『雪男は向こうからやって来た』

一条真也です。

『雪男は向こうからやって来た』角幡唯介著(集英社)を読みました。
著者は、1976年北海道生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業ということで、わたしの後輩に当たります。また、早大探検部のOBということで、辺境作家にしてUMAハンターの高野秀行氏の後輩に当たります。


謎の生き物とそれを追う人間たちの真正面ドキュメント!



本書の帯には、以下のように書かれています。
「デビュー作『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』で、2010年第8回開高健ノンフィクション賞、2011年第42回大宅壮一ノンフィクション賞、2011年第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。気鋭の探検作家が放つ受賞第一作!」
「2012年第31回新田次郎賞受賞! 祝」
「謎の生き物とそれを追う人間たちの真正面ドキュメント!」



また帯の裏には、次のような内容紹介があります。
「いったいソイツは何なのだ? なんでそんなに探すのだ? 
2008年10月22日、われとわが目を疑った人は、日本中に大勢いたに違いない。『ヒマラヤに雪男? 捜索隊が足跡撮影、隊長は“確信”』の見出しとともに、雪男のものとされる足跡の写真が新聞を飾った。まさに、それを撮った捜索隊に加わり、かつて雪男を目撃したという人々を丹念に取材した著者が、厳しい現場に再び独りで臨んでえぐり取った、雪男探しをめぐる一点の鋭い真実とは?」



本書の「目次」は、以下のようになっています。
「プロローグ」
第一章:捜索への正体(2008年3月17日 日本)
第二章:シプトンの足跡
第三章:キャラバン(2008年8月17日 カトマンズ
第四章:登山家芳野満彦の見た雪男
第五章:密林(2008年8月26日 アルチェ)
第六章:隊長高橋好輝の信じた雪男
第七章:捜索(2008年8月30日 タレジャ谷)
第八章:冒険家鈴木紀夫だけが知っている雪男
第九章:撤収(2008年9月26日 コーナボン谷)
第十章:雪男単独捜索(2008年10月15日 ポカラ)
「エピローグ」



著者は大学卒業後、朝日新聞社に入社しますが、08年に退社します。
同じ年にネパール雪男捜索隊隊員となるのですが、本書はそのときからの長期取材によって書かれました。雪男といえば、早大探検部の先輩である高野秀行氏もブータンで雪男探しに挑みました。しかし、ブログ『未来国家ブータン』に書いたように、高野氏は本気で雪男の存在を信じていなかった感があります。
その点、本書の著者である角幡唯介氏の立場はちょっと違います。
著者は、「雪男の存在に触れることは、ある意味で恐ろしいことだった」といいます。もし本当に雪男の痕跡を見つけ、その存在を本気で信じてしまったら、その後の人生にいかなる展開が待ち受けているのかと考えてしまうというのです。
「プロローグ」で、著者は次のように書いています。
「わたしは論理的なものの考え方をする質の人間なので、たとえこの目で何かを見たとしても雪男のような非論理的な存在を容易に受け付けることはないだろう。だが、雪男には見た者を捉えて離さない魔力があるらしく、わたしのそのようなつまらぬ良識など吹き飛ばしてしまうかもしれない。足跡を見ることによって、自分の人生が予想外の方向に向かうことは十分考えられた。例えば、アルバイトで細々と資金を貯め込み、毎年双眼鏡を片手にひとりでヒマラヤの山中にこもるというような人生。世間から浴びる、ともすれば嘲笑的な視線。もしくは滑稽な人間という不本意な烙印。自分はそういう人生を望んでいるのだろうか。たぶん望んではいないだろう。しかしそうなる可能性もないとはいえない。それが雪男というものなのだ。足跡を期待する反面、わたしはそれを確認することに変なためらいも感じていた。二律背反的な奇妙な感覚・・・・・。
雪男の足跡を見てしまうのが、わたしは怖かった」



