『死ぬことが怖くなくなるたったひとつの方法』

一条真也です。

『死ぬことが怖くなくなるたったひとつの方法』矢作直樹・坂本政道著(徳間書店)を読みました。「『あの世』をめぐる対話」というサブタイトルがついています。
勇気の人」こと矢作直樹氏は、1956年生まれの東大医学部教授です。
ブログ『人は死なない。では、どうする』の本と同じく、矢作氏から贈呈された本です。


向こう側がわかれば、死ぬのはまったく怖くない!



一方の坂本氏は、モンロー研究所レジデンシャル・ファシリテーターです。
1954年生まれ。東京大学理学部物理学科卒、カナダトロント大学電子工学科修士課程終了。77年から87年まで、ソニー(株)で半導体素子の開発に従事しました。
87年から2000年までは、米国カリフォルニア州にある光通信半導体素子メーカーSDL社にて半導体レーザーの開発に従事。
2000年、変性意識状態の研究に専心するために退社。有名な「体外離脱」研究のメッカであるモンロー研究所のスタッフとして、『体外離脱体験』『死後体験』シリーズ、『絵で見る死後体験』『SUPER LOVE』『ヘミシンク入門』など多くの著書を上梓します。



本書の帯には、次のように書かれています。
「人は死んだらどうなる? あの世はいったいどこにある?
向こう側がわかれば、死ぬのはまったく怖くない!
『人は死なない』『死後体験』ベストセラー対談が実現」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
はじめに――「あの世」と「この世」をめぐって(矢作直樹)
序章:死を考えると「常識の壁」を超える
第一章:日本人と霊性
第二章:宗教、スピリチュアリズム、そして科学
第三章:三次元世界の実相
第四章:超常識な現象について
第五章:これからの生き方
おわりに――常識の壁を越えて(坂本政道)



「はじめに」で矢作氏は、これまで坂本氏の一連の著書を読み、あちらの世界を目に見えるように描いたことに大いに感動したと述べ、さらに次のように書いています。
「特に最初の著『体外離脱体験』の序文の“私は、大学で物理を専攻したぐらい徹底した物質論(唯物論)者だった。すべての現象は、物質とエネルギーで説明できると固く信じていた。人間の精神活動も、脳細胞の、つまりは、物質の作用だと信じて疑わなかった。この体験は、そういった考えが間違いであること、人間の存在はこの肉体だけではないこと、というよりむしろ、人間の本質はこの肉体(物質)から独立して存在し、精神とでも呼ぶべき非物質のものであることを明らかに教えてくれた。物質論的な考え方は誤りだった。――”というくだりは、衝撃的でした。体外離脱体験については、海外では近代になってからもスウェーデンボルグ以来、幾多の人たちの報告があるものの、物理学を修めた日本の現役のエンジニアがこのような詳細な記録を残したことにたいへんな感銘を受けたものです」



序章「死を考えると『常識の壁』を超える」で、坂本氏は次のように述べています。
「『死』は誰にとっても共通項です。にもかかわらず、世の中には、まだ『死』というテーマに対するタブーが根強くありますから、いい意味でそれを破りたいと思うわけです。
日本では現在、年間で約120万人が死んでいます。大都市1個分くらいが毎年死んでいるわけです。出生率はなかなか回復しませんし、他国と違って移民政策もありませんから、日本の人口は着実に減っています。今後は急激に減少するでしょう。
世界の人口は70億人を突破したそうですが、それでも毎年1億人は死んでいるはずです。世界的に見ると平均寿命が50歳くらいでしょうか。
この『毎年1億人が死んでいる』という数字のスケール感はすごいです。日本の人口分くらいが、毎年毎年、地上から消えているわけですから。2011年に起きた東日本大震災でも2万人前後の方々が死亡、もしくは行方不明になりました。そしてあの大震災で、皆感じたと思います。『死の問題は他人事ではない、実はすごく身近な問題なのだ』と。本当は常日ごろから、真剣に考えなければならないテーマです」



