、物理学の舞台である空間から人間の理解を越えたものを排除したいという、物理学者たちの願望と一致しているのである。もちろん、それが自然を論理で理解するという意味でもあるのだが。
しかし量子力学で数々の実験を試みると、量子は無限の速度で情報を交換するとしか考えられない現象が続出した。そしてひとりの天才が、空間を越えた量子の相関が実証されれば、空間を含む全ての繋りが実証されると考え、それが実証できる方程式と、それを検証する実験を考察したのである。このジョン・ベルが考察した実験は何年か後に実施が可能になり、ジョン・ベルの方程式は全ての相関を示す結果を導くことが実験で検証されたのである。これをベルの定理という」



それまでの物理学においては、ニュートンからアインシュタインまで、すべての存在は無関係に孤立して存在するという前提で成り立っていました。
しかし、「ベルの定理」によって、事象の伝播に時間を要さない、連続した一体の宇宙という自然像が明らかになったのです。その「ベルの定理」とは、量子力学から生まれたものです。ですから敷衍すれば、人間の意志と空間の意思の相関が考えられる理論でもあるとして、著者は次のように述べます。
量子力学は、粒子やエネルギーが無から突然発生する現象や時間の逆行、情報の永遠の不滅など、心霊現象を想わせる現象や理論に満ちた、ダイナミックで柔軟な理論である。この量子力学が物理学の限りのない根本理論であることを認識すれば、超常現象や心霊現象への偏見が探究心に変わり得ると筆者は想うのである」



本書の最後は、量子力学についての著者の想いが綴られています。
そして、そこには量子力学こそが超常現象や心霊現象の実在を証明してくれるのではないかという強い期待がこめられています。
本書の〈著者略歴〉には、「2010年、逝去」と書かれています。本書の刊行日は2011年10月7日となっていますが、著者は本書の完成を見ずに亡くなったのでした。
心霊研究に生涯を捧げた英国心霊現象研究協会(SPR)の科学者たちの多くは、自身の死後に、霊界からメッセージを送ってきたとされています。わたしは、これほど心霊研究への情熱を持ち、量子力学にも精通していた著者が、あちら側から、なんらかの形で「死者は生きている」というメッセージを送ってくれるような気がしてなりません。



それにしても、『死者は生きている』という書名は、『人は死なない』を連想させますね。
ちょうど、わたしは、いま東京に来ています。
5日は、同書の著者である「勇気の人」こと矢作直樹先生にお会いする予定です。
矢作先生の同僚である稲葉俊郎先生にもお会いできるとのこと。稲葉先生といえば、『人は死なない』の「あとがき」にも登場する東大病院きっての読書家であり、東京大学医学部山岳部監督、東京大学医学部涸沢診療所所長でもあります。
お二人とは銀座でランチを御一緒する予定ですが、とても楽しみにしています。


2012年8月5日 一条真也

『近代スピリチュアリズムの歴史』

一条真也です。

『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏著(講談社)を読みました。
1848年のアメリカで忽然と生まれた近代スピリチュアリズム
それは、死者と生者との交信は可能であるという思想運動でした。本書は、19世紀の「心霊研究」から20世紀の「超心理学」へと至る網羅的な通史となっています。


心霊研究から超心理学



1930年(昭和5年)生まれの著者は、作家にして心霊研究家です。
イギリスでスピリチュアリズムを研究後、日本心霊科学協会の理事になりました。
また、1998年には「長男の出家」で第98回芥川賞を、2006年には「海洞」で第24回日本文芸大賞を受賞しています。
心霊関係の作品では、わたしも読んだ『イギリスの霧の中へ』(ちくま文庫)があります。



本書は2008年、いわゆる日本の「スピリチュアル・ブーム」の最中に出版されたものですが、ずっと書斎の片隅に置かれたままでした。
このたびの一連の「幽霊」研究で、ついに読書の機会が訪れた次第です。
まず本書を手に取って思ったことは、表紙に描かれている絵が素晴らしいこと。
これは、著者の出身地である室蘭在住の画家・佐久間恭子氏の作品だそうです。
力強い筆致で神秘的なヴィクトリア朝風邸宅群が描かれていますが、著者はここに描かれた家を「降霊会を始めようとしている家」と見ているそうです。
また本書の帯には、「守護霊、オーラ、ポルターガイスト、念写」「心霊現象は物理現象か」「研究の歴史を詳細に検証する本邦初の労作!」と書かれています。



さらに帯の裏には、次のような内容紹介があります。
「1848年、アメリカ・ニューイングランド
『それ』はハイズヴィルの小村から始まった。
ポルターガイスト、降霊会、心霊写真、念写。
欧米世界を熱狂させ、また毀誉褒貶の渦へと当事者たちを巻き込んだ『超心理現象』。
近代とともに誕生したその歴史を芥川賞作家がたどる本邦初の試み」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
第一章:ハイズヴィル事件とその波紋
第二章:ハイズヴィルに至る道のり
第三章:心霊研究の黄金時代1〜霊能者の活躍
第四章:心霊研究の黄金時代2〜霊能者たちvs研究者たち
第五章:心霊研究後期〜英国以外の研究者たちとその成果
第六章:スピリチュアリズムの発展と挫折
第七章:超心理学の時代
第八章:日本の事情
「心霊年表」「参考文献」「あとがき」「索引」



