『夜行観覧車』

一条真也です。

夜行観覧車湊かなえ著(双葉社)を読みました。
著者は、映画化もされた大ベストセラー『告白』(双葉文庫)で第6回本屋大賞を受賞したことで知られています。本書は、今や「時の人」となった著者の最新作で、「衝撃の『家族』小説」というふれこみです。



                   衝撃の「家族&隣人」小説


本書の帯の裏には、簡単な「あらすじ」が書かれていますので、ネタバレにはならないと思いますが、この小説の冒頭、ある高級住宅地で殺人事件が起きます。
人もうらやむエリート一家で起きたその事件の被害者は父親で、加害者は母親でした。
夫婦には3人の子どもがいましたが、彼らはどのように生きていくのか。
その家族と、向かいに住む家族の視点が、次第に事件の動機と真相を明らかにしていきます。現代の世相を反映した非常に暗い物語ではあるのですが、最後には希望の光のようなものが射し込みます。
正直言って、わたしの予想とは大いに違った小説でした。
わたしは映画「告白」があまりにも救いのない物語でしたので、原作の『告白』はまだ読んでいないのですが、少々この著者のことを誤解していたようです。
わたしは、ある大手出版社の編集者が「『告白』は反社会的な小説。湊かなえが今後どれだけ売れっ子になろうが、自分は絶対に原稿依頼しない」と言っているのを聞いたことがあります。そのとき、映画の印象とも相まって、著者のことを快楽殺人作家というか、アンモラルな題材を好んで取り上げる人ではないかと思っていたのです。



しかし、本書『夜行観覧車』を読んで、それは間違った思い込みであると知りました。
著者は、「悪」を憎む人です。そして、「卑劣」を憎む人です。
事件後、3人の子どものうちの長男である良幸はネットで事件に関するブログを覗いてみます。そこでは、匿名ブロガーたちが面白おかしく、実名で当事者の家族を誹謗中傷していました。著者は、良幸の心中を以下のように書いています。



 空っぽの胃袋から胃液がこみ上げてきた。
 何だ、これは。こいつらはいったい何者なんだ。
 良幸の周囲にもブログをやっている者はいる。映画や音楽の感想とかを日記がわりにね、とそいつは言っていたが、これが日記なのだろうか。ナルシストが駄文を書き連ねているうちに、評論家にでもなったつもりでいるのではないか。
 父親が、母親が、自分の家族が、こいつらに何の迷惑をかけたというのだ。
(『夜行観覧車』第四章「高橋家」より)



人間の「悪」を描かせたら当代一流である著者は、他人を中傷するブログを匿名で書き込むという卑劣な行為こそ現代社会を代表する「悪」であることを見事に暴いています。
そして、本書には、もうひとつ卑劣な行為が登場します。
事件が起こった家に「死ね!」「人殺し!」「恥さらし!」「出て行け!」「一家心中しろ!」といった中傷ビラを貼ったり、石を投げて窓ガラスを割ったりする行為です。
これらの行為に対する深い嫌悪と静かな怒りが、著者の淡々とした文章から滲み出ているように感じました。



本書を読んで、著者は荀子のような人ではないかという感想を持ちました。
そう、孟子と並んで孔子の思想的後継者とされ、「性悪説」を唱えたことで知られる古代中国の思想家です。
孟子は「性善説」を唱え、人間は誰しも憐れみの心を持っていると述べました。
人間は、生まれながら手足を四本持っているように、「仁」「義」「礼」「智」という四つの心の芽生えを備えているのだと述べました。
孟子は「人間の本性は善きものだ」という揺るぎない信念を持っていたのです。



しかし、この孟子性善説では、悪の起源を説明することが困難です。
人間の本性の中に悪の性質がまったくないのであれば、どんな劣悪な環境にあっても、人間が悪を働くことはありえないからです。
孟子の「性善説」に対して、荀子は「性悪説」を唱えました。
荀子いわく、人間は放任しておくと、必ず悪に向かう。この悪に向かう人間を善へと進路変更するには、「偽」というものが必要になる。
「偽」というと「偽造」とか「偽装」などの言葉を連想しますが、本来はけっして「偽り」という意味ではありません。「偽」とは、字のごとく「人」と「為」のことです。すなわち人間の行為である「人為」を意味します。具体的には、礼であり、学問による教化です。なお、この「偽」を排して自然な生き方を提唱した人物こそ、道家の代表とされる老子でした。