興味深かったのは、「固定観念によって簡単に色づけされてしまう」という坂本氏の話です。ある夫婦がUFOを見たそうですが、見たUFOを後になって絵に描くと、夫婦それぞれに形状が違っていたそうです。互いに「どうして嘘を言うのか」と口論になったそうですが、これについて坂本氏は述べます。
「人間が何かを見た時には、自己の記憶にあるいくつかのパターンを引っ張り出し、それを視覚映像として認識します。本当は2人ともエネルギー体みたいなものを見たのだと思いますが、それを見た瞬間、自分の中にすでにあるUFO像を持ってきてしまう。しかしお互いの頭にある像は当然違いますから、違うものを見てしまうというわけです」
また、坂本氏は「自分が見ている、認識しているはずのものは、自分の記憶からあるパターンを引っ張り出して、それに一番近いものを『見ている』わけです。しばらく見ているとパッと変わるんですが、その瞬間だけは、はっきりと認識させます。ここが怖い。認識というのは嘘をつくんだなと感じます」とも述べています。


第一章「日本人と霊性」で、矢作氏は日本人について次のように述べます。
「西洋では霊というかスピリットを感じても、先祖崇拝という感覚がないと言われます。ところがゲリー・ボーネル(心理学者、催眠療法家)いわく、日本人は霊的なものと先祖的なもの(=肉体的なつながり)の両方を併せ持つ、特殊な感覚の持ち主だと述べていますが、私はこの表現が腑に落ちました」
日本人の先祖崇拝について、矢作氏はさらに述べます。
「ただ、昔から先祖崇拝があったかと言えば、奈良時代飛鳥時代の前は、一般人は風葬していたので墓は持っていなかったはずです。もちろんそのもっと前の、例えば青森県三内丸山遺跡みたいに、5000年くらい前の縄文人たちは、ずっとその数千年、コミュニティーの構成分子が変わらず、そこには人が亡くなったら埋める場所という意味での墓というか、亡くなった人を『戻す場所』という感覚はあったように思えます。
ひょっとしたら、心の中にそういう墓の感覚を持っていたのかなと、思う部分もあります。
それこそ古代人たちにとっては、“つながる”といった時に、スピリット的にもつながるし、先祖という感覚でもつながる、つまりその両方を自然と持っていたのだろうと思います」


先祖を崇拝する日本人



わたしは、『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)に書いたように、先祖崇拝こそは日本人にとって最大の信仰であると考えています。
幕末の国学者平田篤胤はわが国の民間信仰の根幹をなすものとして「先祖祭り」を重視しました。氏神信仰などは「先祖祭り」の典型と言えます。
祭りの対象は、先祖代々の霊すなわち「祖霊」ということになります。
通常は33年の最終年忌をトムライアゲ・トイアゲといって、葉付塔婆やうれつき塔婆という塔婆を立てます。これを境に死者は死穢から清まり、先祖や神になるといいます。
最終年忌がすむと、位牌を流したり、墓石を倒したりする地方もあります。
ちょうど一世代たつと、死霊は個性を失って、祖霊という群霊体に融合し、子孫や郷土を守る先祖として祀られるわけですね。ドラマティックな「先祖」の誕生です!
今はやりのスピリチュアル用語を使えば、ここでいう「死霊」とは「ソウル」、祖霊という群霊体は「グループ・ソウル」ということになるでしょうか。
これまで宜保愛子細木数子江原啓之といった人々がテレビをはじめとしたメディアを騒がせ、「霊視」とか「占星術」とか「スピリチュアル」とか多様な表現を使ってきました。
でも、彼らのメッセージの根本はいずれも「先祖を大切にしなさい」ということでした。
日本人にとっての最大の信仰の対象とは「先祖」に他ならないことをメディアの申し子である彼らは熟知していたように思います。
まさに、伝統宗教から新興宗教新宗教、そしてスピリチュアルまで、日本人の精神世界における最大のコンセプトとは「先祖供養」なのだと思います。日本人にとっての三大宗教である神道・仏教・儒教も、いずれも「先祖崇拝」という共通点を持っています。



