『おじいちゃん戦争のことを教えて』

一条真也です。

今日は、66回目の終戦記念日です。
政府主催の「全国戦没者追悼式」が日本武道館で開かれ、天皇・皇后両陛下と菅直人首相、遺族や政府関係者らが参列する予定です。そこで、戦争の犠牲になった約310万人(軍人・軍属約230万人、民間人約80万人)の冥福を祈ることになっています。
今朝、戦争を考えるために、素晴らしい名著を再読しました。
『おじいちゃん戦争のことを教えて』中條高紱著(致知出版社)という本です。


               「戦争」と「日本」を知らない日本人へ


著者はアサヒビールの名誉顧問で、社団法人日本国際青年文化協会の会長です。
それは、著者のもとにニューヨークの高校に通う孫娘から舞い込んだ一通の分厚い手紙から始まりました。学校でやっている歴史教育の課題で、かつて軍人を志した「おじいちゃん」、つまり著者から戦争体験を聞きたいというのでした。
かつて敵国だった国の人間の戦争体験を教材にして歴史意識を深めさせようとする態度に、アメリカの持つしなやかさと強靭さと底力を見たように思い、戸惑いまがらも、著者は愛する孫娘のために真摯に戦争と自らの人生を赤裸々に語ります。
戦時中の詳しい内容は、実際に本書をお読みいただきたいと思います。 



著者は、孫娘をはじめとした若い世代に大切なことを語ります。
終戦直後、アメリカが目指した精神的「カルタゴの平和」によって、日本の精神文化は崩壊した。自分たちの歴史を否定することによって、文化や伝統までも忘却した。
そして、日本人は日本人であることに誇りが持てなくなり、心はがらん洞になった、と。 



「21世紀は心の時代だ」と言い方があちこちで聞かれます。
しかし、マスコミでいわれる「心の時代」の「心」と、著者のいう「心」は違います。
それは、決して一般的な「心」ではありません。
それは、もっと限定された、明確な概念を持った「心」なのです。
著者は、次のように孫娘にやさしく語りかけます。
「それは、日本人としての心、日本の心だ。長い歴史のなかで積み重ね、伝統とともに培い、文化を育てた日本人ならではの心。21世紀はその心がしっかりと根づいている時代にしなければならない」



歌にもなった「戦争を知らない子供たち」という言葉がよく使われます。
昭和38年生まれのわたしも、もちろん「戦争を知らない子供たち」の1人です。でも、本書は「戦争」だけでなく、「日本」も知らない、すべての日本人に読んでほしい本です。
現在は小学館文庫からも出ていますが、わたしは致知出版社の単行本で読みました。


2011年8月15日 一条真也

『子々孫々に語りつぎたい日本の歴史』

一条真也です。

終戦記念日である本日の正午、家族全員で1分間の黙祷をしました。
先の戦争で亡くなられたすべての方々の御冥福を心よりお祈りいたします。
さて、ブログ『おじいちゃん戦争のことを教えて』で紹介した名著に続き、終戦記念日にふさわしい本をもう1冊読みました。
『子々孫々に語りつぎたい日本の歴史』中條高紱・渡部昇一著(致知出版社)です。


              日本の過去を知り、日本の未来を考える


憂国の想いを抱く2人が、すべての日本人に正しい歴史認識の必要性を訴えます。
渡部氏いわく、「日本人は東京裁判という裁判にもならない裁判(これは今日の国際法学会の定説になっているそうである)の呪縛から解き放たれるべき時が来たと思う」
中條氏いわく、「護憲、論憲、加憲などと勝手な論議で国民を欺き、荏苒(じんぜん)時を過ごすことは許されないところに国は追い込まれている」
2人の強烈な危機感を前に、最初は読んでいるこちらも息苦しく、険しい顔になります。
しかし、読んでいるうちに次第に明るい展望が開けてきます。



最後の部分になって、渡部氏は、日本という国は神話時代から続いている唯一の王朝のある国であり、桁外れに誇りを持てる国だと述べます。
また、他の国からいろんな文明を入れながらも、あくまで肥やしとして使っているといいます。日本文明を神社が守り、日本化した仏教と神道が共生し、さらにその集大成としての皇室があるというのです。



中條氏は、もっと日本中に木を植えて緑を豊かにしようと呼びかけます。
花いっぱいの緑いっぱいの国にしたら、これが実質的な平和論になるのではないかというのです。緑豊かな美しい国に住んでいる民族が礼儀正しくて、言葉も正しくて、そして生活環境もいいとしたら、そんな国を攻める国は世界中から非難される。これが一つの大きな防衛論になると提言するのです。
このユニークな防衛論に、わたしは非常に感銘を受けました。
本書は、日本の過去を知り、日本の未来を考える名著だと思います。
終戦記念日にあわせて、『おじいちゃん戦争のことを教えて』『子々孫々に語りつぎたい日本の歴史』と2冊続けてご紹介しましたが、いずれも「人間学」を追求する致知出版社から刊行されています。わたしは、かつて『面白いぞ人間学』という読書案内の本を同社から上梓しましたが、これはそのまま致知出版社の名著ガイドにもなっています。
もちろん、『おじいちゃん戦争のことを教えて』や『子々孫々に語りつぎたい日本の歴史』も登場します。興味のある方は、ぜひ一読されてみて下さい。


                  人生の糧になる101冊の本


2011年8月15日 一条真也

黙祷とは何か

一条真也です。

本日の正午、戦没者の方々の御冥福を祈って、家族で1分間の黙祷をしました。
日本武道館で行われた「全国戦没者追悼式」でも、6000名以上で黙祷しました。
甲子園で熱戦を繰り広げる高校球児たちも、帽子を取って黙祷しました。
考えてみれば、黙祷というのは非常に興味深い行為ですね。