よく荀子性悪説は誤解されます。すなわち、悪を肯定する思想であるとか、人間を信頼していないニヒリズムのように理解されることが多いですが、そんなことはまったくありません。荀子性悪説とは、人間は放任しておくと悪に向かうから、教化や教育によって善に向かわせようとする考え方なのです。
人間は善に向かうことができると言っているのですから、性悪説においても人間を信頼しているわけです。ユダヤ教フロイトが唱えた西洋型の性悪説とは、その本質が根本的に異なっているのです。孟子性善説にしろ、荀子性悪説にしろ、「人間への信頼」というものが儒教の基本底流なのです。
とはいえ、人間の主体性を信頼せず、法律で人民を縛る法治主義を唱えた韓非子や李斯といった法家の巨人もまた、荀子の門人でした。
中国を初めて統一した秦の始皇帝は、韓非子や李斯の意見を取り入れましたが、「焚書坑儒」として知られる儒教の大弾圧を行ったことで知られます。
しかし、始皇帝に影響を与えた法家の師である荀子は、漢代において孟子よりも儒教の正統とされたのです。
湊かなえ氏が現代の荀子であるなら、彼女を根底から支えるものは、やはり「法」というものではないかという気がします。



それから、本書のタイトルにもなっている「夜行観覧車」は、まったく本文には登場しませんでした。と思っていたら、最後の最後に、終わりから数行目にところで突如として登場しました。事件の舞台となった高級住宅地の周辺の海の近くに日本一の高さの観覧車ができるというのです。
小島さと子という有閑マダムが、なかなか実家に帰ってきない息子に、その観覧車が完成したら一緒に乗ろうと誘います。さと子は、息子にこう言います。
「長年暮らしてきたところでも、一周まわって降りたときには、同じ景色が少し変わって見えるんじゃないかしら」
なかなか含蓄の深い言葉ですね。



さと子という女性は、いわゆる「お節介おばさん」です。
近所の家庭でトラブルが発生し大声が聞こえてきたときなどは、必ずその家を訪問し、チャイムを鳴らして中の様子を伺います。
そんなお節介は、当然ながら近隣の人々からは疎まれます。
でも、彼女は、この住宅地を誰よりも愛しているのです。
愛する高級住宅地で変な事件などが起こってほしくないのです。
その彼女のお節介が、ある家の悲劇を防ぎ、一人の命を救います。
もちろん彼女の心にあるものは純粋な「隣人愛」などではなく、「住民エゴ」なのかもしれません。でも、彼女の行動が人の命を救ったことも事実なのです。
この自分が住む住宅地に異常なまでの愛着を抱いているさと子なら、老人の孤独死だって、子どもの置き去り死だって、持ち前のお節介で食い止めるでしょう。
つまり、地域社会には「お節介」というものも、ある程度は必要なのではないでしょうか。
わたしは、本書は現代日本を象徴する「家族小説」であるとともに「隣人小説」でもあると思いました。そして、究極のところで人間を信頼している著者の姿に感動しました。
買ったままで読まずにいた『告白』を読んでみたくなりました。


2010年8月14日 一条真也

『告白』(湊かなえ)

一条真也です。

『告白』湊かなえ著(双葉文庫)を読みました。
ブログ「告白」で映画については書きましたが、本書はその原作小説です。
幼いわが子を校内で亡くした中学校の女教師が辞職することになりました。
彼女は、最後のホームルームで次のように告白します。
「愛美は死にました。しかし事故ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」
ここから、犯人の級友、犯人、犯人の家族と、語り手が次々と変わり、彼らはそれぞれの告白をしていきます。