本書には、数多くの文献や雑誌記事などの引用があります。
著者は、雪男探しの先達たちの証言を丁寧に紹介してくれます。
それにしても、世界的な登山家たちの多くが雪男を目撃していたという事実には驚かされました。今井通子田部井淳子といった人々をはじめ、雪男の目撃者は他の未確認生物に比べて信用できそうな人が多いです。
そう、インチキくさい怪獣やエイリアンの目撃者とは信用度が違うのです。
特に、冒険家の故・鈴木紀夫などは、フィリピンで旧日本兵の小野田さんを発見した人です。その晩年は雪男探索に情熱を注いだそうですが、彼の死の真実というか「最期」に関する著者の考察には感銘を受けました。



雪男の正体については、さまざまな説があります。
ネアンデルタール人の生き残り、ゴリラ、ヒグマ、ユキヒョウカモシカなどなど。
雪男の捜索を終えた著者の雪男に対する認識はどうなっているのでしょうか。
著者いわく、捜索に参加する以前の、雪男がいるとは考えにくいという常識的なものに再び戻りつつあるとして、次のように述べます。
「捜索に関わったひとりとして、わたしがそう思う根拠を挙げてみよう。わたしは生物生態学や古人類学、動物学、サル学、植物学などに関しては素人で、ここに述べるのは専門的な見地からではなく、あくまで捜索現場の印象をもとにした個人的な感想に過ぎない。そのような立場から、わたしが雪男の存在を肯定しにくい最大の根拠は、ある種の解釈の問題につきると言える。足跡にしろ、雪男の目撃談にしろ、これまで報告されたほとんどの雪男現象は、客観的には、例えばカモシカやクマといった従来の四足動物の見間違えで説明できてしまう気がするのだ。それらの報告が四足動物のものかどうかは不明であり本当に雪男のものかもしれないが、ここでわたしが言いたいことは、雪男の正体がカモシカやクマなどの四足動物であるということではなく、カモシカやクマなどの四足動物でその現象を説明しても説得力を持ち得るという点にある」



この文章を読んだだけでも、著者が非常に論理的な思考をする人物であることがよくわかります。でも、常識的な考えに戻りつつあるという著者は、こうも書いています。
「しかしわたしは、現在のところまでのこの差し当たっての自分の結論が、何かを体験したら一瞬で吹き飛んでしまうガラス細工程度の強さしか持ち合わせていないことも分かっている。それらしい推論など事実の力強さの前には常に無力だ。わたしは事実を知らないので推論に頼らざるを得ないだけなのだ」



そして、最後に著者は次のように述べるのです。
「わたしは自分が行った捜索や客観的な目撃談、あるいは足跡の写真の中に雪男の論理的な存在を認めることはできなかった。
わたしは雪男の存在を、実際の捜索現場ではなく、接した人の姿の中に見たのだ。
考えてみると、彼らとて最初から雪男を探そうとか、死ぬまで捜索を続けようとか思っていたわけではなかった。さまざまな局面で思ってもみなかったさまざまな現象に出くわしてしまい、放置できなくなったのが雪男だった。人間には時折、ふとしたささいな出来事がきっかけで、それまでの人生ががらりと変わってしまうことがある。旅先で出会った雪男は、彼らの人生を思いもよらなかった方向に向けさせた。そこから後戻りできる人間はこの世に存在しない。その行きずりにわたしは心が動かされた。
雪男は向うからやって来たのだ」



『雪男は向うからやって来た』という書名について、わたしはてっきり未確認動物としての雪男が雪山の向こうから二本足で歩いてこちらにやって来たという意味だと思っていましたので、この一文には「うーん」と唸りました。
良く言えば含蓄のあるタイトルですが、悪く言えば確信犯的な勘違いの誘発。
しかし、秘境ともいえる山の奥に入り、未知の生物についての思いをめぐらせる著者は、この上なく哲学的であったと思います。彼の思考は雪男の実在など超えて、おそらくは「存在とは何か」といったレベルにまで達していたのではないでしょうか。
わたしは、矢作直樹氏、稲葉俊郎氏という2人の山男を知っています。両氏とも東大病院の医師にして、人間の「こころ」の秘密を見つめる哲学者でもあります。
昔から山男に対して、「なぜ、山に登るのか」という質問があります。
それに対して、「そこに山があるから」という答えが有名ですが、おそらくは「人間とは何かを知るため」ということもあるのではないでしょうか。
わたしは山男ではありませんので、本当のところはわかりませんが・・・・・。
最後に、矢作先生、稲葉先生にも、ぜひ本書を読んでいただきたいと思います。