本書が刊行された当時、某スピリチュアルカウンセラーをはじめ、テレビでは多くの「心霊」をテーマにした番組が作られ、放映されていました。
そのことについて、著者は「はじめに」で次のように述べています。
「今はテレビなどでずいぶん心霊現象が取り上げられるようになりましたが、ただおもしろがったり怖がったりするだけでなく、今までにどんな心霊現象があったのか、それらについて先人たちがどんな研究をしてきたかを知っていれば、もっと冷静に、興味深く眺めることが出来るのではないかと思います。なんとムダなことをしているのだ、と思うこともあるでしょう。私も時々、テレビ会社が莫大な金を使って外国から霊能者を呼んだり実験したりするのを見て、これを学術的に利用できたらどんなに役に立つかと思うことがあります。中には貴重な実験だと思われるものもあり、お金のない研究者にとってはまったくうらやましいことでしょう。また霊能者が話す番組などでは、聞く方の人が驚いたり涙を流したりするのをよく見かけますが、基本的なことを知っていれば、もっと突っ込んだことを訊いたり、霊能者と互角に話し合えるのではないかと思います。テレビに取り上げられるほとんどのことは、もうすでに出尽くしているばかりでなく、もっと驚くべきことが過去にはたくさんあったのです」



さて、本書はアーサー・コナン・ドイルの『スピリチュアリズムの歴史』、ナンダ・フォダーの『心霊科学事典』、ジャネット・オッペンハイムの『英国心霊主義の抬頭』の3冊を主要なテキストとして書かれています。
著者は、スピリチュアリズムについて「これは新しい時代の科学だった、少なくとも科学の仲間入りをしようとした、ということである」と述べています。スピリチュアリズムとは19世紀の科学の誕生と発展を抜きにしては考えられないというわけです。
かつて、全米スピリチュアリスト連盟は「スピリチュアリズムとは、霊媒が霊界の住人たちとの交信によって一般に提供した事実に基づく科学、哲学、宗教である」と定義をしましたが、真っ先に「科学」が挙げられています。



著者は、「科学」としてのスピリチュアリズムについて次のように述べます。
「心霊科学が科学であるかどうか、ここで論議するつもりはないが、スピリチュアリズムの誕生が当時発展途上にあった科学(とくに物理学と化学)と密接に結びついたことは疑いのないことである。叩音(壁や床を叩く音)と共に霊界からの通信が送られてきたというのは、当時始まったばかりのモールス符号による電信になんとよく似ていることだろう。実際霊媒たちが叩音と共に降霊会を始め、『叩音霊媒』という名さえもらったのはこの頃だけで、今ではほとんど稀な現象である。また科学実験の対象として有名な、人体や物品の空中浮揚や幽霊の出現などのいわゆる『物理現象』が盛んに起こったのも、D・D・ホームが活躍した1850年代から70年代にかけての初期の頃である(その後1890年代初頭にユーサピア・パラディーノが出ているが)。そのうえ最初にこうした心霊現象に夢中になったのは科学者たち、しかもクルックス、ロッジ、リシェ、W・ジェイムズなどの当時の科学の最先端にいた者たちである」



本書は、19世紀に始まった「心霊研究」だけでなく、20世紀の「超心理学」までもフォローしています。いわば、ブログ『幽霊を捕まえようとした科学者たち』で紹介した本とブログ『超常現象を科学にした男』で紹介した本を合体させたような内容です。
そこで著者は、「シャルル・リシェの言うようにウィリアム・クルックスが初めてD・D・ホームを対象に実験した1871年を心霊研究元年とすると、1930年代に超心理学が始まるまでに約60年、それから現在までさらに70年余が経っている」と述べています。
ところが、後の70年は社会的反響の強さで前の60年に及びません。
その最大の原因は、なんといっても優れた霊媒の激減であり、特に空中浮揚や死者の出現などの出来る「物理霊媒」がまったく出てこなくなったからだとされています。



このことについて、著者は次のように興味深い問題を提唱します。
「なぜ19世紀末の短い期間に彼らが集中して現れたのか、まったく不思議である。これは単なる流行というようなものではない。音楽や絵画や文学などが、或る時期に集中的に大作家を出し、流行を作ることはあるが、それはそれまでの文化的蓄積が優れた才能に影響を与え、花開くからである。しかし、体が浮き上がったり、幽霊を出したりする霊媒は、いったいどういう文化的蓄積が花開いたものなのだろうか。むしろ文化的蓄積の無いところから突然出現するのが、霊能である」
著者いわく、アンドリュー・ジャクソン・デイヴィス、フォックス姉妹、ユーサピア・パラディーノなどみなそうだとか。そして、「霊能」とは霊能者自身の言葉を借りれば「神からの贈り物」であって、人間が作る文化や社会とは関係なく現れるはずだというのです。
もちろん、「霊能」をトリックや奇術の一種と見なす者にとっては関係のない話ですが。



なぜ、優れた物理霊媒たちは集中して現れたのか。著者は述べます。
「『霊媒の時代』が出現したのは、スピリチュアリストたちが言うように宇宙を統一する知性が人類に真理を告げようとして始まったためなのか(始めたのはいいが、人間たちがあまりにも頑迷なので、一時中止して次の機会を待っているとも言われるが)、それとも、カール・ユングの言う『共時性』という宇宙意識の潜在力の働きなのか、それとも単なる偶然でしかないのか、筆者には断言することが出来ない。しかし、1930年を境として舞台ははっきりと回ったのである。『霊媒の時代』は去り、誰でもが実験に参加出来る『一般能力者の時代』となった。暗室の中での『心霊現象』から、明るい部屋の中でのESPカードやサイコロによる『サイ(PSI)の時代へ、現象があればそこへ出かけてゆく『臨床的心理学』から実験室の中で現象を起こす『実験心理学』の時代へ、一言で言えば、『心霊研究』から『超心理学』の時代へと移っていったのである』」



