『これが漱石だ。』

一条真也です。

佐藤泰正著『これが漱石だ。』(櫻の森通信社)を読みました。

著者は、漱石研究の第一人者です。
文豪・夏目漱石は1916年に亡くなりました。
翌年の1917年に生まれた佐藤氏が、24時間語り下ろした「漱石ライブ」。
それが本書です。

漱石は、わたしの大好きな作家です。
中学生の頃から漱石の作品を愛読してきましたが、一昨年、すべての小説を再読しました。そのとき、わたしは「人間関係」についての本を書いていました。
わたしは、現代人の最大の問題は「人間関係」であると思っています。
会社員の退職理由も自殺の原因も、まずは「人間関係の悩み」があります。
かつて漱石は、『草枕』の冒頭で「人の世は住みにくい」と書きました。
その住みにくい世を住みやすくする最大の鍵こそ、「人間関係」にあります。
漱石は、福沢諭吉の「脱亜入欧」に代表される明治の西欧化の中で儒学の伝統を守り、日本人の「こころ」を見つめて、良き人間関係を築く方法を模索しました。
わたしは、日本人の「人間関係」について考えるには、漱石の小説が最大のテキストになると思ったのです。

漱石作品を再読して、わかったことはたくさんあります。

まず、『吾輩は猫である』が人間という生き物の面白さを描いていること。
『坊ちゃん』は究極の人間関係小説であり、『草枕』には人間関係を良くするための芸術が表現されています。
三四郎』は恋愛に至る人間関係を描き、『それから』は「不倫とは何か」を問います。             
『門』では、「世間とは何か」を残酷なまでに問います。
彼岸過迄』は親子の関係を、『行人』は兄弟と夫婦の関係を究明する作品です。            
『こころ』は師弟関係と友情について極限まで考察します。
『道草』は「家庭とは何か」を追求します。
そして、遺作の『明暗』は「人間関係のおそろしさ」を描こうとしたように思えます。
このように見ると、漱石はけっこう重い作家なのです。
ベストセラーのタイトルではありませんが、「悩む力」を持っていたのですね。

でも、本書『これが漱石だ。』を読むと、漱石が軽やかな作家に思えてきます。
佐藤氏は、漱石の文体を流れるような文体だとされています。
それは書き言葉というよりも「語り」の文体だというのです。
だいたい文学というか、人間の言葉で生み出されたものの、一番の本体とは何か。
それは、言葉で相手に語るということです。
面白い話、深刻な話、いずれにしても語るのです。
佐藤氏は、漱石の文学の根本にあるものは「語り」だといいます。
吾輩は猫である』は猫の「語り」であり、『坊ちゃん』は坊ちゃんの「語り」であり、『草枕』は余という絵描きの「語り」なのです。
だから、のびのびするというのです。
芥川龍之介のように一字一句原稿用紙にペンで埋めていくようなことをするとヘトヘトになる。漱石は、テンションが上がってくると、その語りで一気に語っていくのです。
「語り」とは近代小説の一番根本にあるもの、そう佐藤さんは見ています。
そして本書にも、講義の名手である佐藤氏の「語り」が炸裂しています。

推薦文を寄せている文芸評論家の加藤典洋氏は、本書について「漱石研究の生き字引である人にして、はじめて叶う精妙な語り口」と書いています。
本書は、当年とって92歳の佐藤泰正氏による、漱石の入門書にして、漱石研究の集大成なのです。
まさに、「これが漱石だ!」と思わせられる本でした。


                漱石研究の生き字引による「語り」の本


2010年3月2日 一条真也

月の広場

一条真也です。

昨夜は満月でしたが、あいにく空が曇っていました。
「今夜は、どうだろうか?」と思い、夕刻、「月の広場」に出て、空を見上げました。

2007年12月25日のクリスマス当日、サンレーの本社機能も兼ねる小倉紫雲閣がリニューアル・オープンしました。
そして、その隣接地に新時代の葬送スペースである「月の広場」が完成したのです。


               月の広場にて


太陽が神の生命のシンボルなら、人間の生命のシンボルは月です。
日ごと満ちては欠ける月は、生まれて老いて死ぬ、そしてまた再生する人の生命そのものなのです。
月の広場」の設計は、北九州を代表する建築家である白川直行氏にお願いしました。
日銀の白川総裁の弟さんです。
中央にある噴水(ムーン・プール)は、実際の月の満ち欠けによって可変するという、世界初の噴水です。その周囲には四季折々に花が咲く木々を植え、「死」と「再生」をコンセプトにした庭園をつくりました。
そこでは、「月への送魂」も行うことができますし、噴水の周りのロータリーを霊柩車がゆっくり通ります。それを輪になった参列者が見送ることによって、かつての「野辺の送り」のような「残心」のある出棺が可能になりました。
春は、桜の花びらが散ってゆく中を故人が見送られていきます。
夜には、月に向かってレーザー(霊座)の一条の光が放たれます。
そして、ひとつひとつの「死」が実は宇宙的な出来事であることを示すのです。

わたしが何より嬉しいのは、近所の小さなお子さんやお年寄りが散歩にやってきて、「月の広場」のベンチに腰掛けてくつろいでくれることです。
公園のような場所だと思っているのかもしれません。
これまではセレモニーホールに散歩で遊びにやって来るというのは考えられませんでした。初めて、「月の広場」に散歩の人たちが来たときは、わたしも驚きました。
でも、今では日常化し、毎日のように遊びに来てくれます。こうやって、少しづつ「死は不幸ではない」という文化が広まってくれればと願っています。


月の広場」には屋外スピーカーを設置しており、さまざまな音楽が流れています。
グレゴリオ聖歌モーツァルトのレクイエムも流れます。
千の風になって」や、わたしが作詞した「また会えるから」も流れます。
今夕は、「ミスター・ロンリー」が聴こえてきました。
きっと、「ジェットストリーム」のCDをかけているのでしょう。
なんだか、センチメンタルな気分になってきます。
ジェットストリーム」は、日本航空が提供するラジオ番組でしたから、空港のイメージがあります。そういえば、セレモニーホールとは「魂の空港」だと言えますね。
「今夜は、書斎でジェットストリームを聴きながら、ブログでも書くか」と思いました。


2010年3月2日 一条真也