2012年8月28日 一条真也

『映画は父を殺すためにある』

一条真也です。

『映画は父を殺すためにある』島田裕巳著(ちくま文庫)を読みました。
これまで、このブログで著者の本を何冊か紹介してきました。正直言って批判した本もありましたが、本書はまことに読み応えのある好著でした。


通過儀礼という見方



サブタイトルは「通過儀礼という見方」で、帯には「ローマで王女は何を知った? 寅さんは、実は漱石だった?」と書かれています。
またカバー裏には、次のような内容紹介があります。
「映画には見方がある。“通過儀礼”という宗教学の概念で映画を分析することで、隠されたメッセージを読み取ることができる。日本とアメリカの青春映画の比較、宮崎映画の批判、アメリカ映画が繰り返し描く父と息子との関係、黒沢映画と小津映画の新しい見方、寅さんと漱石の意外な共通点を明らかにする。映画は、人生の意味を解釈する枠組みを示してくれる」



本書の「目次」は、以下のようになっています。
「予告編」
1.『ローマの休日』が教えてくれる映画の見方
2.同じ鉄橋は二度渡れない――『スタンド・バイ・ミー』と『櫻の園
3.『魔女の宅急便』のジジはなぜことばを失ったままなのか?
4.アメリカ映画は父殺しを描く
5.黒澤映画と小津映画のもう一つの見方
6.寅さんが教えてくれる日本的通過儀礼
「総集編」
「文庫版あとがき」
「掲載映画一覧」
解説「僕の通過儀礼、そして再会」(町山智浩



本書で、著者は映画のテーマとは通過儀礼に他ならないと主張します。
通過儀礼」という概念は、ブログ『通過儀礼』で紹介したアルノルド・ヴァン・ジェネップによって使われました。同書は、1909年にパリで書かれた儀礼研究の古典的名著です。誕生、成人式、結婚、葬式などの通過儀礼は、あらゆる民族に見られます。
ジェネップは、さまざまな儀式の膨大な資料を基にして、儀礼の本質を「分離」「移行」「合体」の体系的概念に整理しました。そして、儀礼とは「時間と空間を結ぶ人間認識」であると位置づけ、人間のもつ宇宙観を見事に示しています。


本書の著者である島田裕巳氏は、ジェネップの『通過儀礼』の理論を紹介しつつ、第1章「『ローマの休日』が教えてくれる映画の見方」で、次のように述べます。
「映画の重要なテーマが通過儀礼を描くことにあるとするなら、映画はじゅうぶんに宗教学の研究の対象となるはずだ。あるいは、宗教学の観点に立つことによって、映画のテーマやおもしろさがよりよく理解されてくるのではないだろうか。さらに、映画は通過儀礼が僕たちにとってどういう意味を持っているかを教えてくれるのではないか」
ちなみに本書は、1995年に刊行された『ローマで王女が知ったこと――映画が描く通過儀礼』(筑摩書房)を加筆修正して文庫化したものです。


本書で取り上げられている『ローマの休日』とか『スタンド・バイ・ミー』が通過儀礼の物語であることは著者に指摘されなくても理解できますが、興味深かったのは日本映画についての著者の見方でした。通過儀礼とは、試練を乗り越えて成長していく物語でもあります。第5章「黒澤映画と小津映画のもう一つの見方」で、著者は黒澤明通過儀礼の試練を「水」として表現したとして、次のように述べています。
「黒澤映画の登場人物たちは、つねに自分の前に立ちはだかる、水とかかわるものと戦っている。彼らにとって、水との戦いが試練としての意味を持っている。三四郎は、自らの心の迷いを象徴する蓮池から自力で飛び出してこなければならなかった。『羅生門』の登場人物たちは、激しい雨によって視界がさえぎられたような戦乱の世の中で、真実を見いだしていかなければならなかった。『酔いどれ天使』の真田や松永たちも、彼らの行く手をはばむ水、この場合にはメタンの泡立つ汚れた沼からぬけだしていかなければならなかった。雨のなかの合戦のシーンは、『七人の侍』が世界の映画史上はじめてのこととされるが、黒澤がそういった新奇なアイデアを思いついたのも、彼の映画において、雨が試練に直結していたからにほかならない」



