『現代霊性論』

一条真也です。

内田樹氏と釈徹宗氏との対談集『現代霊性論』(講談社)を読みました。
内田氏は、現代日本の「知」のフロントランナーの一人です。
その言説のシャープさには、いつも唸らせられます。
わたしは内田氏のほぼ全著作を昨年まとめて読みました。
今年に入ってからも、『日本辺境論』(新潮新書)や『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ)などの新刊を読みましたが、相変わらず冴えていますね。
多くの著書の中には、『街場の教育論』(ミシマ社)をはじめとして、葬送儀礼の重要性について触れているものも少なくありません。
最新刊である『現代霊性論』は、浄土真宗の僧侶であり宗教思想家でもある釈徹宗氏とのスリリングな対談集です。

                  儀礼の本質を語る


帯に「お葬式、占い、霊能者、タブー、新宗教、カルト、UFO・・・「スピリチュアルの毒」にあたらないために、現代日本人必読の書!」と書かれています。おおむねオカルト的なものに対しては批判的な内田氏ですが、反対に帯コピーの冒頭に出てくる「お葬式」については必要論を唱えています。
内田氏は、まず、「霊」という言葉の概念や意味が時代ごとに変わってきている点に注目します。そして、近代の科学的、合理的な思考の中で、わたしたちが霊性にかかわる問題から自由になったかというと逆で、むしろ霊的な束縛は昔より強まっているかもしれないと述べた後、次のように発言しています。
「たとえば今でも、親が死んだときに『オレは霊なんて信じないから、葬式やんないよ』という人はいないわけです。というのは、日本社会では葬式をやらなければ、『君は親が死んだのに葬式を出さないのか』『墓にも埋めないのか』と、社会生活を営めないくらいの圧力を受けるから。『現実主義』的に霊的生活を否定すると、『現実』に生きていけないという事実がある。だとすれば、この『現実主義』なるものは、あまり『現実』に対応していないということになる。」


本書のハイライトは、最後に内田氏が儀礼の本質を語る部分です。
内田氏は、自分たちの日常的なカテゴリーを使っては説明できない場や経験というものがあると述べます。そして、それに対して非日常的なある営みを行うのが儀礼とすると、「この営みが何を意味するのか」と聞かれたときに、基本的にその儀礼の起源を言えないと語っています。つまり、起源が言えないのが儀礼の本質だというのです。言語で儀礼の起源をきちんと説明したり、合理的に儀礼の起源や効果や有効範囲を説明しようとする人がいるけれども、それができたらそれはもう儀礼ではなくなるというのです。この儀礼の定義は、非常に重要な指摘だと思います。
内田氏は、次のように述べています。
儀礼とは『何でこんなことをやるのかわかないにもかかわらず、止めることができ
ないもの』のことでしょう。『意味ないから止めようよ』で止めても誰も困らないものは『儀礼』とは呼びません。『何でこんなことをするの?』『さあ、知りません』『いつから始まったの?』『さあ、ずっと昔からです』『何のご利益があるの?』『さあ、聞いたことありません』・・・というふうに、起源に遡行すると、最後にはすべてが闇の中に消えてしまう。でも存在している。起源をたどることができないけれども、現に存在しているある種の何だかわからないもの。僕はこういうものに対して人間はもっと畏れの気持ちを持つべきだと思います。」
さすがは、内田樹!見事に、儀礼の本質を語っています。
なお、内田氏の対談相手である釈氏も近代社会において儀礼が軽視されてきたことを問題視するとともに、次のように語ります。
儀礼は数値化できないものの代表的なものです。こういう数値化できないもの、計量できないもの、それをもう一回見直してみることで、新たな視点が得られるかもしれません。」
なるほど、まさに儀礼は数値化できない。
昨今の葬式無用論は、葬儀費用の問題ばかり取り上げている観がありますが、費用という数値を超えた世界に葬式の本質があることを忘れてはなりませんね。


2010年3月18日 一条真也

『紙の本が亡びるとき?』

一条真也です。

今日は、東京から北九州へ戻る日です。
『紙の本が亡びるとき?』前田塁著(青土社)を読みました。
早朝に読みはじめ、朝食前には読み終えました。
最近、紙でつくられた書籍が失われるという内容の本が多くなってきました。
本書の冒頭には、「『ライブラリプロジェクト』と『紙の本の終り』、あるいは長い長い前書き」というプロローグが出てきます。
2009年のはじめ、米国グーグル社は日本の全国紙などで告知を行いました。
その内容は、同社の「ライブラリプロジェクト」をめぐって米国内の著作権者の集団、作家組合、出版社、米国出版協会を和解したこと、そして同プロジェクトの効力はアメリカの枠を超えて全世界に及ぶというものでした。
さらに同社は、「グーグルブック検索著作権集団訴訟和解のための和解管理ウェブサイト」を立ち上げています。
「ライブラリプロジェクト」とは、いったい何か?
まず、「グーグル ブック検索」というグーグルが提供するプロジェクトがあります。
それは、登録される書籍の由来によって、「ライブラリプロジェクト」と「パートナープログラム」とに二分されています。
「パートナープログラム」は、著作者あるいは出版社とのあらかじめ合意と契約のもとで電子化が行われるものです。これは問題ありません。
問題なのは「ライブラリプロジェクト」のほうで、これは公共性を理由として一方的に電子化されるというものです。当然、「和解」を必要とします。
日本国内の出版界でも大問題となり、著者であるわたしのもとには、複数の出版社からグーグル社との「和解」についての見解文が送られてきました。
この「ライブラリプロジェクト」によって、これまで情報の器として人類の歴史に大きな役割を果たしてきた「本」がどう変質するかが本書で考察されています。