 
                     衝撃の問題作


語り手を変えることで次第に事件の真相を明らかにしていく手法は、著者の最新作である『夜行観覧車』とまったく同じです。
夜行観覧車』では、人間の「悪」を描きながらも最新作のラストには救いの光のようなものがありました。しかし、著者のデビュー作でもある本書は、最後まで何の救いもないまま物語が終わります。
この双葉文庫版の最後には、「『告白』映画化によせて」という映画監督の中島哲也氏のインタビューが収録されています。
そこで、中島氏も本書を初めて読んだ感想を次のように述べています。
「ものすごくスピーディに読めて、とにかくおもしろかったですね。そして、『この作家さんは勇気のある人だなあ』と思いました。最終的になんの救いも解決も示すことなく、バサッと終わらせているところが。」



また、中島氏の次の発言にも大いに共感できました。
「本作は全編モノローグで構成されていますから、一見、全員が自分の真情を吐露しているように見えます。しかし、彼らが真実を話しているという保証なんかどこにもない。そのあたり、湊さんは決定的なことをまったく書いていないんです。最初は単純に、書かれている言葉をなんとなく信用しながら読んでいましたが、再読した時に、『あ、この辺りはうそなんじゃないか』とか、『この人はずっと言い訳しているだけだな』などというが見えてきたんですよ。そういう風に考え始めると、彼らが語る内容のどこが信用できるのか、どの辺は嘘なのかを推理しながら読むことになる。全員がものすごい勢いで『あの時私はこうだった、どうだった』としゃべっているけど、その中には本人がわざと嘘を言ったり、本人すら気づかない嘘がまじっていることもあるわけです。深読みしようとすれば、いくらでもできました。深読みすすぎて収拾がつかなくなったこともありましたが(笑)」
登場人物たちのモノローグによって物語を構成するという手法は、かの芥川龍之介が短編「藪の中」で試みていることです。その「藪の中」を映画化した作品が、カンヌ映画祭でグランプリを受賞した黒澤明監督の名作「羅生門」ですね。
すなわち、湊かなえの小説『告白』は現代の「藪の中」であり、中島哲也の映画「告白」は現代の「羅生門」なのだと気づきました。


ブログ『夜行観覧車』に書いたように、わたしは著者を現代日本荀子ではないかと思います。荀子は「性悪説」を唱え、後の「法家」のルーツとなりました。
おそらくは、著者も「法」というものを信じている人なのではないでしょうか。
本書の第一章「聖職者」で、女教師の森口悠子は、生徒たちに「みんなは少年法を知っていますか?」と問いかけた後、次のように語ります。
「少年は未熟で発達途上にあるため、国が親に代わり最善な更正方法を考えるというもので、私が十代の頃は、16歳未満の少年は殺人を犯しても家庭裁判所が認めれば、少年院に入らずに済んでいました。子供が純真だなんていつの時代の話でしょうか。少年法を逆手にとって、90年代、14、15歳の子供による凶悪犯罪が頻発しました。みんなはまだ2、3歳だった頃ですが『K市・児童殺傷事件』などは知っている人も多いのではないでしょうか?犯人が脅迫状に用いていた名前をあげれば、『ああ、あれか』と思い出す人もいるかもしれません。そういった事件に伴い、世間では少年法改正の論議が盛り上がりました。そして、2001年4月、刑事罰対象年齢を16歳から14歳に引き下げることなどを盛り込んだ、改正少年法が施行されました。」
(一条が漢数字を算用数字に直しました)


第二章「殉教者」では、女生徒の美月は、悠子が話す前から、少年法に疑問を感じていたと手紙で告白します。「H市母子殺害事件」についての報道をテレビで観るにつれ、自己中心的な犯人やそれを必要以上にかばい立てる弁護士の姿に怒りをおぼえ、「裁判なんて必要ないじゃないか、犯人を遺族に引き渡して、好きなようにさせてあげればいいじゃないか」と思うようになったというのです。
でも、教師を辞めた悠子への手紙を書きながら、美月の考え方は変わりました。
彼女は、次のように書いています。
「やはり、どんな残忍な犯罪者に対しても、裁判は必要なのではないか、と思うのです。それは決して、犯罪者のためにではありません。裁判は、世の中の凡人を勘違いさせ、暴走させるのをくい止めるために必要だと思うのです。」