黒澤映画と水の関係については、ブログ『「百科全書」と世界図絵』で紹介した本にも登場しました。さらに、黒澤映画について、著者は次のように述べています。
「黒澤は、アメリカ映画とはことなり、あまり家庭を描くことはなかった。そのため、父親と息子との葛藤がテーマとなることはまれで、例外はシェークスピアの『リア王』を土台にした『乱』くらいである。この映画にしても、中心は父親の方で、その狂気が描かれるが、息子たちはひ弱な人物としてしか描かれていなかった。
したがって、黒澤映画の主人公は、父親というのりこえるべき明確な目標を持ちえなかった。むしろ、彼らは社会の退廃や人間の心の弱さといったとらえどころのない抽象的な敵を相手に戦っていた。そこで黒澤は、そういった姿の見えない敵を水として表現することによって、映画に登場させたのではないだろうか。黒澤映画は、水に注目することによって、通過儀礼としての性格がはっきりとしてくるのである」



また、黒澤明と並ぶ日本映画史を代表する巨匠である小津安二郎については、著者は次のように述べています。
「小津もまた通過儀礼の問題に強い関心を示した監督であることはまちがいなかった。それは『生れてはみたけれど』について考えてみればわかる。
ただし、小津映画における通過儀礼は、黒澤映画における通過儀礼のように、主人公が水によって象徴される過酷な試練をのりこえて、精神的な成長をとげていくといった典型的なパターンをたどってはいかない。むしろ、その過程は穏やかに進み、主人公の変化もかなり微妙なかたちでしか描かれていない。
たとえば、小津が自らのスタイルを完成させた作品として高く評価されてきた『晩春』は、そういった小津的通過儀礼の典型を示している」
ブログ「小津安二郎展」に書いたように、小津の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。言うまでもなく、結婚式や葬儀こそは通過儀礼の最たるものです。小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台であることを知っていたのでしょう。


小津映画の最高傑作といえば『東京物語』ですが、この作品は一種のロードムービーでした。著者は、「老夫婦の東京行きは、自分たちが安らかに人生をまっとうしていくための準備の旅であり、それは彼らにとっての生の世界から死の世界に移行するための通過儀礼だった」と分析した上で、さらに小津映画について次のように述べます。
「家庭劇が家庭のなかでだけ展開されるのであれば、そこにはドラマは生まれない。アメリカ映画では、父親と息子との葛藤や夫婦のあいだの不和という要素を導入することによって、矛盾を作りだし、その矛盾を解決する方向に物語を展開させていくことで、家庭をドラマの舞台へと変えていった。小津の方は、片親を残しての娘の結婚といった要素を使ってドラマを作り上げるとともに、旅という要素を導入することで、日常と非日常の世界を対比させ、その対比からドラマが生み出されていくように工夫をこらした。旅という非日常においては、日常では知ることのない事実に直面することになるからである」



本書を読んで興味深かったのは、小津映画の代名詞ともなっているローアングルが性的な欲望に通じていたのではないかという指摘です。
小津のほとんどの作品では、原節子をはじめとする女性の登場人物が、カメラに尻を向けて畳みの上に腰をかけるシーンが見られます。
著者は、執拗に繰り返される小津のローアングルについて、次のように書いています。
「小津には、女性の後ろ姿や尻に対するフェティッシュな欲望があったのではないかとさえ邪推したくなる。撮影所の所長でのちに松竹の社長になった城戸四郎は、小津の映画の試写を見て、『また小津組はしゃがんだ位置か』といい、『女のあれをのぞくようなことをやっているのか』と評し、小津の心証を害したというが、案外、城戸の見方は当たっていたのではないだろうか」



