『日本一心を揺るがす新聞の社説』

一条真也です。

『日本一心を揺るがす新聞の社説』水谷もりひと著(ごま書房新社)を読みました。
「それは朝日でも毎日でも読売でもなかった」とのサブタイトルがついています。
発行部数1万部という「みやざき中央新聞」の人気社説を集めた本です。
読者数も1万人なら、社説に感動して涙した人も1万人だそうです。


              それは朝日でも毎日でも読売でもなかった


本書には、同紙の編集長である著者が、多くの講演や日々のニュースに対して限られた文章に想いを込めて書いた社説41編を収められています。著者は、かつて大学の先生から「お宅の新聞の社説は、社説じゃない。哲学がない」と酷評されたそうです。
人間の心には、「知・情・意」という3つの機能があります。
「知」は知性、「情」は情感、「意」は行動を起こす意思とされています。
著者は、「哲学とは、これらのうち人間の知性に訴えるもの」だと気づきます。
行動を起こすのは「意思」であり、その「意思」に大きな影響を与えるのは思想です。
市民活動や社会運動には「われわれは正しいことをやっている」という誇りとともにある思想がバックボーンにあることにも気づきました。
最後に残ったのは「情」です。著者は、「元来、情報とは情感を刺激するものだから『情報』なのである。情報を得て、何を知ったかではなく、何を感じたかが大事なのだ。だから情報は、報道の『報』も上に『情け』を乗せている。『情け』とは人間味のある心、思いやり、優しさ、情報は常に『情け』を乗せて発信したい」と述べ、「ジャーナリズムは『知』ではなく「情」を愛する媒体でいいと思う」と言い切ります。



「情報」のとらえ方については、わたしも以前から発言してきました。
もう何十年も前から「情報化社会」が叫ばれてきましたが、疑いもなく、現代は高度情報社会そのものです経営学ピーター・ドラッカーは、早くから社会の「情報化」を唱え、後のIT革命を予言していました。ITとは、インフォメーション・テクノロジーの略です。ITで重要なのは、もちろんI(情報)であって、T(技術)ではありません。その情報にしても、技術、つまりコンピュータから出てくるものは、過去のものにすぎません。
ドラッカーは、IT革命の本当の主役はまだ現われていないと言いました。
それでは、本当の主役、本当の情報とは何でしょうか。
日本語で「情報」とは、「情」を「報(しら)」せるということ。
情はいまでは「なさけ」と読むのが一般的ですが、『万葉集』などでは「こころ」と読まれています。わが国の古代人たちは、こころという平仮名に「心」ではなく「情」という漢字を当てました。求愛や死者を悼む歌で、こころを報せたものが『万葉集』だったのです。
すなわち、情報の「情」とは、「心の働き」に他なりません。
本来の意味の情報とは、心の働きを相手に報せることなのです。
では、心の働きとは何か。それは、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といったものです。
真の情報産業とは、けっしてIT産業のことではありません。
読者を感動させる社説が載っている新聞を発行することも立派な情報産業なのです。



たとえば、本書のカバー折り返しには次のような社説の一部が紹介されています。



今年の6月のある日のこと、小学校1年生の三女、こはるちゃんが学校から帰ってくるなり、嬉しそうにこう叫んだ。「お父さ〜〜ん、今日の宿題は抱っこよ!」
何と、こはるちゃんの担任の先生、「今日はおうちの人から抱っこしてもらってきてね」という宿題を出したのだった。
「よっしゃあ!」と、平田さんはしっかりこはるちゃんを抱きしめた。
その夜、こはるちゃんはお母さん、おじいちゃん、ひいおばあちゃん、2人のお姉ちゃん、合計6人と「抱っこの宿題」をして、翌日、学校で「抱っこのチャンピオン」になったそうだ。
数日後、平田さんはこはるちゃんに聞いてみた。
「学校のお友だちはみんな抱っこの宿題をしてきとったね?」
するとこんな悲しい答えが返ってきた。「何人か、してきとらんやった。」
でも、世の中、捨てたもんじゃない。次に出てきた言葉に救われた。
「だけん、その子たちは先生に抱っこしてもらってた」
ステキな先生だなぁと思った。
(「抱っこの宿題」、忘れんでね!)



