卒業メッセージ

一条真也です。

昨日、女優・田中好子さんの告別式が東京・青山葬儀所で営まれました。
田中さんは、21日に55歳で亡くなられました。死因は乳がんでした。
キャンディーズ」の仲間だった2人をはじめ、多くの芸能関係者やファンが参列しましたが、会場には生前録音された田中さんのメッセージが流れました。
そのことに対して、いろんな感想を持つ人がいるようです。


                 「スポーツ報知」4月26日号


告別式の最後で、田中さんの夫・小達一雄さんが、生前に録音した田中さんの肉声のテープを公開したのです。テープは3月29日に録音されたものだそうです。
酸素マスクを外した田中さんが、多くの人々への感謝と思いを次のように語りました。
「こんにちは、田中好子です。きょうは3月29日。東日本大震災から2週間がたちました。被災された皆さんのことを思うと、心が破裂するように痛み、ただただ亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。私も一生懸命、病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でも、その時は必ず、天国で、被災された方のお役に立ちたいと思います。それが私の務めと思っています」
「今日、お集まりいただいている皆さんにお礼を伝えたくて、このテープを託します。キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間、お世話になりました。幸せな、幸せな人生でした。心の底から感謝しています。特に蘭さん、美樹さん、ありがとう。2人が大好きでした」
「映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。お礼の言葉をいつまでもいつまでも皆様に伝えたいのですが、息苦しくなってきました。いつの日か(義理の)妹・夏目雅子のように、支えてくださった皆様に、社会に少しでも恩返しができるように、復活したいと思っています。かずさん(夫・小達一雄さん)、よろしくね。その日までさようなら」



このメッセージに多くの人が感動しましたが、中には否定的な意見もあったようです。
わたしの周囲でも、「死期が迫っている人の弱々しい声を会場で流すべきではない」とか「あの世からの死者の声を聞いているみたいで怖かった」という声も聞きました。
さらには、「芝居がかっていて、不謹慎だ」という批判までありました。
要するに、故人の肉声テープを流すのは演出過剰というわけですね。
しかし、わたしは素晴らしいメッセージであり、最高の演出であったと思います。
「幸せな人生でした」「天国で被災者のお役に立ちたい」と堂々と述べ、「ありがとう」と感謝の言葉を口にする。これ以上に完璧なメッセージがあるでしょうか。
おそらく一部の人々は、そのあまりの完璧さに違和感を覚えたのかもしれません。



「芝居がかっている」という意見についてですが、たしかに芝居がかっていました。
夫である小達一雄さんが「田中好子の第1章は幕を閉じましたが、これから第2章をスタートします。シーン1、テイク1、スタート!」と言って、カチンコを鳴らす。
はっきり言って、これほど芝居がかった葬儀は、わたしも見たことがありません。
そして、これほど見送る者の故人への想いが溢れている葬儀も見たことがありません。
小達さんは妹・夏目雅子と妻・田中好子という2人の偉大な女優を見送ったわけです。
大女優の新しい旅立ちにカチンコを鳴らすなんて、なんと素敵なことでしょうか!



芝居がかった葬儀、大いに結構じゃありませんか!
だって、亡くなった田中好子さんは女優だったのです。
さらに言うなら、葬儀とはもともと演劇のルーツなのです。
ブログ『寺山修司・遊戯の人』にも書きましたが、葬儀とは、死者が旅立ってゆくことをドラマとして見せる演劇に他なりません。
文化人類学的には、葬儀の本質は世界創造神話を演劇化したものと言われます。
宇宙の創造の観念を持っている民族においては、その宗教は神話、儀礼、社会組織の三者が相互に作用し合っているとされています。
死は、宇宙の神的な秩序をかき乱し、社会に不幸をこうむらせます。
この混乱状態を終わらせるためには、葬儀を催して秩序を回復し、かつ創造を象徴的に繰り返さなくてはなりません。
すなわち、死によって破壊された「宇宙の秩序」を新たにするという葬儀の任務は、創造神話を演出することによって達成されるのです。



「葬儀とは演劇に他ならない」ことを知り尽くしていたのは、寺山修司という人でした。
その寺山自身の葬儀の場は、彼が主宰する劇団「天上桟敷」の劇団員たちによって前代未聞の演劇空間と化しました。
誰よりも演劇というものを愛した寺山が、自らの葬儀を見えない姿で演出したとしても何ら不思議はないでしょう。なにしろ彼は、あの「あしたのジョー」で力石徹が死んだとき、実際に力石の葬儀を出して世間を驚かせた張本人なのです。
最近、「自分の葬式はしなくていい」との遺言を残して某演劇人が亡くなりましたが、この人物は葬儀こそ最大の演劇であることを知らなかったようです。
彼と違って、自身の葬儀を「最高傑作」とまで参列者に言わしめた寺山修司は本物の演劇人だったと思います。



また、某演劇人だけでなく、最近亡くなる芸能人をはじめとした文化人には「自分の葬式はしなくていい」との遺言を残る人が多いですね。
これは、あえて言わせてもらうと、有名人の驕りではないかと思います。
葬儀を「自分のことを他人に記憶してもらうセレモニー」であるととらえ、「葬儀なんかしなくても、みんな自分のことを絶対に忘れない」という驕りがあるのではないでしょうか。
そして、葬儀の役割には「故人を記憶すること」ももちろんありますが、それだけではありません。故人が生前お世話になった方々に対して、別れを述べ、「ありがとうございました」と感謝の念を伝える場なのです。
その意味で、有名な女優である田中好子さんがお世話になった多くの方々に「さようなら」と「ありがとう」を肉声で伝えたことは素晴らしかったと思います。
録音した故人の肉声で会葬者に挨拶するという今回のスタイルは、今後の日本の葬儀に大きな影響を与える予感がします。



わたしが一番思ったことは、田中好子さんが生前にイメージしていた通りの葬儀が実現されたのではないかということです。おそらく、彼女は昨日の葬儀とほぼ同じイメージで自身の葬儀を想像してきたと思うのです。
わたしは、講演などで、「ぜひ、ご自分の葬儀をイメージされて下さい」と聴衆に呼びかけます。さらには、「できれば具体的に内容をノートに記して下さい」と言うのです。
自分の葬儀について考えるなんて、ましてや具体的な内容について書くなんて、複雑な思いをされる人もいるでしょう。しかし、自分の葬儀を具体的にイメージすることは、その人がこれからの人生を幸せに生きていくうえで絶大な効果を発揮します。
自分の葬義をイメージしてみる。そこで、友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像するのです。そして、その弔辞の内容を具体的に想像するのです。そこには、自分がどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。
葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像して下さい。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。 
どうですか、自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そのような理想の葬儀を実現するためには、残りの人生をそのように生きざるを得なくなるわけです。
自分の葬儀のイメージが、自分の人生にフィードバックしていくのです。



ブログ「人生の卒業式」にも書きましたが、わたしは「死」とは人生を卒業することであり、「葬儀」とはその卒業式なのだと考えています。
どうか、すべての方々に「あの人らしかったね」と言われる、自分らしい葬儀で人生を卒業していただきたいと思います。そして、すべての方々が見事な「有終の美」「人生最後の檜舞台」「グランド・フィナーレ」を飾られることを願っています。
わたしは、田中好子さんの卒業式における演出を全面的に支持します。
田中好子さん、どうか天国から被災者のみなさんを支えてあげて下さい。


2011年4月26日 一条真也