『これからの「正義」の話をしよう』

一条真也です。

『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳(早川書房)を読みました。著者はハーバード大学の政治哲学の教授です。
本書は、ハーバード大学史上空前の履修者数を記録し続ける、超人気講座「Justice(正義)」をもとにした全米ベストセラーの邦訳です。



                  いまを生き延びるための哲学


著者は、具体的な問いを次々と学生たちに投げかけます。
たとえば、1人を殺せば5人が助かる状況だとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?
たとえば、金持ちに高い税金を課し、貧しい人々に再分配することは公正なのか?
たとえば、前の世代が犯した過ちについて、後の世代に償う義務はあるのだろうか?
これらの社会に生きるうえでわたしたちが直面する、正解がないにもかかわらず、決断を迫られるような問題とは、つまるところ「正義」をめぐる哲学の問題です。
著者は、哲学を机上の空論とは見ていません。
わたしたちが今を生き延びるための現実的な思考法なのです。
金融危機、経済格差、テロ、戦後補償などの現代世界における諸問題の奥には、必ず哲学や倫理の問題が潜んでいます。



本書の冒頭で、著者は、2004年の夏に、メキシコ湾で発生したハリケーン・チャーリーにまつわる便乗値上げの問題を取り上げ、次のように述べています。
「これらの問題は、個人がおたがいをどう扱うべきかというテーマにかかわるだけではない。法律はいかにあるべきか、社会はいかに組み立てられるべきかというテーマにもかかわっている。つまり、これは「正義」にかかわる問題なのだ。これに答えるためには、正義の意味を探求しなければならない。実は、われわれはすでにその探求を始めている。便乗値上げをめぐる論争を詳しく見てみれば、便乗値上げ禁止法への賛成論と反対論が三つの理念を中心に展開されていることがわかるだろう。つまり、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進である。これらの三つの理念はそれぞれ、正義に関して異なる考え方を提示している。」
そう、正義をめぐるキーワードは「幸福」「自由」「美徳」に集約されるというのです。
そして著者は、アリストテレス、ロック、カント、ベンサム、ミル、ロールズノージックといった古今の哲学者たちの取り組みを振り返ります。
その結果、正義をめぐる古代の理論は「美徳」から出発し、近現代の理論は「自由」から出発していることがわかります。



出発点は違っても、いつの時代も目的地が「幸福」であることは同じです。
ある意味で、「正義」について考えることは、「幸福」になるための方法論なのかもしれません。そして、そこから「幸福の最大化」というキーワードが出てきます。
ベンサムやミルに代表される功利主義者たちの思想を象徴する言葉ですね。
最近、菅直人首相が就任の所信表明で「不幸の最小化」という考え方を打ち出しましたが、これは明らかに「幸福の最大化」を意識しています。
ブログ「最小不幸社会」で紹介したように、菅首相は、恋愛だとか絵を描くのが好きとか、そういった個人の「幸福」の部分には政治は立ち入るべきではない、むしろ世にはびこる「不幸」をなくすのが政治の目的だと語りました。
わたしは、そのとき、この言葉には共感をおぼえました。たしかに、政治がめざすのは「幸福の最大化」ではなく「不幸の最小化」かもしれないと思ったからです。
でも、その後、少しづつ違和感が湧いてきました。
その理由が自分でもよく説明できなかったのですが、本書の最終部分には書著の次のような言葉が出てきます。これを読んで、なんだか納得しました。サンデルは述べます。
「善良な生活の問題に公共部門が関与するのは公民的逸脱であり、リベラルな公共的理性の範囲を超える行為だと見る人もいる。政治と法律は道徳的・宗教的論争に巻き込まれるべきではないとわれわれは考えがちだ。そうした論争に巻き込まれれば、強制と不寛容への道を開くことになるからだ。そうした懸念が生じるのも無理はない。多元的社会の市民は、道徳と宗教に関して意見が一致しないものだ。これまで論じてきたように、行政府がそうした不一致について中立性を保つのは不可能だとしても、それでもなお、相互的尊重に基づいた政治を行なうことは可能だろうか?」
著者は、「可能だ」と述べます。しかし、そのためには、これまでわたしたちが慣れてきた生き方よりももっと活発な市民生活が必要であると主張します。



著者によれば、道徳的不一致に対する公的な関与が活発になれば、相互的尊敬の基盤は強まるはずだそうです。
わたしたちは、同胞が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念を避けるのではなく、もっと直接的にそれらに注意を向けるべきだというのです。
本書は、著者の次の言葉で締め括られています。
「道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。」
著者のこの主張は、アメリカならいざ知らず、日本には当てはまらない気もします。
しかし、政治や宗教の話をタブー視しているうちに、「無縁社会」とか「格差社会」とか「貧困社会」と呼ばれるような現状を迎えたことを考えると、もっと踏み込んだディープな会話が求められているのかもしれません。
そこから、著者が言うように「相互的尊敬の基盤」が強まれば素晴らしいことですね。



さて、ブログ「孔子からのメッセージ」などにも書いたように、わたしは孔子儒教についての講演や講義をするとき、よく道徳や倫理の問題を取り上げます。
当然ながら、「正義」についても学生たちに問います。
たとえば、サンダーバード事件とか秋葉原無差別殺傷事件などの具体例をあげ、「そのとき、あなたなら、どうするか?」と問いかけます。
別に「日本のサンデル」を気取っているわけではありません(本書を読むまでサンデルの名も知りませんでした)が、まことに不遜ながら講義のスタイルとしては似ているのではないかという気がしました。
そんなこともあって興味津々で本書を読みはじめましたが、まず、その内容が高度なことに驚きました。これは哲学史や政治思想史にもそうとうに精通していないと理解できる内容ではありません。というか、はっきり言って、難解です。けっしてベストセラーになるような本ではありません。
にもかかわらず、本書はアメリカでも日本でも大ベストセラーになりました。特に、アマゾンでは1位にまでなっています。まったく理解に苦しむ不思議な現象です。



ふと、ブログ『業界のセオリー』で紹介した本の中のあるセオリーを思い出しました。
「『東大』は、読者に刺さるキーワード・・・・・出版業界」
というものです。たしかに、『東大合格生のノートはかならず美しい』『東大生が選んだ勉強法』『東大脳は12歳までに育てる』・・・・・「東大」という単語がタイトルに入ったベストセラーはたくさんあります。外山滋比古の『思考の整理学』(ちくま文庫)は、「東大・京大で一番読まれた本」と帯に書いたとたんに売れはじめ、刊行から20年以上もたって突如ベストセラーになりました。また『知の技法』シリーズ(東京大学出版会)は、東大の教養学部のサブテキストとして編集されたものですが、刊行から5年で70万部のロングセラーになっています。日本人は、やっぱり「東大」には弱いのでしょうか?
ならば、「東大」を超える最強のブランドこそ、「ハーバード大学」です。
本書の大ヒットの背景には、「ハーバード大学」という単語の神通力があるのでは?
「東大」といえば、わたしの弟夫婦がともに東大法学部の出身なのですが、長男が開成中学の3年生です。その甥がディベートをやっているそうです。最近、開成が中学ディベート選手権の関東大会で優勝しましたが、甥が最優秀ディベート賞に輝いたとか。
本書は理論的にきちんと構築されている本なので、ディベートにも大いに参考になると思います。ということで、お祝いとして、甥にこの本をプレゼントしたいと思っています。


2010年8月10日 一条真也