そして、著者は次のように小津安二郎の秘密に迫るのです。
「小津は、生涯独身を貫き、母親と暮らしたが、女優たちとの噂は絶えず、とくに原節子との関係は、小津の死後においてもとりざたされた。小津の死後に、原が映画界を引退したことも、その噂に真実味を与えることになった。噂に、どれほどの真実が含まれているかはわからないが、小津映画における原は、周囲から美しいといわれ、結婚相手として求められつつも、操を守り通す女として描かれている。原は“永遠の処女”と呼ばれたが、小津は、映画のなかで、原を“永遠の貞女”にとどめてしまった。あるいはそこに、小津の原に対する独占欲が働いていたのかもしれない。
女性に対して恥ずかしがり屋で、生涯独身を通した小津は、むしろ性に対して過度の関心を持っていた。しかし、彼には一方で性に対する関心を不潔だと思う倫理観が存在し、心のなかでは、性への関心と倫理とがはげしく葛藤していたのではないだろうか。しかも、女性に対しては貞淑さを求め、たとえやむをえない理由があったとしても、操を守れなかった女性にはスクリーンのなかできびしい罰を与えた」
わたしも小津映画はほぼ全作品を観ていますが、著者のこの見方は鋭いと思いました。まさに「うーん、一本取られたなあ!」という感じです。


さらに、わたしを唸らせたのは、『野菊の如き君なりき』と『男はつらいよ』という松竹の歴史を代表する名画を結びつける推理でした。
そこには、松竹映画のアイコンともいえる笠智衆の存在があります。
笠智衆といえば、『男はつらいよ』シリーズの御前様役で知られます。『男はつらいよ』といえば柴又ですが、文豪・夏目漱石が柴又を訪れたときに渡ったのが矢切の渡しです。この矢切の渡しは、寅さんもとらやへ帰ってくるときに第1作をはじめ何度か渡っています。ところが、この渡しは、伊藤左千夫の『野菊の墓』で、主人公の政夫が千葉の中学に行くために、幼い恋心を抱いた民子と涙の別れをする場所でもありました。



これらのエピソードを踏まえて、著者は次のように大胆な推理を行います。
「『野菊の墓』は、1955(昭和30)年に木下惠介監督によって『野菊の如き君なりき』の題名で松竹で映画化されている。このときには、東京と川1本隔てただけの矢切を舞台にしたのではリアリティに欠けると判断されたのか、物語は信州に移されていたが、大人になった政夫の役を演じていたのが笠智衆であった。『野菊の如き君なりき』と『男はつらいよ』が同じ松竹の製作であることからも考えて、僕は、2つの作品をつなぎ合わせ、自分の写真と手紙を枕の下に敷いて死んだ民子のことを忘れられなかった政夫が、その苦しみから出家し、民子の菩提を弔うために題経寺で住職をつとめてきたという連想をしてみたくなった。漱石が柴又に出向いたとき、矢切の渡しで、『野菊の墓』のことを思い起こしたにちがいない。あるいは、『野菊の墓』の記憶が、漱石矢切の渡しへと誘ったのかもしれないのである」
『野菊の如き君なりき』の政夫が長じて『男はつらいよ』の御前様になっていたとは!



この大胆推理には大いなるロマンがあります。
わたしは、すっかり著者を見直しました。「葬式は、要らない」とか「人はひとりで死ぬ」などの物言いから、著者のことをニヒリストとばかり思っていましたが、こんな発想ができるということは意外とロマンティストなのかもしれませんね。
いずれにしても、これだけの発想力、筆力を持った著者が、葬式無用論を唱えたり、孤独死を肯定するような著作を書くだけではもったいないと思いました。まさに、宝の持ち腐れですね。このことは、ブログ「『こころの再生』シンポジウム」で書いたように玄侑宗久氏や島薗進氏と京都の百万遍で飲んだときにも話しましたが・・・・・。