ところで、本書にはいわゆるオカルトの話題がたくさん登場します。
主に坂本氏がムー、アトランティスなどの超古代大陸、あるいはUFO、地球外生命などについて実在を前提として語っています。
矢作氏のほうも心霊に関してはかなり大胆な発言をしており、たとえば第二章「宗教、スピリチュアリズム、そして科学」の中で次のように語っています。
「飛び込み自殺のすべてがそうだとは思いませんが、あれは憑依の可能性が結構あるのだという話を聞いたことがあります。私自身、その可能性は否定できないと考えます。憑依は、実はそれほど珍しいことではないのですが、仮に憑依現象を科学で認めると、厄介な問題になってしまいます。
法曹関係者にも見えない世界が理解できる人がいますが、彼らが一番悩むのが憑依です。例えば、ある殺傷事件が憑依だと判明した場合、被疑者が心神喪失になってしまうと、その時点で無罪になってしまうからです。
これはつまり『憑依が存在する』ことを法律で認めることが、今の社会でできるのかという論争ですね。一般的には『そんなものは存在しない』とされます。その点は私たちのような医療関係者も、頭の隅に置いておかないといけないと思います」
正直言って、わたしは「東大医学部教授がここまで言うか!」と仰天しました。



同じく第二章に登場する「死ぬんだけれども死にたくないというパラドックス」という矢作氏の話も面白かったです。矢作氏は次のように述べています。
「100年後には死んでいるのに、でも何とかそこから逃れようとするという、これはある意味でのパラドックス(妥当に思える推論から受け入れ難い結論が導き出されること)です。そんなパラドックス感が人類のほぼすべてに存在するということが、逆に私には不思議でなりません。理解するかしないか、受け入れるか入れないかに関係なく、死は誰もが等しく現実に迎えるものであり、そこに執着しなくてもいいのだけれど、心構えとして意識の中に入れておいてもいいではないですか」


また坂本氏は「死は科学理論がすべて破綻してしまう出来事」だとして、モンロー研究所の創設者ロバート・モンローが開発した「ヘミシンク」について説明します。
ヘミシンクというのは意識の中心をずらすことで別の世界にアクセスするためのサポートツールです。人によっては、モンロー氏が体験した意味での体外離脱的なことをする人もいます。その場合、肉体はほとんど意識しません。別の世界を100%意識しているというか、自分はすでに別の次元に存在していると知覚する人もいます。
私の場合はそうではなくて、どちらかと言えばこの肉体を感じながら、他の世界のことを把握できるような感覚です。これは『バイロケーション』と言われます。つまり、2つの状態を同時に把握できるような感覚です。ヘミシンクというのは、そういうことも可能にするのです。その結果、実にいろいろなことがわかります。自分が持っている狭量かつ極めて三次元的な、要は物質世界的な価値観から、もっと大きくて悠然とした価値観にシフトします。すると、より『自由な身』になれます。今までの古い価値観や不要なものがたくさんありますから、そこから解き放たれ、もっと気軽で身軽になれます。
ヘミシンクはそのための方法です。山の頂上を目指すのにさまざまな方法があるのと同じことで、上の世界にアクセスするための、下の物質世界的な価値観からもっと自由な価値観へと移るための方法です」