また、本書の冒頭「感謝 勇気 感動の章」には、次のようなエピソードが・・・・・。



食肉加工センターの坂本さんの職場では毎日たくさんの牛が殺され、その肉が市場に卸されている。牛を殺すとき、牛と目が合う。そのたびに坂本さんは、「いつかこの仕事をやめよう」と思っていた。
ある日の夕方、牛を乗せた軽トラックがセンターにやってきた。しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。坂本さんは不思議に思って覗いてみると、10歳くらいの女の子が、牛のお腹をさすりながら何か話し掛けている。その声が聞こえてきた。
「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ……」
坂本さんは思った、「見なきゃよかった」
女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。
「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。ばってん、みいちゃんば売らんと、お正月が来んとです。明日はよろしくお願いします…」 
「もうできん。もうこの仕事はやめよう」と思った坂本さん、明日の仕事を休むことにした。
家に帰ってから、そのことを小学生の息子のしのぶ君に話した。
しのぶ君はじっと聞いていた。
一緒にお風呂に入ったとき、しのぶ君は父親に言った。
「やっぱりお父さんがしてやってよ。心の無か人がしたら牛が苦しむけん」
(心を込めて「いただきます」「ごちそうさま」)



その他、わたしも感動した映画を取り上げた「映画『山の郵便配達』に観た親子の絆」、口蹄疫の真実を描いた「殺さなければならなかった理由」、そして最後に紹介されたエピソード「心残りはもうありませんか」も良かったです。
有名な人、無名な人、いろんな人が出てきますが、さまざまな人生が織り成す「ちょっといい話」がたくさん詰まった1冊です。読んでいると、なぜかポカポカ温かくなってきます。きっと、「こころの風邪薬」とは、こういう本のことなのでしょうね。


2011年5月2日 一条真也

日本よ、中国よ

一条真也です。
今朝の「産経新聞」に、東京都知事で作家の石原慎太郎氏の「日本よ」が掲載されています。今回は「国家再生のために」という題で、大変興味深いことを述べられています。


                  「産経新聞」5月2日朝刊


この手記は、まず次のような書き出しで始まっています。
「『日本よ!』、と天が呼びかける声が聞こえるような気がする。私たちは今回の東日本大震災をどう受け止めるべきなのだろうか。この出来事を国家覚醒の大きなきっかけとして捉えなければ、この未曾有の犠牲が報いられることはあり得まい」
そして、石原氏は次のように訴えるのです。
「享受してきた平和と安寧なるものが危機に晒されている今、被った被害の復元に努めるだけではなしに、私たちはもっと根源的なものへの反省と修復を志すべき時に至ったのではなかろうか」



東日本大震災への想いからはじまった手記は、次第に「無縁社会」などと呼ばれた日本社会へと視点が移ってゆきます。
2010年の夏、東京都足立区において信じられないような事件が発生しました。
生存していれば111歳となる男性の白骨死体が発見されたのです。
その後、連日のように全国の自治体などの公共機関において表彰対象となる高齢者の行方不明事例が相次いで報道されました。
当時、石原氏は「金のために親を見捨て弔いもしない。(日本人は)落ちるところまで落ちた」と発言されたことを憶えています。
今回の手記でも、その事件に触れ、次のように述べています。
「自分を産み育ててくれた父親の弔いもせずに三十年間も放置してミイラ化させ、その年金を詐取してはばからなかった家族なるものはこの日本以外には存在し得ぬ人種に違いない。多くの日本人の芯における堕落をこれほど象徴した事例を私は知らないあの事件が発覚した前後にテレビで見たアフリカ象に関する番組では一族の長老の死に臨んで一頭々々子象までが長い鼻で死骸に触れて別れを告げる象たちの姿が映しだされていたが、畜生ですら行う親族への弔いもせずに放置する者たちに人間としてのいかなる資格があるというのだろうか」