わたしは、本書を優れた映画論として読みました。
現代の日本で映画論の第一人者といえば、ブログ『トラウマ映画館』で紹介した本を書いた町山智浩氏でしょう。その町山氏は、解説「僕の通過儀礼、そして再会」で、『映画は父を殺すためにある』という刺激的なタイトルに触れつつ、次のように述べています。
「父との相克をアメリカ映画が繰り返し描く理由には、大きく2つあると考えられる。ひとつはユダヤキリスト教の伝統。本文中でも『エデンの東』と旧約聖書の関係が論じられているように、聖書は「神」を父、キリストをその息子、というイメージで描いており、その父子関係が世界理解の基本になっている。もうひとつはアメリカという国独自の歴史。イギリスに対して反抗して独立したアメリカという国は、常に自分を父と戦った息子としてイメージせざるを得なかったのだ。
ただ、アメリカと違う歴史と文化を持つ日本では、物語も当然違ってくる。アメリカ映画が描く厳しい成長物語や激しい父と子の相克には違和感を持つ日本人も多いだろう。だから、本文で「寅さん」シリーズに日本人独特の成長物語を見出す章は興味深い。僕自身も寅さんのように、通過儀礼に時間がかかった」



町山氏は、本書の中で紹介されているさまざまなイニシエーション(通過儀礼)について、次のように書いています。
「イニシエーションを最も自覚的に行ってきたのは、宗教だ。どの宗教も入信の儀式が最も重要だ。特に新興宗教において、イニシエーションはより強烈になる。信者として完璧に生まれ変わらせるために、相手の内面にまで入り込んで、それまでの彼(彼女)を完璧に殺す。それはしばしば『洗脳』と呼ばれる。
それを教え子たちに実体験させようとしていた教授がいた。東大で宗教学を教えていた柳川啓一教授は、ゼミ生に、実際に宗教に入信することを勧めていた。島田先生も柳川啓一教授のゼミ生だった。ほかには、中沢新一植島啓司四方田犬彦、それに映画監督の中原俊などがいる。中原監督が『櫻の園』でイニシエーションを描いたのは偶然ではないのだ」



かつて編集者であった町山氏は四方田犬彦氏の担当だったそうで、島田氏が柳川ゼミ生としてGLAという宗教団体に入った話も聞かされたとか。
その後、島田氏はヤマギシズムに入りました。そして、かのオウム真理教を認める内容の発言によって、世間から猛烈なバッシングを浴びます。
じつは、島田氏がオウムと接触するきっかけとなった仕事こそ、編集者である町山氏が持ちかけた仕事だったのです。町山氏は、自分が紹介した仕事が原因で社会的に抹殺されたも同然の島田氏に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったそうです。


解説の最後には、次のような一文が書かれています。
「2011年、震災後の4月、石原都知事の花見自粛発言に反発した僕はツイッターで都庁前での花見を呼びかけた。集まった300人の有志のなかに島田先生を見つけた。16年ぶりの再会だった。その間、地獄も見たであろう先生はただ笑って握手してくれた。本当にありがとうございます」
野菊の墓』の少年が『男はつらいよ』の御前様になるという物語に劣らず、島田氏と町山氏の現実の関わりもドラマティックです。
人生も映画のようなものなのかもしれない。
本書の解説を読んで、そのように思いました。


2012年8月28日 一条真也

『テレキネシス』

一条真也です。

テレキネシス』全4巻、東周斎雅楽作、芳崎せいむ画(小学館)を読みました。
「山手テレビキネマ室」というサブタイトルがついていますが、山手テレビというテレビ局で「金曜深夜テレビキネマ館」という番組を作る人々の物語で、古今東西のさまざまな映画の名作が紹介されています。


山手テレビキネマ室



関東最大の民放局である山手テレビの裏側には、昭和30年代に建てられた旧社屋があります。その古いビルの地下には、「テレキネシス」と名づけられた小さな映写室があります。この作品は、そのテレキネシスの番人である山手テレビの超問題社員・東崋山と、正義感いっぱいの新入社員・野村真希乃が繰り広げる「映画」をめぐる物語です。
グータラ社員と真摯な若手女子社員のコンビは、同じ小学館の人気漫画である『美味しんぼ』を連想させますね。