 
第四章「超常識な現象について」では、矢作氏は「この世」と「あの世」は断絶していないとして、次のように述べています。
「病理で解剖というのがあります。ちょっと表現が悪いかもしれませんが、あえて言うと、身体がこんなになるまでよく生きていたなという状態の方に遭遇します。
1分1秒前まで、その身体が生きていたのだと思うと、非常に不思議なご遺体がたくさんあるのです。その時、私は理屈抜きに思います。
『本物は、本当のその人は、そこにいるはずがない』
そんなふうに直感で思ってしまうわけですね。
それは理屈ではありませんので、自分はそうだと感じたというくらいしか、ここでは表現できません。しかしこれは正直な感想です。臓器なんかもボロボロです。
ではそこにスピリットが入れば動くのかと言うくらい、どこもかしこもボロボロな身体を大勢見ていると、そこに感じるものがあるのです。
例えが適切ではないかもしれませんが、人が住まなくなった家はすぐに傷むと言います。家の中を掃除するとか、風を通したくらいで、そんなに違うものかなと、私は不思議でしょうがないのですが、人が住まなくなると傷みが早いのは事実だそうです。
要するに、肉体も家も、『器』や『入れ物』なんだと思います」
東大医学部教授にして東大病院における緊急医療の最高責任者である矢作氏の言葉だけあって、非常に説得力がありますね。


最後に、坂本氏の「死後世界の体験は一種の社会貢献である」という言葉が印象的でした。体外離脱とかチャネリングといった分野は広く世間に認知されてきたけれども、未だにトンデモ扱いされている現状であるとして、坂本氏は述べます。
「ロバート・モンローがヘミシンクを開発して、ある程度はシステマチックに死を超えた先を自分で体験できるようなアプローチを作りましたが、それがさまざまなメディアを通じて伝播されているのが、唯一の救いです。ヘミシンクを使えば、ギリシャ時代から懸案となっている『死後世界の問題』がはっきりするわけです。あとはもう少し、実験データというか現象を検証したデータが蓄積されると、より多くの人の理解度が高まります。その結果、常識として受け入れられるようになります」



ただし、向こう側の世界は夢と同じで、それぞれの人が自分の体験を通して知るという状況だとか。坂本氏は、夢について次のように述べています。
「夢というのはみんなが見ますから、誰も夢が存在することを否定しません。
夢というのは存在する、それと同じで、死後世界もみんなが体験すれば『存在するんだ』と納得します。科学という意味での証明にはならないかもしれませんが、皆が何らかの方法で死後世界を自分で体験し、死者と会って話をしたとか、すると死後世界の実在が当たり前になります。すると何が起きるか?
答えは、死に対する恐怖の激減です。これが大きな目的じゃないかなと思うのです」
これは、一種の社会貢献に当たるというのです。正直言って、本書における坂本氏の発言のすべてに納得したわけではありませんが、この「死に対する恐怖の激減」こそは社会貢献であるという考え方には大いに共感しました。


2012年8月20日 一条真也

『人は死なない。では、どうする?』

一条真也です。

今年のお盆は終わりました。でも、死者はつねに生者とともにいます。
『人は死なない。では、どうする?』矢作直樹・中健次郎著(マキノ出版)を読みました。
「東大医学部教授と気功の泰斗の対論」というサブタイトルがついています。


東大医学部教授と気功の泰斗の対論



本書は、「勇気の人」こと矢作直樹氏から贈呈された本です。
本書の著者の1人である矢作氏はブログ『人は死なない』で紹介した本の著者でもあります。もう1人の中氏は、気功家で鍼灸師だそうです。
本書の帯には、「静かで実直な魂に響く対話。目に見えない世界を深く感じました」という作家・田口ランディ氏の推薦の言葉が掲載されています。



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
はじめに「混迷の時代を生きるヒントにしてほしい」(矢作直樹)
第一章:生とは何か? 死とは何か?
(コラム)気にしないことが最善の健康法
第二章:病気とは何か? 老いとは何か?
(コラム)自分の体に耳を傾け、少食を実践
第三章:人は死んだら、どこへ行くのか?
(コラム)76キロでメタボだったのが、今は58キロ
第四章:見えないものの世界
(コラム)気功と瞑想――実践するためのヒント
終わりに「否定も肯定もせず、あるがままを愛してください」(中健次郎)



