ホモ・フューネラル

一条真也です。

今夜の小倉は、幻想的な朧月夜です。自然と、うつし世(来世)を想ってしまいます。
さて、最近よく、「サロンの達人」こと佐藤修さんのブログを取り上げさせていただいていますが、今日のブログ記事にも非常に考えさせられました。
葬儀は種としての人の存在を支えている仕組み」という記事です。



                   佐藤修さんのブログより


佐藤さんは、最近、ノンフィクションライターの黒岩比佐子さん、それから親戚の若い男性の2人の葬儀に参列されました。そこで、「喪主の思いを、たくさんの参列者はわかっているのだろうか」と感じられたそうです。2007年の秋に最愛の奥様を亡くされて喪主となられた佐藤さんは、次のように書いています。
「あの時の私は、尋常ではなかったと思います。しかし尋常でなかったからこそ、節子との別れを超えられたのかもしれません。もし私に娘がいなかったら、私は生きる気力を失い、結果的に節子の後を追うことになったでしょう。そうならなかったことが、私にとってよかったことかどうかはわかりませんが、愛する人を失った人が自らの生を絶つようになったら、種としての人の歴史は危機に直面するでしょう。人のつながりは『愛のつながり』でもありますから、それが『死の連鎖』を起こしかねないことになります。つまり『個別の死』は、個別の問題として切り離さないといけないのです。そう考えると、葬儀とは逝ったものから残されたものを引き離す場なのかもしれません」



まったく同感です。いつも、わたしが考え、発言していることでもあります。
奥様が亡くなられた後、わたしはさんざん悩みながらも『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)という著書を佐藤さんにお送りしました。しばらく、佐藤さんはその本を読まれませんでした。とても、そんな心境ではなかったのでしょう。きっと、わたしのことを「お節介な人だ」とか、あるいは「なんという無神経な奴だ」と思われたかもしれません。
しかし、ついに、その日は訪れました。佐藤さんは『愛する人を亡くした人へ』を読了され、大変素晴らしい書評を自身のHPに書いて下さいました。


                  悲しみを癒す15通の手紙


佐藤さんは、今日のブログに次のように書かれています。
「節子を見送った時に、たくさんの人が見送りに来てくれました。しかし、あれは節子を見送ることによって、その世界に引きずり込まれようとしている私を現世に踏みとどまらせるためだったのです。もちろん参列者がそんなことを意識していたわけではないでしょうが、葬儀の意味はそこにあることに気づきました」
わたしは、「葬儀というものを人類が発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していただろう」と、ことあるごとに言っています。
愛する人が亡くなるということは、自分の住むこの世界の一部が欠けるということです。欠けたままの不完全な世界に住み続けることは、かならず精神の崩壊を招きます。
不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。
まさに、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことに他ならないのです。
葬儀によって心にけじめをつけるとは、壊れた世界を修繕するということなのです。
だから、わたしは葬祭スタッフに「あなたたちは、心の大工さんですよ」と言っています。



また、葬儀は接着剤の役目も果たします。
愛する人を亡くした直後、残された人々の悲しみに満ちた心は、ばらばらになりかけます。それを一つにつなぎとめ、結びあわせる力が葬儀にはあるのです。
多くの人は、愛する人を亡くした悲しみのあまり、自分の心の内に引きこもろうとします。誰にも会いたくありません。何もしたくありませんし、一言もしゃべりたくありません。
ただ、ひたすら泣いていたいのです。
でも、そのまま数日が経過すれば、どうなるでしょうか。残された人は、本当に人前に出れなくなってしまいます。誰とも会えなくなってしまいます。
葬儀は、いかに悲しみのどん底にあろうとも、その人を人前に連れ出します。引きこもろうとする強い力を、さらに強い力で引っ張りだすのです。葬儀の席では、参列者に挨拶をしたり、お礼の言葉を述べなければなりません。
それが、残された人を「この世」に引き戻す大きな力となっているのです。
 


また、佐藤さんは次のように書かれています。
「私がいまここにいるのは、葬儀のおかげです。そして私がいまここにいることで、死の連鎖が起こらずに、人類の歴史が続いていくわけです。連続していた生命が切り離されて『個別の生』になった『種としての人』が、その当初より(ネアンデルタール人の頃より)葬儀を営んできたことの意味がやっとわかりました」
そして、最後に「葬儀は、種としての人の存在を支えている仕組みだったのです」と結ばれています。佐藤さんのブログを読み、わたしは感動で胸がいっぱいになりました。



拙著『葬式は必要!』にも書きましたが、わたしは、人間とは愛する者の死に際して、葬式を行わずにはいられない動物だと思っています。
人類の文化は墓場からはじまったという説があります。
すでに10万年も前に、旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に埋葬し、時にはそこに花を捧げていたとされています。
詳しくは、ブログ「ネアンデルタール人」」をお読み下さい。
死者を特定の場所に埋葬するという行為は、その死を何らかの意味で記念することに他なりません。しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。
つまり、最初の死者が埋葬された瞬間、「死そのものの意味」と「個人」という、人類にとって最も重要な2つの価値が生み出されたのです。
人間の脳内に、いや、「こころ」にビッグバンが起こった瞬間と言ってもいいと思います。



ネアンデルタール人に何が起きたのでしょうか? アーサー・C・クラークが原作を書き、スタンリー・キューブリックが映画化したSFの名作『2001年宇宙の旅』に出てくるヒトザルたちは、モノリスという石碑に遭遇して、進化のステージに立ちます。
ネアンデルタール人たちの前にもモノリスのようなものが出現したのでしょうか。
何が起こったにせよ、そうした行動を実現させた「こころ」のエネルギーこそ、原初の宗教を誕生させた原動力だったと思います。このことを別の言葉で表現するなら、人類は埋葬という行為によって文化を生み、人間性を発見したのです。



スウェーデン博物学者リンネは、現生人類のことを「ホモ・サピエンス」(知恵のある人)と呼びました。人間とは理性のある動物であると定義したのです。
オランダの文化史家ホイジンガは、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)と呼びました。
フランスの哲学者ベルクソンは、「ホモ・ファーベル」(工作人)と呼びました。
イタリアの哲学者アガンベンは、「ホモ・サケル」(聖なる人)と呼びました。
ルーマニア宗教学者エリアーデは、「ホモ・レリギオースス」(宗教人)と呼びました。
しかし、わたしは、「ホモ・フューネラル」(弔う人)(葬儀人)と呼んでいます。
ホモ・フューネラルである人間が、愛する者とこの世で別れるとき、訣別の儀式をせずにいられません。これは事実です。たとえ、死んでいく者が「葬儀不要」といったにせよ、それでは生き残った者の気がおさまりません。
わたしたちは、葬儀をすることによって人間であり続けているのです。


               さまざまな場所でメッセージを送りました


今年は、島田裕巳氏の『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)がベストセラーになり、わたしも『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。
葬儀の意味を考え続け、多くの方々にメッセージを送り続けた一年でした。
NHKの番組で島田裕巳氏とも討論しましたし、「フューネラルビジネスフェアの講演会」、「全日本冠婚葬祭互助協会の総会講演」、「青年フューネラルフォーラムの講演会」などでも、葬儀は人類の存在基盤であり、絶対に「葬式は必要!」と訴えました。
これは、天より与えられた自分の使命であると思っています。
これからも、ホモ・フューネラルの思想と葬儀の必要性を唱えてゆく覚悟です。


                最期の儀式に迷う日本人のために


2010年11月23日 一条真也