そして、その「超心理学」の時代を開いた人物こそは、米国ノースカロライナ州にあるデューク大学の心理学の若手教員でした。名前をジョゼフ・バンクス・ラインといいます。
1934年にラインの『超感覚的知覚』という論文が出版されるや、やがて「超心理学」と呼ばれて、たちまち「心霊研究」という古い呼び名をアカデミズムから駆逐したのです。
タイトルの原題である『Extra−Sensory Perception』の頭文字(ESP)は「テレパシー」や「透視」に代わって新しい学術用語になりました。
新しい学問の誕生を告げるのろしが上がり、人々はこれを「ライン革命」と呼びました。



本書には簡潔ながら日本についての記述もありますが、1948年にラインの著書『心の領域』が「リーダーズ・ダイジェスト」日本版に紹介されたそうです。
このとき、日本人は初めて「超心理学」「ESP」「PK」などの言葉を知りました。
『超感覚的知覚』の出版による「ライン革命」から14年後のことですが、若い日本人学徒の中にはこの新しい手法を取り入れて実験を始めました。
彼らは「日本心霊科学協会」の協力のもと、1950年に研究会を発足させ、翌年には「超自然科学研究会」と命名しました。そのときのメンバーが、大谷宗司、橋本健、恩田彰、本山博、金沢元基といった人々でした。著者は、次のように書いています。
「ラインと文通を始めていた大谷宗司は、キリスト教社会主義運動家として国際的に著名な賀川豊彦の推薦もあって超心理学研究会創立の年に渡米し、ライン研究所で研鑽を積み、本場の洗礼を受けた日本人超心理学者第1号になって帰国する。彼の仲間の数学者の金沢はESP理論に、恩田は禅の悟りや坐禅時の瞑想などとESPとの関連に、興味を持って研究に取り組んだ。一方超自然科学研究会の橋本健は超常理論の応用、商品化の方面へ進み、本山は自分が設立した『超心理学研究所』の所長として宗教と心理学の融和を目指す活動に専念、気や経絡の測定、ヨーガのチャクラの研究など、超心理学の基準を超えた研究分野に乗り出していく」
ここに登場する人々の名前は知っていましたし、何人かの著書も読んだことがありましたが、このような歴史があったことは知りませんでした。



本書を読んで初めて知った日本関連の情報はいくつかありましたが、中でも福来友吉博士が見つけた超能力者・三田光一のくだりには強く興味を惹かれました。
1030年代に東京帝国大学心理学助教授であった福来友吉は、特に透視を研究対象としました。当時評判だった「千里眼御船千鶴子や長尾郁子(「リング」貞子の母親のモデルとされています)を使って実験を行いましたが、世間の偏見は強く、被験者の霊媒たちも相次いで死にました。
最後には、福来が東大の職を追われるという不幸な結果に終わっています。
その福来が「日本において自分が出会った最高の霊媒」だと絶賛したのが三田光一でした。三田は、与えられた文字や絵を念写することも可能でしたが、さらには亡くなった人物、遠くにある絵、外国に住む特定の人物、異国の景色といった「目の前にないもの」を念写して乾板に写し出すこともできたといいます。
さらに、念写の対象となった事物や人物に関する背後の事情も透視できたとか。
三田が透視した人物の中には、2・26事件で襲撃された政治家の牧野伸顕、イギリスの心霊写真家ウィリアム・ホープ、そして弘法大師などがあります。


遠隔の地を念写したものでは、イギリスの郊外の景色などもありますが、なんと「月の裏側」の写真が残されています。当時は、もちろん人工衛星も宇宙船も実現しておらず、けっして見ることができない「月の裏側」は最大の謎とされていました。
この「月の裏側」の念写写真について、本書には次のように書かれています。
「昭和60(1985)年、福来の死後33年後に、元東大教授で日本心霊科学協会常任理事の後藤以紀が『月の裏側の念写の数理的検討』を同協会研究報告の第2号として出版した。後藤は工業技術院院長も務めたことのある電気工学界の長老で、とくに数学に長けていると言われていた。この報告書は三田光一が念写した月の裏側の写真を、NASAが作成した図形上のクレーターや『海』の位置と比較したものである。NASAは1969年7月から1972年12月にかけて月面探査機アポロ11号から17号までを打ち上げ、撮影した月の写真に基づいて地図と月球儀を作り、クレーターや『海』の名称と、月面の緯度、経度による位置を発表した。後藤は東京日本橋丸善でその地図と月球儀を見て、三田光一の念写写真と非常によく似ているのに驚いたという。彼は買い求めた月面地図の上に31ヵ所の地点を定め、それらが三田光一の念写写真の上の何処に求められるかを(つまりどのような角度で写されているかを)計算によって判定し、1つ1つ確かめていったところ31ヵ所すべてが一致したという。これは驚くべきことだ。一致したという事実が驚くべきことであると共に、心霊(超心理学)研究上驚くべき業績だと言える」



わたしも、この一文を読んで、非常に驚きました。
福来友吉三田光一のことはもちろん知っていましたが、この「月の裏側」の後日談は初めて本書で知りました。三田光一の念写そのものをトリックだして否定する人もいるようですが、著者は「本物と違わない月の裏側を月面探査機の無い時代にどういうトリックを用いて写すことが出来るだろうか。そんなトリックがあったとしたらそれこそ超能力としか名づけようがない」と述べています。わたしも、まったく同感です。
アメリカの心理学者にして哲学者であったウィリアム・ジェイムズは、心霊に関する無数のインチキやトリックを「黒いカラス」と表現して、ごくわずかな真実のことを「白いカラス」と呼びました。この「月の裏側」の念写写真こそは、その「白いカラス」なのではないでしょうか。本書には、このような貴重な情報が満載であり、最後には「索引」もついていて有用性が高いと思いました。



