ハリーの墓

一条真也です。

今日で四十九日を迎えたので、ハリーの墓を作ってあげました。
ハリーが大好きだった庭の大好きな場所に穴を掘って、骨を埋めてあげました。
池の脇にある築山の中で、ここなら我が家の全体が見渡せます。
すぐ近くの木の枝に「Harry’s House」の表札をかけ、2体の天使も置きました。
きっと、ハリーも寂しくないと思います。娘たちが学校から帰るのを待ち、みんなで一緒に穴に土をかけ、長女がわざわざ買ってきたインドの線香に火をつけました。


                  庭にハリーの墓を作りました


とりあえず、四十九日の今日、簡単な墓を作りました。
もしかしたら、そのうち作り直すかもしれません。
また、今月の22日にはサンレーグランドホテルで「月への送魂」が行われるので、そのとき、ハリーの魂も月に送ってあげたいと考えています。
現在、葬式無用論に続いて墓無用論が取り沙汰されているようです。
わたしは、地球人類みんなの墓としての「月面聖塔」の建立を願う人間です。
でも、この地上における墓もやはり必要ではないかと思います。
何より、生き残った者が死者への想いを向ける対象物というものが必要だと思います。
以前、「千の風になって」が流行したとき、「私のお墓の前で泣かないで下さい、そこに私はいません」という冒頭の歌詞のインパクトから墓無用論を唱える人が多くいました。
でも、新聞で名古屋かどこかの葬儀社の女性社員の方のコメントを読み、その言葉が印象に残りました。「風になったと言われても、やはりお墓がないと寂しいという方は多い。お墓の前で泣く人がいてもいい」といったような言葉でした。
わたしは、風になったと思うのも良ければ、お墓の前で泣くのも良いと思います。
死者を偲ぶ〈こころ〉さえあれば、その〈かたち〉は「何でもあり」だと思っています。



千の風になって」は、もともと作者不明の、わずか12行の英語の詩でした。
原題を「I am a thousand winds」といいます。
欧米では以前からかなり有名だったようです。
1977年、アメリカの映画監督ハワード・ホークスの葬儀では、俳優のジョン・ウェインがこの詩を朗読しました。また、1987年、マリリン・モンローの25回忌のとき、ワシントンで行なわれた追悼式の席上でも朗読されました。
かつて、この詩の存在を週刊誌で知った1人の日本人がいました。
星山佳須也さんという方で、三五館という出版社を経営していました。
大きな感銘を受けた星山さんは、1995年にこの詩を出版しました。作者不明の不思議な詩は、『1000の風〜あとに残された人へ』(三五館)として、初めて日本語に訳されました。この本はグリーフケア・サロン「ムーンギャラリー」で販売しています。



この詩が出版されるや、多くの人々の心をとらえました。
とくに愛する人を亡くした人々の心を強くとらえました。ノンフィクション作家の柳田邦男さんも、その一人でした。柳田さんは、息子さんを自殺で失うという壮絶な経験をされています。わが子を亡くした喪失の悲しみから立ち直ることができずに苦しんでいた柳田さんは、知人から教えられて「1000の風」とめぐりあい、はじめて癒されたと実感したとか。
柳田さんは阪神・淡路大震災の被災者をはじめ、愛する人を亡くした人々向けに「悲しみを糧に生きる」という講演を神戸などで開催されています。そこで自ら用意したスライドを見せながら、時間をかけてゆっくりとこの詩を朗読しました。
柳田さんは、「私はこの詩に強烈なリアリティを感じるのだ」と語っています。講演会に集まった、家族を失った遺族の人々によって口コミで「1000の風」は日本中に広まってゆきました。さまざまな人の葬儀で朗読されたり、追悼文集などに掲載されました。



郷里の高校の同級生の追悼文集でこの詩と出会い、衝撃を受けた人物こそ、作家の新井満さんでした。新井さんは『1000の風』を一読して、心底からおどろいたそうです。なぜかというと、その詩は「生者」ではなく、「死者」が書いた詩だったからです。
追悼文とは、その名のとおり、あとに残された人々が死者を偲んでつづる「天国へ送る手紙」です。しかし、この詩は、死者が天国で書いて「天国から送り届けてきた返信」ともいうべき内容なのです。
新井さんは、そのような詩に生まれてはじめて出会って、素直にびっくりしてしまったのです。そして、「この詩には、不思議な力があるな」と感じたそうです。その力が読む者の魂をゆさぶり、浄化し、忘れはてていたとても大切なことを思い出させてくれるのだというのです。新井さんは、この不思議な力をもつ詩に曲をつけてみたいと思い立ち、自身による新訳にメロディーをつけました。
それが、「千の風になって」です。CD化やDVD化もされて大ヒットし、現実の葬儀でも、この曲を流してほしいというリクエストが絶えませんでした。
喪失の悲しみを癒す「死者からのメッセージ」として絶大な支持を受けたのです。


                  もともとハリーは風だった!


ハリーの墓の前で佇んでいると、どこからともなく風が吹いてきました。そのとき、わたしは、「ああ、ハリーは風になったのではなく、もともと風だったんだ!」と悟りました。
わたしは、ハリーとよくフリスビーをしました。
ハリーとフリスビーをするとき、たまらなく自由を感じました。
本当にドッグランというのは美しいと心から思いました。
スパニエル犬の長い毛が全力疾走によってエレガントに流れるさまに、たまらなく風を感じ、わたしの心が自由になったのです。
風鈴は聴覚によって、風車は視覚によって風を感じさせるものとされます。
しかし、ドッグランは「ヘヴンズ・ブレス」すなわち「天の息」であり、生命現象のメタファーとしての風をそのまま表現しているのです。
フリスビーを追って駆け出すハリー、そしてフリスビーをキャッチして駆け戻るハリーは「天の息」そのもの、すなわち風そのものでした。
もともと風だったハリーは、そのまま風として空を吹き渡っているのです。
そして、わたしが墓の前に立つときは、きっと墓の中に入ってくれるのでしょう。
わたしは、ハリーの墓の前で手を合わせ、心から祈りました。
そして、ほんの少しだけ涙を流し、それから風になったハリーを感じました。


2010年10月13日 一条真也