本書は対話集ですが、矢作氏の「気にしないことが最善の健康法」というコラムが興味深かったです。コラムの冒頭で、矢作氏は次のように書いています。
老いとはなんでしょうか。これに対する私の見解は、『死に対する準備期間』ではないかというものです。もしも仮に、人生のピークが80歳だったとすれば、80歳になって死期が近いといわれても、それに納得して死ねるかたは少ないでしょう。
実際は、20歳前後をピークとして、体のさまざまな機能がゆるやかに衰えていきます。これはつまり、少しずつ死への心構えを育てることにもなるわけです。こうした意味でも、人間というのは、よく作られたものなのです」
また、同じコラムの最後は、次のように書かれています。
「私の健康法を強いて挙げるなら、『極力気にしないこと』ということになるでしょう。『老いたらどうしよう?』『ハゲたらどうしよう?』といったことでは、いっさい思い悩まないことが肝心です。いつだったか、私があまりに服を持っていないので(いい服を着たいという欲求がまるでないのです)、知人からひどくあきれられ、驚かれたことがありました。最近、よく感じることですが、物への執着をなくせば、ストレスというものはびっくりするほどへるものです。老いへの執着にとらわれず、すなおに受け入れることが、ある意味でほんとうのアンチエイジングなのかもしれません」



また、次のような矢作氏の古神道に関する発言も興味深いです。
古神道の1つで、白川伯王家、あるいは、通称伯家により伝えられてきた『伯家神道』と呼ばれる神道があります。白川伯王家は、神祇伯として神拝作法の伝授や神職免許の授与を行い、伝統的な宮中祭祀や特殊な神事・神法を担い、その作法や行事を伝承してきました。この中で、特殊神事として密かに継承されてきたものが、『祝之神事』と呼ばれるものです。『祝之神事』は、皇太子が天皇践祚されるときに、神と天皇が不二一体になられる非常に重要な神事だといわれています。一説には、明治天皇は、そうやって得た霊力によって多くの人間のスピリチュアル・ヒーリングを行ったともいわれています。明治の元勲たちが明治天皇に心酔していたのはそのためだともいうんですね」
明治天皇がスピリチュアル・ヒーラーだったとは初耳ですが、天皇家とも関わりの深い矢作氏の言葉であるだけに重みがあります。



矢作氏は、次のように葬儀や供養についても発言しています。
「こちら側の人間は供養を捧げたり、亡くなった人に感謝の気持ちを持ったりすれば、じゅうぶんなのではないかと私は思います。感謝の気持ちは、必ずあの世の家族にも伝わりますから。後は、こちら側で元気に暮らしているのがいちばんです。向こう側にいる人も、それをなによりも喜ぶのです」



本書では「死」そのものについても大いに言及されていますが、「死の恐怖は、向こう側へ気安く飛ばないための安全弁」として次のように語られています。
【矢作】 死が怖くなかったら、大変なことになります。人間のような未熟な意識の場合、もしも死んだ後、どうなるかということがはっきりわかってしまったら、浅薄な結論に飛びつく人が大量に出現するのではないでしょうか。例えば、善良に生きて死んだ後、だれでも天国へ行けるとわかったら、未熟な意識は、このめんどうな生にさっさと見切りをつけて、どんどんあの世へと行ってしまうおそれがあるんですね。
【中】 確かにそうですね。いかにもありそうな話です。
【矢作】 つまり、死への恐怖というのは、ある意味では、私たちが向こう側へ気安く飛ばないようにする安全弁のような働きをしていると思うんです。この肉体というものは、非常にうまくできている。人間の脳はすばらしいというけれど、しかし、脳も、また、もっと高い存在から見れば、非常に出来が悪いわけです。その出来の悪い脳のフィルターを通して、私たちはすべてを見ている。



