経理責任者会議

一条真也です。

今日はサンレーグループ全国経理責任者会議が開催されました。
各事業部の経理マンが集結し、わたしも恒例の社長訓話をしました。



                経理責任者会議が開催されました


まず、前に読んだ短歌をもう一度詠み、その意味について説明しました。
経理とは財務にあらず 経営の流れを読みて理を知る」という歌です。
ここで「理」という字は、「ことわり」と読みます。
それでは、「理」とは何か。一口に理、ことわりと言うと、まず思い浮かぶのは「論理」でしょう。この論理という語に対して、古来より「情理」という語があります。
単なる知識の理ではなくて、情というものを含んだ理です。
パスカルの原理」で知られるフランスの哲学者パスカルは、頭の論理に対して胸の情理を力説しましたが、「感情というものは心の論理である」との名言を残しています。
論理より情理に入って、さらに私たちの人生の理というべきものに「実理」「真理」「道理」などがあります。安岡正篤は、「物識り」よりも「物分り」が大事であると述べました。「物識り」というのは、単なる論理やいろんなことを知っているだけです。
情理や実理、真理、道理など本当の理を解することを「物分り」というのです。


                 経理の「理」について説明しました


そして、究極の理として「天理」があります。
天理とは、天地自然の理である。「天」は大いなる造化、万物を創造し、万物を化育してゆく。その名も天理教の本部を視察したことがきっかけになって天理を悟ったという松下幸之助は、「無理をしないということは、理に反しないということ、言いかえると、理に従うことです」と語りました。春になれば花が咲き、秋になれば葉が散る。草も木も、芽を出すときには芽を出し、実のなるときには実を結び、枯れるべきときには枯れていく。
まさに、こういったことが自然の理に従っていると言えます。
そして松下幸之助は、「人間も自然の中で生きている限り、天地自然の理に従った生き方、行動をとらなければなりません。といっても、それは、別にむずかしいことではない。言いかえると、雨が降れば傘をさすということです」と語り、事業経営に発展の秘訣があるとすれば、やはりこの天地自然の理に従うことであると主張しました。雨が降れば傘をさすごとくに、平凡なことを当たり前にやるということに尽きるというのです。


                  「天地自然の理」を語りました


松下幸之助は、以下のように言いました。
事業というものは天地自然の理に従って行えば、必ず成功する。
良いものをつくって、適正な値段で売り、売った代金はきちんと回収する。
簡単に言えば、それが天地自然の理にかなった事業経営の姿である。
そしてその通りにやれば、100%成功するものだ。
成功しないとすれば、それは品物が悪いか、値段が高いか、集金をおろそかにしているか、必ずどこかに天地自然の理に反した姿があるからである。
孫子は「彼を知り己を知らば、百戦してあやうからず」と言っているが、それが天地自然の理にかなった戦の仕方だからである。



以上の「理」についてのメッセージは、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書かれています。ちょうど今日は同書の配本日に当たります。
同書では、新装版ということで新たに「過」というテーマを書き下ろしました。
ちょうど経理スタッフのみなさんにも参考になるため、この「過」についても話しました。
誰でも過失を犯します。失敗しない人間など、この世にはいません。
孔子ドラッカーもその点はよくわかっていて、「過ちを犯すな」とは言っていません。
人間が過ちを犯すことはやむを得ないことであり、むしろ犯した後の行動が大切であるとしています。しかし、絶対に犯してならない過ちもあります。
それは、プロが知っていて害をなすことです。
これはプロにとって最大の責任であり、古代ギリシャの名医ヒポクラテスの誓いの中にも「知りながら害をなすな」という言葉で明示されています。ドラッカーは、この言葉こそプロとしての倫理の基本であり、社会的責任の基本であるとしました。



孔子は、本当の過ちについて述べています。
論語』衛霊公篇に、「過ちて改めざる。是れを過ちと謂う」とあります。
「過ちをしても改めない。これを本当の過ちというのだ」の意味です。
また学而篇には、「過てば則ち改むるに憚(はばか)ること忽(な)かれ」という言葉もあります。「過ちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ」というのです。
論語』には「過」という言葉がたくさん登場しますが、過ちを犯した後の態度は小人と君子では違うといいます。子張篇に「小人の過つや、必ず文(かざ)る」とあります。「小人が過ちをすると、必ず飾ってごまかそうとする」というのです。
一方で同じ子張篇に、「君子の過ちや、日月の蝕するが如し。過つや人皆なこれを見る、更(あらた)むるや人皆なこれを仰ぐ」という言葉もあります。「君子の過ちというものは日食や月食のようなもの。過ちを犯すと一目瞭然なので、誰もがそれを見るし、改めると誰もがみなそれを仰ぐ」というわけですね。
このように過失を犯してしまったら、決してごまかしてはなりません。
そして、反省した上で二度と同じ失敗を繰り返さないことが重要です。



