涙の般若心経

一条真也です。

10月1日、国内最大のグリーフケア・サロン「ムーンギャラリー」がオープンします。
場所は北九州市で、サンレーの本社機能も兼ねている小倉紫雲閣の隣接地です。
そのロビーに飾る特製の屏風が、本日届きました。
ダウン症の天才書家として有名な金澤翔子さんの「涙の般若心経」の屏風です。


                  「涙の般若心経」が届きました


金澤翔子さんについては、ブログ「天使」ブログ「天使の軌跡」でも詳しく書きました。
さらに詳しいプロフィールは、こちらを御覧下さい。
翔子さんは、5歳から書家への道を歩むべく、日々厳しい修練・研鑽とたゆまぬ努力で孤高の境地まで書の芸位と格を押し上げられました。
ブログ「美の商人」で紹介した、東京・銀座の画廊「晶アート」の大川原有重さんは、翔子さんのことを「神様にもっとも近い存在として、アーティストがいるなら金沢翔子さんは文字通り大人(たいじん)として最右翼に位置付けられると確信します」と表現されています。書家としては「100年に1人の天才」と呼ばれているそうです。
「道(タオ)」の第一人者として有名な加島祥造さんなども彼女の才能を絶賛し、展覧会のパンフレットに「翔子は、潜在意識の深みから働きかけている。それを自覚なしにする――それも不思議な美のセンスでもってする」という一文を寄せています。 


わたしが「晶アート」を初めて訪れたとき、そこには翔子さんが10歳のときに書いたという「般若心経」が展示されていました。
観る者の魂を震わせるような見事な作品でしたが、部分的に染みがありました。
そこを指差し、翔子さんは、「これはね、わたしの涙の跡なんだよ」と教えてくれました。
ダウン症を理由に通っていた小学校から「養護学校に転校してほしい」と言われ、絶望の底にあった頃、お母さんから夜中に叩き起こされて、辛くて悔しくて悲しくて、そして何故だか有り難くて、泣きながら一気に書いた「般若心経」なのです。
この「涙の般若心経」は、今年の7月22日にフジテレビ系列で放送された「奇跡体験! アンビリーバボー」でも紹介され、日本中に大きな反響を呼びました。
ビートたけし氏をはじめ、番組の出演者全員が感動していました。


                  ところどころに涙の跡が・・・


わたしも、これを初めて観たとき、非常に感動しました。そして、この作品は、人間のあらゆる悲しみや苦悩を癒してくれる不思議な力を持っていると感じました。
ですから、ムーンギャラリーに展示して、ぜひ“愛する人を亡くした人”たちの悲しみを癒してほしいと思い立ちました。そして今回、サンレーで求めたという次第です。
重い障害を持って生まれてきながら、素晴らしい芸術によって多くの人々に感動を与え続ける金澤翔子さんの「涙の般若心経」。
翔子さんの芸術を借りた御仏のメッセージは、きっと多くの方々の心の深いところに届き、悲しみや苦しみを癒してくれることでしょう。


                  金澤翔子作「涙の般若心経」


『般若心経』とは、最長最大の仏教経典である『大般若』をわずか300文字に満たない経文に凝縮したものです。
西遊記』の三蔵法師として知られる中国の僧・玄奘三蔵は、『大般若』600巻とともに、そのエッセンスである『般若心経』の漢訳を行いました。
『般若心経』は、正式には『般若波羅蜜多心経』といいます。
「般若」は仏の智恵、「波羅蜜多」は完成、「心」は精髄または真言を意味します。
すなわちこの経には、「仏の智恵が完成するための真言」が説かれているのです。
マントラ」とも呼ばれる真言とは、平たく言えば「呪文」のことです。
そして仏の智恵の完成とは、「空」の思想を体得することに他なりません。



短いながらも、大乗仏教の根本思想である「空」の理法が説かれている『般若心経』には二種類あります。いわゆる大本(広本)と小本(略本)が存在するのです。
一般に流布している玄奘が訳したものは小本にあたります。大本には「如是我聞・・・」ではじまる序と「・・・信受奉行」で終わる結語がついています。
以下は、玄奘訳の『般若心経』の全文です。