                   読むことの未来を考える


グーグルは、開放型のデータベースです。それがネットワーク上のすべての情報の取捨と保管を試みるとき、その倫理性はどうなるのか。
著者によれば、それは、承認ないしは切断を放棄した「全体性の維持」と、ユーザーに示される「自由」が担保するというのです。
そして、単純消費者としての「自由」を拡張されたユーザーたちは、ミシェル・フーコーが『知の考古学』で述べた「言説を所有する」欲求にしたがって無数の書物の断片を集めてまわることになります。
著者は次のように書いています。ちょっと長いですが、引用します。
「テキストベースのWEBコンテンツでは、コピー&ペーストによる切断/引用/加工が、Wikipediaでの例をはるかに超えて、日々無数に繰り返されている。ブログやサイトに『引用』される他者の言葉の様々はもちろんのこと、グーグルが検索結果を表示するときの『要約文』(と日本語では表記されるが実際には、該当フレーズの含まれた文の一部という『抜粋』)自体、『承認=切断』を放棄した機械的な切断/引用/加工にほかならない。加えてその裏面ではほとんど公然と、検索入力語句やメールに含まれた語を収集、さらには日本語入力システムを『無償』提供してまで、個々のユーザーと世界全体の日々用いられる語を収集整理しようとするのだから、おそらくは広告表示システムの合理化とそこで得られる利益のためといえどもその欲望はほとんどバベルの塔のそれに近い。」

バベルの塔」という表現は言い得て妙ですね。
バベルの塔」ならば、いつかは神の怒りに触れるのでしょうか。
わたし個人は、グーグルという検索システムには不信感を持っています。
それは、同じ検索システムであるヤフーと比べてみると、ヤフーのほうに安心感がある。
というのは、グーグルで検索したときに上位で拾うものには、得体の知れない匿名ブログの類が多いことです。しかも、きわめて悪意に満ちた誹謗中傷的な内容のものまで平然と拾っている。
きちんとチェックを経た言説である新聞社などのWEB記事よりも、根拠も明らかでない匿名ブログの言説を同等か、それ以上に扱うというのは、わたしには疑問です。一方、ヤフーの場合は、その意味での情報の序列というものがきちんとなされています。
ヤフーというのは、サイトやブログの歴史などを考慮し、それが検索順位に反映されているように思います。いわば、年功序列を取り入れているわけですね。
つまり、ヤフーの検索システムには「礼」がある!
ヤフー・ジャパンの場合はヒューマン・パワーで、グーグルの場合はロボットが検索フレーズを拾うと聞きましたが、やはりロボットの作業には「礼」を感じません。
もちろん、インターネットを使う限りは、グーグルの世話にならずにはいられません。
また、わたしが信頼を寄せるヤフーそのものがグーグルを意識しながら作られていくことも知っています。
それでも、グーグルがヤフーの良い面を取り入れてくれることを願っています。


話が脱線しました。タイトルに惹かれて本書を購入したのですが、「紙の本が亡びるとき」というテーマに言及した部分は最初のほうだけで、後は文芸書の書評が主だったのが少々残念でした。
それでも、文芸雑誌の「群像」が活版印刷からオフセットに切り替わるというニュースを聞いて、著者が最初に思い出したのは、『銀河鉄道の夜』の一場面だったそうです。
著者は、次のように書いています。
「小さな鉛の塊が虫眼鏡で拾われ組みあわさって、時空を旅する物語や、世界の深淵を垣間見せる哲学へと姿を変える、そんな奇蹟を可能とする魔法の棒。左右反転の文字を浮き上がらせた金属体が、紙にわずかなくぼみをつくり、インクの溜まりを並べてゆく・・・・・・六百年近く昔にヨハネス・グーテンベルク活版印刷を生み出して以降、文字通り『刻まれた』文字の足跡を拾いながら、漱石も芥川も太宰も谷崎も中上も、誰もが読んできたのだし、そのような彼らの作品を私たちもまた、同じように読んできたのだ。」
この文章は、亡びゆくものたちに対する美しいオマージュだと思います。
もしかしたら、亡びるかもしれない紙の本。
わたしたちの「こころ」を豊かにしてきたくれた紙の本を支えた活版印刷
活版印刷の発明者として歴史に名を残すグーテンベルク
グーテンベルクからグーグルへ。
わたしたちは、いま、とてつもない時代を生きているのかもしれません。


2010年3月18日 一条真也