ただ、失敗には「成功のもと」とか「成功の母」という一面があることも事実です。
「失敗学」というものを提唱している人に、工学者の畑村洋太郎氏がいます。
畑村氏は、著書『失敗学のすすめ』で次のように述べています。
「失敗はたしかにマイナスの結果をもたらすものですが、その反面、失敗をうまく生かせば、将来への大きなプラスへ転じさせる可能性を秘めています。事実、人類には、失敗から新技術や新たなアイデアを生み出し、社会を大きく発展させてきた歴史があります」
人は行動しなければ何も起こりません。世の中には失敗を怖れるあまり、何も新しい行動を起こさない人が多いようです。確かに、それで失敗を避けることはできるでしょう。しかし、アクションを起こさない者は何もできないし、何も得ることができないのです。
ドラッカーも、失敗が機会の存在を教えてくれるという考え方の持ち主で、『イノベーション起業家精神』(ダイヤモンド社)で次のように述べています。
「予期せぬ失敗の多くは、計画や実施の段階における過失、貪欲、愚鈍、雷同、無能の結果である。だが慎重に計画し、設計し、実施したものが失敗したときには、失敗そのものが、変化とともに機会の存在を教える」(上田惇生訳)


                    杖を持ちながら「信」を説く


最後に、「信」について話しました。
同じく、『孔子とドラッカー 新装版』で詳しく書いた内容です。経理というお金を扱うみなさんに何よりも必要とされるのは「信用」です。「信用第一」とよく言われますが、たしかに人間社会で「信用」ほど大切なものはありません。
論語』為政篇には、「人として信無くんば、其の可なるを知らざるなり」という言葉が出てきます。「信用は人と人が相交わる上で必ず必要な徳である」という意味です。
リーダーシップにおいても「信用」は重要です。上司は、何より部下から信用されなければなりません。『論語』子張篇には、「君子は信ぜられて而る後に其の民を労す」という言葉があります。「君子はまず十分に信用されてから民を使う」という意味です。
信用されていさえすれば、民は喜んで働いてくれるが、信用が得られていないうちに使うと、民は自分たちを苦しめようとしていると思って怨みを抱くというのです。
これは、古代中国のみならず、現代の組織にも通じる話ですね。



「信用」は「信頼」につながります。上司と部下には、当然ながら「信頼」が求められます。信頼なくして従う者はいません。では、信頼とは何でしょうか。
ドラッカーは、『仕事の哲学』(ダイヤモンド社)の中で次のように述べています。
「信頼するということは、リーダーを好きになることではない。つねに同意できることでもない。リーダーの言うことが真意であると確信をもてることである。それは、真摯さという誠に古くさいものに対する確信である。」(上田惇生訳)
ドラッカーは「強みを生かせ」と説きました。ならば、上司は部下の「強み」を生かさなければなりません。ある意味、それがマネジメントということなのです。
しかし、部下もまた上司をマネジメントすることを知る必要があります。
そして、その方法も、上司の「強み」を生かすことです。ドラッカーは述べます。
「上司をマネジメントするということは、上司と信頼関係を築くことである。そのためには、上司の側が、部下が自分の強みに合わせて仕事をし、弱みや限界に対して防御策を講じてくれるという信頼をもてなければならない。」(同)


          今日は『孔子とドラッカー 新装版』の配本日でした


お互いに「強み」を生かしあうことからくる信頼関係も、「真摯さ」を前提とします。
孔子ドラッカーも、ともに「信」こそリーダーシップの核心だと見抜いていたのです。
以上のように、今日から全国の書店に配本された『孔子とドラッカー 新装版』を中心とした話をしましたが、みんなメモを取りながら真剣に聞いてくれました。
社長訓話の後は、松柏園ホテルに場所を移し、懇親会が開かれました。

   
                     懇親会のようす



2011年7月20日 一条真也