最後に「あとがき」で、著者は本書のことを「最初は選書メチエから出版の予定だったが、制限枚数を遥かに超えてしまったので、最終的には担当者の山崎比呂志さんと出版部長のご好意により選書以外の形で出していただくことになった」と書いています。
でも、これはちょっと鵜呑みにはできないと思います。本書のボリュームは300ページ程度であり、講談社選書メチエに収まり切れないというほどではありません。選書以外の形での出版となったのは、枚数よりも、むしろ本書の内容によるものでしょう。
わたしもよく読みますが、選書メチエは学者によるアカデミックな内容のものが多いです。しかし、本書の内容を見ると、「心霊研究史」を謳いながら、はっきり言って「心霊主義」の啓蒙書となっています。そう、著者はサイキカル・リサーチの人ではなく、スピリチュアリズムの人なのです。まあ、そのような立場を明確にしているがゆえに、本書はメリハリの効いた好著になったのだと思います。本書を読んでいると、その独特の文体から「心霊」に対する著者の愛情さえ感じられました。


2012年8月4日 一条真也

『超常現象を科学にした男』

一条真也です。

『超常現象を科学にした男』ステイシー・ホーン著、ナカイサカヤ訳、石川幹人監修(紀伊國屋書店)を読みました。ブログ『幽霊を捕まえようとした科学者たち』で紹介した本の続編という印象を受けました。同書はアメリカの心理学者ウイリアム・ジェイムズが主人公でしたが、本書は同じくアメリカの超心理学者であるジョゼフ・バンクス・ラインが主人公です。この2冊によって、19世紀以来の超常現象研究の歴史がつながります。


J・B・ラインの挑戦



本書のサブタイトルは「J・B・ラインの挑戦」となっています。また、帯には「これはオカルトではない!」「超心理学アインシュタインとも言われた男の軌跡を、20世紀という激動の時代とともに描いた瞠目のノンフィクション」と書かれています。
著者のステイシー・ホーンは1956年生まれのジャーナリストで、90年にニューヨークでソーシャル・ネットワーキング・サービスの先駆け的存在であるEchoNYCを立ち上げるという経歴の持ち主でもあります。



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「主要登場人物」
「プロローグ」
第1章:交霊会
第2章:ESP
第3章:名声と苦闘
第4章:戦争と死者
第5章:悪魔祓い
第6章:声なき声
第7章:ポルターガイスト
第8章:特異能力者
第9章:サイケデリックと冷戦
第10章:幽霊と科学者たち
第11章:遺産
「エピローグ」
「謝辞」「解説」
「年表――J・B・ラインと超心理学
「参考文献」「索引」


「プロローグ」の冒頭で、著者は次のように書いています。
「怪談は魅力的だ。
だが一般的に科学者たちは、超常現象の報告や、それらを厳密に研究しようという考えを軽蔑し続けてきた。しかし20世紀の前半、今までになく薄くなった現実というベールの下に、目に見えない力や波、粒子などを発見し、宇宙が膨張していることを科学が証明していった時代があった。そのごく短い期間、長らく〈超常現象〉としてカ学者たちがろくに調べもせずに片づけてきた事象に対し、科学的なアプローチが可能かもしれないという考えを受け入れる余裕が学問の世界に生まれた。このわずかな絶好の機会のあいだに、デューク大学超心理学研究所を開設したのだった」



研究所のリーダーの名は、J・B・ライン。かつて「超常現象のアインシュタイン」とまで呼ばれた人物です。1934年に刊行された著作『超感覚的知覚(ESP)』は世間に大きな衝撃を与え、ラインは一躍時代の寵児となりました。
彼は、「超心理学」という新しい学問を確立しようとしました。
超常現象を人間の発揮する能力によって引き起こされるものと考え、それを科学的に解明しようとする学問です。「超心理学」という言葉そのものは1889年のドイツで使われ始めたものですが、ラインが広く普及させました。
また、ESP(超感覚的知覚)をはじめ、テレパシー(他人の心から情報を得る)、透視(物体など、心以外のものから情報を得る)、予知(未来を見る)、PK(念力、心で物体を動かす)などの各事象の定義は、すべてラインの研究から生まれたものです。


ラインは、非常に多くの有名な人々と関わりがありました。
たとえば、ノーベル賞物理学者のアルバート・アインシュタイン、社会派作家のアプトン・シンクレア、行動心理学者のB・F・スキナー、アメリカ大統領のリチャード・ニクソン、小説家のオルダス・ハクスリー、作家で「ホロン」の提唱者であるアーサー・ケストラー、そして心理学者のカール・ユングなどです。また、元ハーバード大学の心理学教授でLSDを世間に広めたティモシー・リアリーは、1961年にデューク大学を訪れ、ラインと研究所のスタッフ数人にシロシビンによるトリップを体験させています。
かのヘレン・ケラーもラインと会いました。彼女は指をラインの唇に置いて、自分はたびたびESPを経験していると語りました。



そして、ラインの研究は軍事にも影響を及ぼします。
本書には、次のように書かれています。
「陸軍と海軍は超感覚的知覚の動物実験を研究所に委託し、また空軍はESPマシンを作った。これは実験の一部を自動化した比較的簡単な構造のコンピュータである。ジェネラル・ダイナミクス社のような防衛産業が、政府の高等研究計画局の要請を受け、研究所の実験の進み具合を見学しに訪れた。鉄のカーテンの向こう側から、ロシアにも超心理学研究所があるとの情報が流れてきたとき、超心理学マンハッタン計画が取りざたされたこともある。CIAはやがてマインドコントロールの開発に数百万ドルを費やすことになる」