本書の中で、中氏は多くの神秘家あるいはオカルティストについて語っています。
中でも驚いたのは、中氏はかのサイババの超能力を今でも信じていることでした。
サイババについては、ブログ「サイババ死す」で詳しく書きました。「終わりに『否定も肯定もせず、あるがままを愛してください』」で、中氏は次のように述べています。
「私は、自分が過去に出会った何人かの聖人や覚者についてふれています。しかし、会話が進み、矢作先生の仕事ぶりや人柄、考え方を深く知るにつれ、私の目の前にいるこの矢作先生こそ、寡欲で執着心のない賢者であり、里の仙人なのだという思いが強まっていきました。今も、その気持ちは変わっていません。こういうと、矢作先生はきっと謙遜して、首を振って否定なさるに違いありませんが」



わたしは、矢作氏に実際にお会いしたことがあります。
ブログ「矢作先生との再会」に書いたように、つい先日もお会いしました。
わたしも、「寡欲で執着心のない賢者」や「里の仙人」という表現には大賛成です。
矢作氏と話していると、不思議と魂が浄化される気がします。
本書は、東大医学部教授でありながら「人は死なない」という真実を堂々と語る「勇気の人」こと矢作直樹氏の人となりを知る最適の一冊であると言えるでしょう。


2012年8月19日 一条真也

『オカルト』

一条真也です。

8月15日は、67回目の「終戦の日」です。
『オカルト』森達也著(角川書店)を読みました。
著者は、ドキュメンタリー映画監督、テレビ・ドキュメンタリー・ディレクターです。特に「A」や「A2」などのオウム真理教関連のドキュメンタリー映画を製作したことで知られます。
そして、ノンフィクション作家としても多くの作品を書き、やはりオウムについての『A3』(集英社インターナショナル)で講談社ノンフィクション賞を受賞しました。


現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ


著者は1956年5月10日生まれで、わたしと誕生日が同じですね。ご本人は立教大学の出身ですが、現在、早稲田大学明治大学客員教授を務めています。
わたしは、著者が書いたノンフィクションをほとんど読んでいます。
オウムにはじまって、「放送禁止歌」とか「悪役レスラー」とか「死刑」とか非常に興味深いテーマが多く、どれも読み応えがあります。
中でも「超能力」をテーマにした『職業欄はエスパー』(角川文庫)は、わたしにとって特別な一冊です。なぜなら、同書に登場する3人のエスパー(超能力者)のうち、清田益章秋山眞人の両氏とは親しくさせていただいていたからです。
ブログ『ルポ 現代のスピリチュアル』にも書きましたが、以前、わたしが経営していた(株)ハートピア計画で「超能力」をテーマにした本を企画し、清田益章さん、秋山眞人さん、わたしの3人で鼎談本を作ったことがありました。
東京都港区高輪の泉岳寺に隣接したオフィスで、3人で大いに語り合いました。
その本は残念ながら刊行されませんでしたが、大変なつかしい思い出です。
清田さんは、スプーン曲げの代名詞的存在でした。秋山さんは、UFO呼びや霊視などを得意としていました。この2人に加えて、振り子を使って人の潜在意識を呼び起こして森羅万象の疑問に答えるという「ダウジング」の第一人者である堤裕司さんの3人が『職業欄はエスパー』で取り上げられました。
そして、10年ぶりに刊行された同書の続編が本書『オカルト』です。もともと、「本の旅人」(角川書店)で2008年10月号から2011年5月号まで連載されていた「職業欄はエスパー2」を再編集の上、大幅に加筆修正し、書き下ろし原稿を加えたそうです。



まず、本書は装丁が素晴らしいですね。装画は一見すると横尾忠則風ですが、よく見るとちょっと違います。扉の向こうから光が漏れてくる描写はテーマとも合致して、なかなか味があります。シライシュウコさんの作品だそうですが、いい絵を描かれる方ですね。
帯には、作家の伊坂幸太郎氏が以下のような推薦文を寄せています。
「人間の力を超えた『オカルト』を追う森さんの姿は、とてつもなく人間味に溢れていて、しかも『フェアでありたい』という思いが伝わってくるからか、読んでいてこちらも『頼む! 超能力、成功して!』と祈らずにはいられませんでした。青春小説のように、もしくは、ホームズの冒険のようにも読めて、とにかく面白いのです」
また、黄色い文字で「それは科学か? インチキか? 本当のオカルト(隠されたもの)か??」と書かれ、「講談社ノンフィクション受賞後第1作」となっています。