ハリウッドの伝説的映画監督であるエリア・カザンにちなんだ名前を持つ華山は、かつてはヒット・ドラマを連発する名物プロデューサーでした。
しかし、ある不祥事をきっかけに深夜の映画番組担当という閑職に回されます。
ところが、崋山がセレクトして放映する「金曜深夜テレビキネマ館」は、観ると元気になれるという不思議な番組でカルト的な人気を誇っていました。
テレキネシスでは、基本的に古い名画が上演されます。CGを駆使した最近の映画に押されて埋もれつつある昔の映画を思い起こさせてくれます。そして、古き良き時代の精神を現代人たちに教えてくれる作品ばかりです。これまで古い映画を見なかった新入社員マキノも、徐々に映画の力に魅了されていくのでした。


最初に、紹介されるのが「風と共に去りぬ」です。主人公スカーレットがすべてを失うという大作ですが、これを会社にも妻にも見捨てられた同僚に見せるのです。
その同僚は、「何もかも失った人間が観るのに、これ以上の映画はなかったよ」とつぶやき、「ありがとう! スカーレットを観ていたら、とにかく根拠のない勇気が湧いてきた!」と他局に移って新しい人生を始めることを決心するのです。
小学3年生とのときにテレビの「水曜ロードショー」で観て以来、この「風と共に去りぬ」はわたしが一番好きな映画なので、最初に登場して嬉しかったです。



さて、謎が多い華山ですが、彼が山手テレビに入社したのには理由がありました。
彼の亡くなった父親は、映画監督でした。生前最後の作品のフィルムは行方不明とされていましたが、華山は山手テレビにフィルムが隠されていると推測するのです。
この漫画では、ずっと古い名作映画の紹介が続きますが、3巻の途中ぐらいから崋山の父親が遺した幻の映画フィルムをめぐって物語が大きく動きます。
3巻の後半から4巻のラストまでは息をもつかせぬ物語の展開があり、そこに名画の紹介もしっかり絡ませて、見事な構成でした。
この漫画の画を担当した芳崎せいむには、『金魚屋古書店』という作品があります。
漫画専門古書店の店員が、悩みを持った人に対して、その人にふさわしい漫画を紹介し、生きる活力を与えるという話の短編集です。
この『テレキネシス』はまさに『金魚屋古書店』の映画版で、仕事や人間関係で困難にぶつかった人が崋山おススメの映画をみて活路を見出すのです。


最初に登場する映画は「風と共に去りぬ」でしたが、最後に登場する映画は「オズの魔法使い」でした。亡くなった崋山の父親の遺作は、この名作ミュジージカル映画へのオマージュだったのです。この「オズの魔法使い」もわたしの大好きな映画です。
思えば、この映画を観てから、わたしはファンタジーの世界に魅せられたのでした。
主演のジュディ・ガーランドが歌う「虹の彼方へ」も素晴らしい名曲でした。
後に、あれは実際に彼女が歌ってはいなかったと知りましたが、そんなことは関係なく、「虹の彼方へ」は、今でもわたしにとって最高の「こころの歌」です。



それにしても「風と共に去りぬ」で始まり、「オズの魔法使い」で終わるというところが泣かせます。幼いわたしに「愛」と「夢」の素晴らしさを教えてくれたこの二大名画は、ともに1939年に公開されています。
そう、この二作は同じ年のアカデミー賞を競ったのでした。
さらに、1939年にはアメリカ映画最大の名匠ジョン・フォードの西部劇の最高傑作「駅馬車」までも公開されています。まさに「奇跡の1939年」ですが、日本との開戦直前にこのような凄い名画を同時に作ったアメリカの国力には呆然とするばかりです。わたしは、アメリカという国があまり好きではないのですが、ハリウッドから多くの名画を日本にプレゼントしてくれたことだけは感謝すべきであると思います。
最後に、この『テレキネシス』には「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使い」といった超有名な作品ばかり紹介されているわけではありません。
あまり知られていない名作や、わたしが未見の作品も多数ありました。それぞれの作品には、詳細な解説コラムもついており、本書は映画ガイドとしても大いに使えます。



いま、わたしの目の前の4冊のコミック本には、大量のポストイットが貼られています。
これからDVDを注文して観賞したいと思っている映画たちのコラムのページです。
「エルマー・ガントリー」「大いなる勇者」「アスファルト・ジャングル」「ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦」「ミスタア・ロバーツ」「砂漠の戦場 エル・アラメン」「パットン大戦車軍団」「シェナンドー河」「俺たちは天使じゃない」・・・・・これらの映画を観れば、だいたい本書に登場するすべての作品はカバーできると思います。
もちろん、わたしが未見の映画で、DVDも発売されていない作品もありますが。
それらの作品は、「縁」があれば、ぜひ観賞したいものです。それにしても、これから観るべき多くの映画が残されているなんて、なんて幸せなことでしょうか!