また、産業界もラインの超心理学研究所に興味を持ちました。
早くも1938年の事典で、ラインはIBMとESPマシンを作る話をしており、当初IBMは非常に乗り気でした。AT&T,ゼニス・コーポレーション、ウェスティングハウスのようなアメリカを代表する大企業の代表者も、ラインと連絡を取っていました。
彼らは、いつの日か現実世界で利用されるかもしれない「未知の精神的な力」についてもっと研究するための実験を試みたのです。
高名な実業家にして自然科学者でもあったアルフレッド・P・スローンや、ゼロックス創始者であるチェスター・F・カールソンらは、ラインの実験結果に興奮し、ポケットマネーでラインの研究所に投資しています。
さらには、ロックフェラー財団もラインの研究所に財政援助を行っています。



このように、J・B・ラインはまさに「時代の寵児」でした。しかし彼が確立しようとした超心理学という学問は、正統的な科学の手法を踏襲しているにもかかわらず、本流の科学者たちからはまともに相手にされませんでした。それでも、「少しばかり戦いが好き」だったラインは、ひたすら批判者たちに立ち向かい続けたのです。
著者のステイシー・ホーンは彼の研究所が所有する700箱の資料を読み解き、関係者にインタービューしています。そして、ライン流超心理学の流れをたどり、ラインたちが生きた20世紀という時代を描いています。



ラインの名前は、もちろん昔からよく知っていました。
1992年に上梓した拙著『ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー)では、「超能力マーケティングの可能性」という一章を設けて、ラインの研究について書いています。
ラインというと、わたしにとっては「超能力研究の第一人者」というイメージでした。
しかし、本書では心霊現象や悪魔憑きといったオカルトとされる現象にも多くのページが割かれており、非常に面白かったです。
これについて、本書の「解説」で監修者の石川幹人氏は「ステイシーの興味の中心が『死後生存』にあったためか、ややそのテーマに比重が置かれている。従来の『ライン流超心理学は、ESPカードやサイコロの実験に終始した』という、よくなされる論調とは一線を画している。それがかえって、本書の大きな魅力となっている」と述べています。
わたしも、まさに石川氏の言われる通りだと思いました。
おそらく、実験を中心としたESP研究の歴史に特化していたら、きっと退屈きわまりない本になったことでしょう。



実際、ライン自身の興味の発端は「超能力」ではなく、「死後生存」にありました。また、超心理学に資金援助を申し出た人々のほとんどは、死後生存研究を希望してのことでした。本来、ラインは「幽霊を捕まえようとした科学者たち」の1人だったのです。しかし、超心理学を学問として認めさせるためには、死後生存研究からは距離を置く必要がありました。ラインは、そのはざまで苦悩し続けたわけです。石川氏は、続けて述べます。
「さらに本書では、超心理学の周辺領域に対し、ラインがどのように考え、そして行動したかが、みずみずしく描かれている。退行催眠やUFOなどのオカルトとされる現象、超能力捜査、ドラッグの効果から超能力の軍事利用まで、これまでラインの伝記的記述ではなかなか手がまわっていなかった側面に切りこんでいる。当時の有名人たちとラインとの関わりなどが随所に出てくるところは、本書の歴史的な価値も高めていると言っていいだろう」


その当時の有名人についての記述の中でも、ひときわ興味深かったのが、アインシュタインユングのそれです。まず、アインシュタインですが、彼が1回だけ参加した交霊会が完璧な失敗に終わったことが本書で明かされています。
そのとき3年もブランクがあったオストージャという名の霊媒は、もう一度やらせてくれと頼みましたが、アインシュタインは多忙でした。「死後生存」を信じる人々は、きわめて影響力が強い科学者であり、かつ味方になってくれる可能性のあったアインシュタインに、強い印象を与えるという得難い機会を逃してしまったのでした。
実際は、最初からアインシュタインを説得できる見込みはありませんでした。
彼の秘書によれば、アインシュタインは「もし幽霊をこの目で見たとしても信じないだろう」と語っていたそうです。



1940年、ラインはアインシュタイン宛の手紙を出しました。そこには、ラインが自分の事件結果を説明できるような「適切な物理額的仮説を見つけ出す困難さ」について述べています。それに対するアインシュタインの返答は、次のようなものでした。
「(ラインの本を読んではいるが)正直なところ、問題となっているような現象が現実に存在するのか、私は懐疑的です。とはいえ、あなたが協力者とともに得た肯定的な結果への何の説明手段も持ちあわせておりません。どちらにしろ、私は関係する問題の解明に効果的な貢献をすることはできないように思われます」
しかし、超心理学者ジャン・アーレンワルドのテレパシーに関する本を読んだ後、アインシュタインはアーレンワルドに次のように述べています。
「あなたの本は私にとって、とても刺激的でした。そして、ある意味、この複雑な問題全体に関して私がもともと持っていたきわめて否定的な態度を和らげることになりました。人は目を閉ざして世界を歩んでいってはいけないのです」


また、スイス人精神科医カール・ユングは、ラインと文通をしていました。ライン宛の手紙に、ユングは「魂が持つ時間と空間に関連する奇妙な性質にとても強い興味を持っている」と書きました。さらに、ユングは何よりも「特定の精神活動において時空の概念が消滅すること」に興味があり、心霊研究にも期待していると書いてきたのです。
他の書簡では、ユングは自身の超常現象体験についても触れています。このユングの赤裸々な告白について、本書には次のように書かれています。
「心理学者が、こんなにも簡単にESPを肯定してくれたのは初めてだった。しかもユングのような高名な学者である。しかしラインは、ユングに対して『我々は心についての仮説を「今のところ」何も持っていません。それがあれば、これらの事実を考察する際の手掛かりになるのですが』と認めざるを得なかった。ユングは励ますような返事を送ってきた。『これらの出来事は、単に現代の人類の頑固な脳では理解できないだけなのです。正気じゃない、あるいはイカサマだと捉えられる危険があります』