   般若波羅蜜多心経

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空。空不異色。
色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。
不生不滅。不垢不浄不増不減。
是故空中。無色。無受想行識。
無限耳鼻舌身意。無色声香味触法。
無限界。乃至無意識界。無無明。
亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。
無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。
菩薩薩埵。依般若波羅蜜多故。
心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。
遠離一切顚倒夢想。究竟涅槃。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。
得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。
是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。
真実不虚故。説般若波羅蜜多咒。
即説咒曰。羯諦。羯諦。波羅羯諦。
波羅僧羯諦。菩提僧婆訶。
般若波羅蜜多心経。



大意は、観自在ボサツが深遠な智恵の完成を実践していたときに、五蘊・十二処・十八界といった万物の構成要素はすべて実体のない空であることを見抜いた。舎利子よ、迷いにはじまって生老死に終わる十二因縁も空であり、それらの克服も空である。
四つの聖なる真理も、真理の認識も、悟りも、空である。ボサツも、過去現在未来のブッダもみな智恵の完成によって、心にこだわりなく、最高の悟りに到達する。
したがって、智恵の完成こそは偉大なる呪文であり、その呪文とは、こうである。
ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ボーディ・スヴァーハー(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸いあれ)



呪文は本来訳さないものとされ、漢訳でもチベット語訳でも音写しています。
最後の「スヴァーハー」は神々に呼びかける間投詞で、インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』以来、「祝福」を意味する。「般若波羅蜜多」すなわちプラジニャー・パーラミターは実践であり、瞑想であり、自由であり、万能の偉大な力です。
そのプラジニャー・パーラミターを観自在という一人のボサツにしぼり、呪文によって結ぶのが『般若心経』なのです。



『般若心経』ほど、大乗仏教が伝わった国々で広く読まれている経はありません。
インドでも中国でも日本でも、さかんに研究され、数多くの註釈書が存在します。
あらゆる宗派が『般若心経』を重要視しているのです。
ただし、阿弥陀仏を信仰する浄土教は例外です。
ですから、日本においても浄土真宗などは『般若心経』とは無縁です。
最近の日本では、生命科学者である柳澤桂子氏による「心訳」や、作家の新井満氏による「自由訳」など、さまざまな新しい『般若心経』が刊行されました。
そして、それぞれベストセラーになりました。
経典を書き写す写経でも圧倒的な人気であり、仏教への関心の高まりとあいまって「般若心経ブーム」と呼ぶべき現象さえ見られます。



特に、40年近くも病に苦しみながら、科学的解釈で美しい現代語に訳した柳澤氏の『生きて死ぬ智慧』は、「いのちの意味」を求める幅広い人々の支持を受けました。
柳澤氏によれば、ブッダという人はものすごい天才で、真理を見抜きました。
他の宗教も同じですが、偉大な宗教というものは、ものを一元的に見るということを述べており、『般若心経』も同じです。
科学者としての柳澤氏は言います。わたしたちは原子からできている。原子は動き回っているために、この物質の世界が成り立っている。この宇宙を原子のレベルで見てみると、自分のいるところは少し原子の密度が高いかもしれない。戸棚のところにも原子が密に存在する。これが宇宙を一元的に見たときの景色である。一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけなのだ。
そして、柳澤氏は同書の「あとがき」で次のように述べています。
「あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです」
「空」をわかりやすく解釈した名文だと思います。
このように宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、何事も淡々と受け容れることができるようになるのです。
柳澤氏によれば、これがブッダの悟ったことであるといいます。もちろん、ブッダが原子を考えていたわけではありませんが、物事の本質を見抜いていたのです。現代科学に照らしても、ブッダがいかに真実を見通していたかということは驚くべきことなのです。
また、「自由訳」の新井満氏は、「『般若心経』とは、わたしたちに“生きる力”を与えてくれる、釈迦からのメッセージだったのだ」と述べています。


この『般若心経』における「空」の思想は、中国仏教思想、特に禅宗教学の形成に大きな影響を及ぼしました。
玄奘による漢訳『般若心経』が日本に伝えられたのは8世紀、奈良時代のことでした。
遣唐使に同行した僧が持ち帰ったといいます。以来、1200年以上の歳月が流れ、日本における最も有名な経典となりました。
仏教思想の核心である「空」がきわめてシンプルに語られている『般若心経』とは、多くの日本人にとって仏教そのものではないかと思います。


2010年9月28日 一条真也