この発言は、まさに石原氏による「葬式は必要!」宣言に他なりません。
じつは、わたしは石原氏は『葬式は、要らない』という本を出した出版社の社長と非常に親しいことから、もしかして葬式無用論者なのかなと秘かに思っていました。
しかし、この発言で、紛れもなく葬式必要論者であることを知り、安心した次第です。
できれば、石原氏は子分である出版社社長に対して、「こんな本を出版して、日本人を惑わしちゃダメじゃないか!」と叱っていただきたいです。
また、「畜生ですら行う親族への弔いもせずに放置する者たちに人間としてのいかなる資格があるというのだろうか」という言葉には強い憤りが込められており、圧倒されました。ここで、石原氏は明らかに「人の道」について語っています。


                  「産経新聞」5月2日朝刊


親族への弔いをせずに放置する者は「人の道」に外れた人間失格者だと説いたのは古代中国で生まれた儒教です。その思想的核心は「礼」の一文字で表されますが、ここでいう「礼」とは「葬礼」から発したものです。
儒教ほど葬儀というものを重んじる宗教はありません。
そして儒教を開いたのは、葬送儀礼に関わる巫女であった母を持つ人でした。
その人の名は、孔子といいます。詳しくは、ブログ『孔子伝』を御覧下さい。
その孔子についての記事も、同じ「産経新聞」に出ていました。



今年1月、中国の北京・天安門広場の東側にある中国国家博物館前に孔子像が設置されました。それは、高さが9・5メートルもある巨大なものでした。
ブログ『論語力』にも書いたように、現代の中国では孔子の再評価が急速に進んでいますが、それを象徴するようなモニュメントの設置となりました。
ブログ「礼とは何か」で書いたように、もともと「礼」とは中国で生まれた思想ですが、今の中国は世界一「無礼」で「非礼」で「失礼」な国だとされています。それが巨大孔子像の登場によって、中国でも「礼」の大切さが見直されるだろうと楽しみにしていました。
しかし、その孔子像が4月下旬に突然撤去されたそうです。
直後、孔子の評価をめぐって、インターネットで激しい論争が起こりました。
孔子を否定した人物といえば、文化大革命で「批林・批孔運動」を仕掛けた毛沢東が有名です。孔子像撤去の背景には毛沢東への配慮が見られるとともに、共産党上層部の権力闘争が絡んでいるのではないかという臆測も呼んでいるとか。いずれにせよ、せっかく「新しい中国」の良きシンボルであったのに、まったく残念なことです。


                    黄砂の中の小倉の街


中国といえば、いま、北九州に中国からプレゼントが届いています。そう、黄砂です。
ブログ「黄砂は公害」にも書きましたが、黄砂は、中国大陸の砂漠地帯で巻き上げられた砂の粉塵とされています。それが偏西風に乗って中国の工業地帯のスモッグを通過する際に、硫黄酸化物、窒素酸化物、水銀といった「大気汚染物質」を吸着します。
そうなると、もう黄砂というよりも、健康に悪影響を与える「毒砂」と呼ぶべきでしょう。
わたしも頭痛がしたり、空咳が出たりします。黄砂喘息という病気もあるそうです。
北九州は大陸に近いので、昔から黄砂は流れてきていました。
しかしながら、ここ数年は特にひどいような気がします。
まさに「礼」を失した国からの、とんでもないプレゼントです。有害な黄砂は、単なる自然現象ではなく、光化学スモッグを含んだ中国の公害です。まさか、「日本も放射能を垂れ流したのだから、黄砂ぐらい構わないだろう」というわけではないでしょうが・・・・・。
日本政府あるいは北九州市は、ぜひ中国政府に対して抗議していただきたい。
公害の被害については、市民レベルでもネットなどで積極的にアピールすべきです。


2011年5月2日 一条真也