そしてユングは、ラインに対して次のように述べたそうです。
「私が見たところ、正常で健康でありながらそのようなものに興味を持つものは少数です。そして、このたぐいの問題について思考をめぐらせられるものはさらに少数です。私は今までの歳月における経験で確信を持つに至りました。難しいのはどのように語るかではないのです。どのように語らないかなのです」
ユング自伝』などを読むと、ユングは早い時期からESPやテレパシーの存在を確信していたことがわかります。しかし、アカデミズムの世界で心霊的概念を語る事は、あまりにも危険でした。そのために、ユングは「集合的無意識」という用語を作り出したとも言えるでしょう。人類の「こころの未来」を拓く可能性のある研究を「イカサマ」扱いされないために、ユングはラインに心あるアドバイスをしたのでした。
ところが、ラインがユングの助言を聞き入れることはありませんでした。
きっと、世間の偏見と闘い続けてきたラインには意地があったのでしょう。


さて本書には、もう1人の高名な学者が登場します。
文化人類学者のマーガレット・ミード女史です。
1946年末、ラインはニューヨークのアメリカ自然史博物館に在籍していた彼女に手紙を書きました。ミードが専門とする文化人類学研究の過程で、超心理学的な出来事に遭遇しているかという質問を書いたのです。
ミードは、心霊研究には共感するところが多いが、「わたしのフィールドワークの蓄積から言えば、未開社会でも超感覚的能力が発達した人は、我々の社会におけるのと同様に少数であると感じています」などと書いています。
しかし彼女は、そのようなできごとには注目してきており、バリ島の幽霊やニューギニアの予知夢などについて説明しています。



そのミードが、この手紙の23年後にラインの人生に大きな影響を与えます。
1969年、超心理学協会は権威ある米国科学振興協会の加入メンバーになろうと、4回目の挑戦をしていました。ボストンでは米国科学振興協会の委員が投票の準備をしていました。全米矯正精神医学協会に続いて超心理学協会の加入が検討されたとき、予想通りに反対意見が出ました。
1人の科学者が「このサイ現象と呼ばれているものは現実に存在せず、したがってこの分野での科学的研究などは不可能です」と言えば、もう1人が「我々は超心理学の何たるかを知らない。どうやら投票をする資格などなさそうです」と述べました。
ここで、驚くべき出来事が起こります。本書には、次のように書かれています。
超心理学協会の加入問題は今までにも何度も何度も投票で否決されてきており、今回もまた否決で終わるようにみえた。ところがそこで、高名な人類学者であるマーガレット・ミードが立ち上がった。『過子10年にわたり、我々は科学を構成するものと科学的方法とは何か、そして社会はそれをどう使うのかについて議論してきました。盲検、二重盲検、統計。超心理学者はそれらをすべて使っています。すべての科学の進歩の歴史には、それまでの学問的権威がそこにあると信じなかった現象を調査研究した多数の科学者なしには語れません。私は我々がこの協会の研究を尊重する方向で、投票を実施することを提案します』」
このミードの発言によって動議は可決され、超心理学協会はようやく米国科学振興協会に受け入れられました。ラインが創始した「超心理学」は、ついに科学の仲間入りをしたのです。それにしても、ミードの言葉には感動を覚えずにはいられません。
これこそ、真の科学的精神の表明であり、真実を追求する学者の声です。



1980年2月20日、ラインは84歳でその生涯の幕を閉じます。
悲願であったESP解明の飛躍的前進は、とうとう起こりませんでした。
ラインの死後、超心理学は低迷しましたが、今でもラインの後継者が細々と研究を続けています。本書の最後には、以下のように書かれています。
アメリカを代表する哲学者であり、米国心霊研究協会の初代会長であるウィリアム・ジェイムズは、『心理学、生理学、医学では、神秘論者と科学者の議論があり、結着がつくとき、たいてい神秘論者は事実について正しく、科学者は仮説において正しい』と述べている。死後生存の問題はまだ決着がついていない。
超心理学研究所の物語は、手詰まりではじまり、手詰まりで終わる。
実験はテレパシーを確認したが、広く受け入れられることはなかった。
死後生存の証拠を探したが、証拠は決定的ではなかった。
私たちが愛する人々はみんな死を迎え、去っていく。そして記憶よりも確かなものが残るのかどうかは、科学的には答えようのない問いである。
最後に超心理学研究所の人々に残されたのは、プラットが言う『死後への恐れと、信じることの慰めのあいだの不安定な休息所』である。それはおそらく私たちすべてが、永遠に心のよりどころとしなくてはならない場所なのであろう」



本書を読み終えて、わたしは無常観のようなものが心に浮かんできました。
しかし、それは、暗いものではなく、なんというか爽やかな無常観です。
未知の世界に挑戦する人間の姿に「爽やかさ」を感じたのです。
本書は340ページ以上もあるハードカバーで、読む前は覚悟を必要とするかもしれませんが、読み始めると、翻訳のうまさもあって非常に読みやすく、一気に読了しました。
また、ラインの代名詞である「ESPカード」の図柄を使用した装幀もセンスが良いですね。さすがは、紀伊國屋書店です。20世紀という時代を生き生きと描いたノンフィクションでもあり、ぜひ本書を多くの方々に読んでほしいと思います。