本書には、名画の紹介だけでなく、心に残る名セリフもありました。
第3巻の「シェナンドー河」のエピソードで、崋山がマキノに「何のために映画はあるのか」という本質論を語る場面があります。
そこで崋山は、「映画はな、現実に潜むドラマを見逃すな! 感動を見逃すな! そのための仮想現実として、感受性を磨く道具なんだって今は思ってる」と語ります。
そして、それ以上の意義が映画にはあるとして、「涙」という言葉をつぶやきます。
「涙?」と不思議そうに問い返すマキノに対して、崋山は言います。
「不幸じゃないのに、なぜか悲しい夢を見て、号泣して目が覚めたことってないか?」
「あるある、あります! なのに、どういう夢を見たか忘れていたり・・・・・そのくせ妙にさわやかな感じがしたり・・・・・」と言うマキノ。「大地に雨が必要なように、人には定期的に涙が必要なんじゃないかなあ」と言う崋山。
そして、「定期的に泣くこと?」と問うマキノに、崋山は「きっと映画は、実際の人生でなかなか泣けない人のために存在しているんだよ」と語るのでした。
わたしは、この崋山のセリフを読んで、なぜ自分が忙しい時間をやり繰りしてまで映画を観続けているのか、その理由がわかったような気がしました。
たしかに、暗い映画館で、さまざまな映画を観て、わたしは涙を流しています。
映画館の闇は、その涙を隠してくれるためにあるのかもしれません。そして、映画で他人の人生を仮想体験して涙を流した後は、心が洗われたようになるのです。
涙は世界で一番小さな海』(三五館)に書いたように、わたしは人間にとっての涙の意味を考え続けてきましたので、崋山の「きっと映画は、実際の人生でなかなか泣けない人のために存在しているんだよ」というセリフはとても納得できました。



もう1つ、本書で心に残ったセリフがあります。
第4巻の「ジキル博士とハイド氏」というエピソードに出てきます。ドラマの売れっ子プロデューサーだった崋山が、ある俳優を重要な役で起用しようとします。
しかし、その俳優は小劇団で悪役を演じるだけの無名な人物で、しかも重病を抱えていて、余命いくばくもありませんでした。
その俳優の実力を見抜いていた崋山は、テレビに出演するように説得します。
体調を理由に断る俳優に崋山は、こう言うのでした。
「オレの仕事はドラマです。いいドラマを作って、テレビの向こう側の何万人もの視聴者を感動させることです。でも、もう1つ使命がある! ドキュメンタリーです」
「ドキュメンタリー?」と聞き返す俳優に対して、崋山は言います。
「すごい役者達を記録する。記録して視聴者の記憶に残す! オレはあんたのために出演をお願いしてるんじゃない! オレ自身のためです!」
この言葉に心を打たれた俳優は結局、崋山のテレビ・ドラマに出演を果たすのですが、わたしも感動しました。
ブログ「ヘルタースケルター」で、わたしは次のように書きました。
「この作品は、映画というよりも人類の『美』の記録映像としての価値があるとさえ思いました。沢尻エリカの人生には今後さまざまな試練が待っているとは思いますが、こんなに綺麗な姿をフィルムに残せたのですから、『これで良し』としなければなりませんね」
この言葉は、崋山のセリフから影響を受けたことを告白しておきます。
このようなセリフを崋山に吐かせた原作者の東周斎雅楽氏は、心の底から映画やドラマを愛しているのでしょう。


*このブログ記事は、1990本目です。


2012年8月28日 一条真也