勘違いして暴走した犯罪者といえば、悠子は最後のホームルームにおいて、生徒たちに「T市・一家五人殺害事件」の話をしました。夏休みに、犯人は家族の夕食に薬品を少量づつ混入し、それぞれの症状を毎日ブログに書いていました。
自分の想像よりも症状が軽いことに不満を抱いた犯人は、学校の化学室から盗んだ青酸カリを夕食のカレーに混入し、両親、祖父母、小学4年生の弟を殺したのです。
犯人は中学1年生で、当時13歳の長女でした。彼女は「ルナシー」という仮名を使って匿名ブログを書いていましたが、そこに書き込まれた最後の文章は、「なんだかんだ言っても、結局、青酸カリが一番効果アリ!」というものでした。
悠子は、この「ルナシー事件」に対するマスコミの報道に大きな疑問を感じ、次のように言います。ちょっと長いですが、大切な部分ですので、引用します。



この事件の報道は一部の子供の心の闇に、ルナシーという人間味をまったく感じさせない猟奇的犯罪者の存在を植え付けただけ、愚かな犯罪者を崇拝する哀れな子供たちを煽っただけ、なのではないでしょうか。私は、未成年だからといって顔写真も名前も公表しないのなら、犯人が調子に乗ってつけた名前も公表しなければいいと思います。ブログでルナシーと名乗っていたとしても、実名を少年A、少女Aと表すのなら、その部分もモザイクをかけて、ヌケ作だのノグソだの、みっともない仮名をつけてやればいいのです。K市の児童殺傷事件もわざわざ直筆のあんな署名を公開しなくても、「普通の名前に調子に乗った当て字をしています。難しい漢字が書けることを自慢したいのですかねえ」などと鼻で笑ってやればよかったのではないかと思います。ルナシーと名乗る少女、みんなはどのような容姿を想像しているのでしょうか?冷静に考えてみてください。美少女が自らルナシーなどと名乗るでしょうか?顔写真を公表しないのなら、鼻の下の線や笑い皺を太い線でくっきりと書いた、悪意のある似顔絵でも公表してやればいいのです。思い切り、人間臭さを表してやればいいのです。特別扱いすればするほど、大袈裟に騒げば騒ぐほど、犯人である少年少女たちは自己陶酔していくのではないでしょうか。そして、それに憧れる愚かな子供たちが増えていくのではないでしょうか。最初から未成年が犯人とわかっているのなら、事件を最小限に取り上げ、自己陶酔する子供の愚かしさを、勘違いも甚だしいとたしなめてやるのが大人の役割ではないでしょうか。犯人の少女は児童自立支援施設かどこかで作文でも書いていれば、数年後、何食わぬ顔をして社会に復帰してきます。(『告白』第一章「聖職者」より)



わたしは、この文章ほど、勢いがあり、正論で、しかも爽快感のある文章を知りません。
こんな文章を一気に書ける湊かなえの才能は驚くべきだと思います。
そして、わたしも誤解していたので偉そうなことは言えませんが、この著者ほど正義感の強い人はいないのではないでしょうか。
特に、匿名ブロガーなどの卑怯者に対しての怒りを強く感じます。
本名なのかペンネームなのかは知りませんけど、著者は「湊かなえ」という名前を堂々と出して、これだけの問題作を世に問うている人です。これだけ物議を醸した小説も最近では珍しいですから、著者には相当の覚悟があるのだと思います。
おそらくは、心ない批判や中傷もたくさん浴びたことと思われますが、それでも正々堂々と文章を発表しているわけです。そんな著者には、仮面をかぶったまま、だらだらと素人の駄文を書き連ね、いっぱしの作家気取り、評論家気取りになっている匿名ブロガーという卑怯な者どもが許せないのではないでしょうか。
わたしは、著者の考え方を全面的に支持します。
現代の日本にとって、湊かなえは必要な作家であると確信します。


2010年8月14日 一条真也