                    甲子園球場での黙祷


目をつむって声を立てずに祈る黙祷。
黙祷をする人は、心の中で何かに語りかけたりもします。
また、自分の気持ちを見つめて整理する内証を行ったりします。
日本では黙祷は弔意の行為であるとされています。
そして、最も多くの日本人が黙祷を捧げる日こそ、8月15日の終戦記念日でしょう。



フリー百科事典「Wikipedia」によれば、「黙祷」という言葉は古くは中国の唐代の韓愈の詩に見られ、「潜心默禱若有応 豈非正直能感通」という言葉が出てくるそうです。
日本では、室町時代の『文明本節用集』に出てくるのが最も古い例で、江戸時代最大のベストセラーである滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』にも登場します。
実際に黙祷が行われた記録というのは意外に新しく20世紀のことです。
1919年11月11日11時、イギリスでは第1次世界大戦の戦没者に対する黙祷(silent prayer)が行われました。ジョージ5世の発案だったそうです。
その翌年である1912年(大正元年)9月13日に明治天皇の「大喪の礼」が行われました。その際、『明治天皇紀』には「市民一斉に黙祷し」と書かれています。
しかし日本国内で黙祷が普及したのは、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災以降だとされています。発生の1年後にあたる1924年(大正13年)9月1日に東京にて慰霊祭が行われました。その慰霊祭において、地震発生時刻の午前11時58分にあわせて1分間の黙祷をする催しが行われました。
このとき、事件・事故・災害の発生時刻に合わせて黙祷をするという風習が日本で生まれたとされています。これ以後、毎年9月1日の同時刻に関東大震災の黙祷が行われました。また、他の事件・事故・災害などについても発生日の祥月命日の同時刻に黙祷をする習慣が全国的に広まったのです。
わが社でも、8月9日の「長崎原爆の日」などに社員全員で黙祷を捧げています。


                    社員全員での黙祷


さて、黙祷とは何でしょうか。まず、それは死者に対する礼です。
生者は、黙祷によって死者を尊重していることを表現するのです。
宗教儀式のようでもありますが、特定の宗教には限定されません。
このため、特定の宗教や宗派に依存しない儀式の際には、参加者それぞれの信仰に関係なく祈るという様式において用いられることが多いのです。



次に、黙祷とは死者の存在を再確認することです。
生者と死者の関係を考えた人物に、神秘哲学者のルドルフ・シュタイナーがいます。
彼は人智学という学問の創始者として知られていますが、よく「人智学を学ぶ意味は、死者との結びつきを持つためだ」と語ったそうです。 
死者と生者との関係は密接であり、それをいいかげんにするということは、わたしたちがこの世に生きることの意味をも否定することになりかねないというのです。



わたしたちは、あまりにもこの世の現実に関わりすぎているので、死者に意識を向ける余裕がほとんどありません。それどころか、この世に生きている者同士の間でも、他人のことを考える余裕がないくらいの生活をしています。けれども、そうかといって、それでは自分自身とならしっかり向き合えているかというと、そうでもありません。
ほとんどの人は、完全に内に向いているわけでもなく、外の社会に適応しようとしているにもかかわらず、他者に対する関係も中途半端なままに生活している状態でしょう。
死者と自分との関係がほとんど意識できなくなってしまった時代状況の中で、シュタイナーは、人智学を発表しなければならないと感じました。
それによって、この世の人間があの世の人間と再び結びつきをもてるようになれば、そのとき初めて、現代文化の改革さえ可能になると考えたようです。
それでは、どうしたら、この世の人間は死者との結びつきを持てるのでしょうか。そういうことを考える前に、まず言えるのは、死者が現実に存在していると考えない限り、その問題は解決しないということです。



シュタイナーは多くの著書や講演で、「あの世で死者は生きている」ことを繰り返し主張しました。彼は、こう言いました。今のわたしたちの人生の中で、死者たちからの霊的な恩恵を受けないで生活している場合はむしろ少ないくらいです。ただそのことを、この世に生きている人間の多くは知りません。そして、自分だけの力でこの人生を送っているように思っています。シュタイナーによれば、わたしたちが死者からの霊的恩恵を受けて、あの世で生きている死者たちに自分の方から何ができるのかを考えることが、人生の大事な務めになるのです。



さらに、黙祷とは目を閉じる行為です。
わたしは、このことからサン=テグジュぺリの『星の王子さま』に出てくる有名な言葉をいつも連想します。それは、「本当に大切なことは目には見えない」という言葉です。
この言葉にはさまざまな解釈が存在します。
まず、愛、思いやり、まごころ、信頼・・・この世には、目に見えなくても存在する大切なものがたくさんあり、逆に本当に大切なものは目に見えないのだという解釈があります。
また、それは哲学者プラトンのいう「イデア」のことではないかという意見もあります。
イデアとは、わたしたちが目で見ている現実の世界の向こう側にある理想の世界のことです。プラトンは、イデアの世界こそ真実の世界であり、わたしたちが見ている現実の世界はイデアの影にすぎないと考えました。
「本当に大切なこと」という言葉はフランス語では「エッサンシエル」、英語だと「エッセンシャル」です。つまり、「本質的なもの」という意味になります。
目には見えない大切なものとは、すなわちイデアのことかもしれません。
目では見えないけれども、魂でなら見ることができる。
もしかしたら、黙祷とは魂でイデアを見るための方法なのかもしれません。
今日、戦没者の方々へ黙祷を捧げながら、そんなことを考えました。


                   黙祷について考えました               


2011年8月15日 一条真也