2012年8月3日 一条真也

『幽霊を捕まえようとした科学者たち』

一条真也です。

8月になりました。「夏は死者の季節」ですね。
幽霊を捕まえようとした科学者たち』デボラ・ブラム著、鈴木恵訳(文春文庫)を読みました。文春文庫の海外ノンフィクションの1冊です。このシリーズは『フロイト先生のウソ』(R・デーケン著)を読んで以来です。どちらも読み応えがあり、素晴らしい内容でした。
本書を書いたデボラ・ブラムは、米国ウィスコンシン大学マディソン校科学ジャーナリズム論教授で、サイエンスライターとして活躍しています。1992年には『The Monkeys Wars』(邦題『なぜサルを殺すのか』白揚社)でピュリッツァー賞を受賞しています。


様々な心霊現象の解明に挑む



本書の表紙には、ベッドに寝ている女性の体から幽体が離脱しているという神秘的な絵が使われています。裏表紙には、以下のような内容紹介が書かれています。
「19世紀半ば、欧米で心霊現象への関心が高まり降霊会がブームになった。多くの科学者が否定するなか、ケンブリッジ大を中心とするノーベル賞学者2人を含む研究会が、本気で幽霊の存在を証明しようとした。時に協力し合い時に見解の相違を見つつ、様々な心霊現象の解明に挑んだ彼らが行きついた『死後の世界』とは?」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。 
前奏曲〜タイタス事件〜
1.ポルターガイストと幽霊屋敷
2.「科学vs宗教」の時代
3.ケンブリッジの三人組
4.サイコメトリー
5.死の間際のメッセージ
6.幻覚統計調査
7.テレパシーか、霊との交信か
8.エクトプラズム
9.よみがえった霊
10.死の予言
11.交差通信
12.終わりなき探求
「謝辞」
「登場人物小事典  ゴーストハンターズ、アンチ・ゴーストハンターズ、霊媒たち」
「心霊研究関連年表」
「原注」
解説「グレーゾーンを科学する」渡辺政隆



本書には、いわゆる「サイキカル・リサーチ」と呼ばれる心霊研究の歴史が紹介されています。一連の「幽霊」研究の一環で手に取った本です。
もともと、わたし好みのテーマだっただけに夢中になって読みました。
ジャネット・オッペンハイムの名著である『英国心霊主義の抬頭』の続篇を意識して書かれたような印象でした。この本は、かつて角川学芸出版の取締役である宮川多可志さんにお会いしたときに知りました。宮川さんとは鎌田東二さんの紹介で知り合ったのですが、ちょうどこの本を鎌田さんに紹介されていたのです。興味を抱いたわたしは、すぐさま神保町の三省堂書店の精神世界コーナーに直行して購入、ハードカバーで600ページ以上もある同書を寝食を忘れて一晩で読んだ記憶があります。


本書の先駆をなす『英国心霊主義の抬頭



その続篇ともいうべき本書も、わたしの好みにマッチした内容で、読書中は至福の時間を過ごせました。19世紀後半から20世紀にかけて、アメリカとイギリスを中心にノーベル賞級の学者たちが心霊研究に没頭しました。
主なメンバーは、ウィリアム・ジェイムス(実験心理学創始者)、ヘンリー・シジリック(功利主義哲学者)、アルフレッド・ウォレス(ダーウィンと共に進化論を発表)、レイリー・ストラット(ノーベル物理学賞受賞)、シャルル・リシュ(ノーベル生理学医学賞受賞)、ウィリアム・バレット(ケイ素鋼を発見)、オリバー・ロッジ(検波器を発明)、ウィリアム・クルックス(タリウム発見と真空放電管発明)などです。さらには、2度にわたってノーベル賞を受賞したキュリー夫人も降霊会に登場していました。
ノーベル賞そのものは1901年から始まったので、まだ生まれたてであり、現在ほどの権威はなかったと思われますが、それにしても当時の超一流の科学者たちが受賞したことは事実です。今からは想像もつかないような豪華メンバーが心霊研究を行っていたわけですが、当時はダーウィンの『種の起源』によって『聖書』の「天地創造」が明確に否定され、科学と宗教が対立していました。その狭間で、多くの科学者たちは「科学では説明できない人間らしさ」を探そうとしたのです。



科学技術が大発展を遂げた19世紀後半において、彼らの行動は一見、心霊現象さえも科学の力で解明できるはずだという科学信仰に基づくのではないかと思わせます。
しかし、彼らの行動の根底には、物理法則至上主義の科学が偏狭さに陥っていることへの反省、そして超常現象を科学で解明することで、「科学と宗教の架け橋」になろうという壮大な志があったのではないでしょうか。わたしは、そう思いました。
まずイギリスで心霊研究会(SPR)が、次いでアメリカで心霊研究協会(ASPR)が設立されます。「ポルターガイスト」「エクトプラズム」「テレパシー」「サイコメトリー」「テレキネシス」といった用語は、この一連の研究から生まれました。
世間の偏見の目と戦いながら、科学者たちは真剣に科学の力で「幽霊を捕まえようと」しました。しかし、現実は厳しく、95%は信頼のおけないデータでした。それでも、残りの5%の真実を求めて地味な実験を続ける科学者たちの姿には感動さえ覚えます。



科学者たちの実験が地味な一方、霊媒たちのパフォーマンスは派手でした。彼らが開いた交霊会では、椅子が勝手に動き、ラッパがひとりでに鳴り、死者が出現しました。
本書に書かれているフォックス姉妹、ダニエル・ダングラス・ヒューム、ヘレナ・ペトロ・ブラヴァッキー、フローレンス・クック、レオノーラ.エヴェリーナ・パイパー、エウサピア.パラディーノといった著名な霊媒師の調査報告は面白すぎる内容になっています。
この中でも、ヒュームやパイパー夫人などは最後までインチキやトリックが見つかりませんでした。心霊現象ではなかった場合の唯一の可能性が集団催眠というのですから、その凄さは想像以上です。パイパー夫人の霊能力などは、ウィリアム・ジェイムスによって「真実」を意味する「白いカラス」と認定されたほどでした。
本書には、科学者たちの「疑い」が「驚き」に変わっていく様子がよく描かれています。
ちなみに霊媒たちが普及したスピリチュアリズムは「心霊主義」と訳され、これは一種の宗教的要素がありました。サイキカル・リサーチとしての「心霊研究」と「心霊主義」とは違うものであることを忘れてはなりません。


さて、本書には多くの科学者や霊媒が登場しますが、なんといっても主役はアメリ実験心理学の権威であったウィリアム・ジェイムズでしょう。
哲学者でもあり、『プラグマティズム』や『宗教的経験の諸相』などの著書は有名です。
じつは、本書の副題は「ウィリアム・ジェイムズと死後の世界の科学的探究」であり、最初からジェイムズを中心に書かれた本だったのです。
そのジェイムズについて、本書の冒頭には次のように書かれています。
「超常現象の重要性に関してほかの研究者と論争になった際には、科学というものは――電灯や発電機、電報や電話を生み出した19世紀の原動力ではあるが――不遜にもなれば、誤りも犯す、と冷静に指摘した。また、研究倫理の確立に熱心な雑誌《サイエンス》に、自分は科学者という言葉をうやうやしく使うのが嫌いだ、とも書いている。『その言葉が連想させるのは、科学とは宗教に反するもの、感情に反するもの』、現実の経験にさえ反するものだという『思いあがった偏狭な科学観である』と。
ジェイムズのこうした姿勢は、大学の同僚たちの見解と相容れないことも多く、そうした同僚を、ジェイムズは“正統派”と呼ぶこともあった。彼の非正統性は自然に身についたものだった。めまいがするほど不安定な家庭で育ったジェイムズは、自分が生きる時代の文化的不安定さを肌で感じ取っていたのだ。
時代は極度の道徳的不安定期にあった。宗教は明らかに科学に包囲され、科学技術が現実の法則を書き換えようとしているように見えた。
そこになんらかの均衡を見いだすことは、変わりゆく世界に存在する意義を見いだすことであり、絶対に必要なことだと、ジェイムズには思えた」



本書を読んで個人的に胸を打たれたのは、ジェイムズが三男ハーマンをわずか1歳で亡くしたくだりでした。ジェイムズと妻アリスは、猩紅熱に冒された幼いハーマンを7月9日に見送ります。そして、その2日後、ケンブリッジ墓地にあるジェイムズ家の墓所の小さな松の木の下にハーマンは葬られました。本書には、次のように書かれています。
「ウィリアムとアリスは息子の棺を小さな白いフランネルの毛布でくるみ、それが地中におろされると、花と蝶でまわりを囲んだ。自分はかねがねそんな儀式は軽蔑していた、と、のちにジェイムズはおばのひとりに告白している。『でも、古くからの習慣には、どれも人間の要求がうまく表れているのだと、ふたりとも感じました』夫妻は息子を揺りかごに入れ、枝と葉でおおい、『そこに寝かせて』きたのだった。
そしていま、この8月末の晩、ジェイムスはその借家に戻ってきて、おぼろな月の光の中にじっとたたずみ、はかない息子の命を思っていた。
翌日、ジェイムズは従兄弟にこう書いている。『あの子には何かもっとすばらしい運命が待っているにちがいない』何か地上の生を超えた約束が」
この幼い息子の死がジェイムズを心霊研究へと駆り立てたことは想像に難くありませんが、それにしても「古くからの習慣には、どれも人間の要求がうまく表れている」という言葉は葬儀や埋葬という行為の根拠にもなりうる名言だと思います。



1910年、ウィリアム・ジェイムズは急性の心臓肥大で亡くなります。
アメリカでもヨーロッパでも、その死は新聞でおごそかに報じられ、「現代のもっとも高名で影響力のあるアメリカ人哲学者」を失ったと伝えられました。
弟の作家ヘンリー・ジェイムズは「言葉に尽くせないほど生き生きとしたすばらしい」存在であったと、兄への追悼の言葉を記しました。
本書には、次のように書かれています。
「ウィリアムの死後しばらくのあいだ、アリスとヘンリーは――とくにアリスは――彼が生きつづけているというメッセージを期待して、何人かの霊媒を訪ねた。スタンリー・ホールとの苦い出会いのあと、引退を表明していたレオノーラ・パイパーとは交霊会を行なわなかったが、ボストンのほかの霊媒との交霊会では、ヘンリーに言わせれば、死者の断固たる拒絶のほか、何も伝えられなかった。
アリスは落胆したが、確信は揺らがなかった。霊的宇宙に生きるには『信じる意志』が何よりも大切だというウィリアムの考えが、昔から好きだった。『わたしは不死を信じています』と友人への手紙に書いている。ウィリアムが『無事に生き、愛し、働いており、わたしたちのそばから完全にいなくなったわけではない』と信じています」



本書を読んで、わたしは「愛する人を亡くした人」たちの故人への思慕の強さを再認識しました。数年前に突如として流行した「スピリチュアル・ブーム」もすでに去りました。
現代の日本では、「死者の霊」について語られる機会が減っています。
それでも、わたしたち生き残った者は、けっして死者を忘れてはならないと思います。
ところで昨日、広島に住む妻の祖母が亡くなりました。享年96歳でした。
平安祭典の広島西会館で1日の18時から通夜、2日の11時から葬儀が行われます。
妻は、幼いころ大変な「おばあちゃんっ子」だったそうです。
2人の娘たちも、「ひいおばあちゃん」が大好きでした。合掌。


2012年8月1日 一条真也