さらに帯の裏にも、次のように書かれています。
「数年ごとに起きるオカルト、スピリチュアルブーム。
繰り返される真偽論争。何年経っても一歩も進まないように見える世界。
なぜ人は、ほとんどが嘘だと思いながら、この世界から目をそらさずに来たのか? 
否定しつつ惹かれてしまう『オカルト』。――いま、改めて境界をたどる。」
エスパー、心霊研究者、超心理学者、スピリチュアルワーカー、怪異蒐集家、陰陽師、UFO観測家、臨死体験者、メンタリストetc.に直撃!!」
とにかく、この帯、表も裏も情報満載なのです。
的確に内容が紹介されており、装丁同様に帯も良く出来ていると思いました。



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
開演:「でもオレは結局曲げちゃうよ」
   “超能力者”はふてくされたように言った
第1幕:「よく来てくれた。そしてよく呼んでくれた」
    恐山のイタコは語り始めた
第2幕:「現状は、誠実な能力者には不幸でしょう」
    オカルト・ハンターの返信はすぐに来た
第3幕:「僕たちはイロモノですから」
    “エスパー”は即答した
第4幕:「いつも半信半疑です」
    心霊研究者は微笑みながらつぶやいた
第5幕:「わからない」
    超心理学の権威はそう繰り返した
第6幕:「批判されて仕方がないなあ」
    ジャーナリストは口から漏らした
第7幕:「当てて何の役に立つんだろう」
    スピリチュアル・ワーカーは躊躇なく言った
第8幕:「毎日、4時40分に開くんです」
    店主はてらいがなかった
第9幕:「解釈はしません。とにかく聞くことです」
    怪異蒐集家は楽しそうに語った
第10幕:「これで取材になりますか」
     雑誌編集長は問い質した
第11幕:「僕はこの力で政治家をつぶした」
     自称“永田町の陰陽師”は嘯いた
第12幕:「匿名の情報は取り合いません」
     UFO観測会の代表は断言した
第13幕:「今日はダウジングの実験です」
     人類学者は口火を切った
第14幕:「今日の実験は理想的な環境でした」
     ダウザーはきっぱりと言った
第15幕:「あるかないかではないんです」
     超心理学者は首をかしげてから応じた
第16幕:「夢の可能性はあります」
     臨死体験者はそう認めながら話し出した
第17幕:「わからないから研究したい」
     科学者たちは当然のように答えた
第18幕:「僕らは超能力者じゃあありませんから」
     メンタリストはあっさりと言い放った
終幕:パラダイムは決して固着しない。
    だからこそ、見つめ続けたい


本書の冒頭の「開幕」には、清田益章さんが登場します。
著者は少年時代から彼がメディアによって人生を翻弄されてきたとしながら、次のように有名な超能力騒動について書いています。
「日本近代史における超能力は、その発端からメディアと結びついていた。1910(明治43)年9月14日、東京帝国大学福来友吉博士による千里眼(透視)実験が行われた。被験者となったのは、そのころ千里眼の持ち主として巷で大きな評判になっていた御船千鶴子だ。東京帝国大学元総長の山川健次郎が紙片に文字を書いて鉛管に入れ、千鶴子は鉛管の中の文字の透視に成功した。ところがその後に、鉛管の中に入っていたのは山川が文字を書いた紙片ではなく、福来が練習用に千鶴子に与えた紙片であったことが発覚した。鉛管そのものが入れ替わってしまった可能性もある。明らかに実験する側の不備なのだが、新聞各紙は千鶴子の透視能力について、きわめて否定的な論調を強く打ち出した。結果として千鶴子は自殺する。新聞や世間からのバッシングに耐えられずに自殺したとの解釈が多いが、この時期に家庭内の問題もあったし遺書は残していないので、その断定は難しい。
御船千鶴子が自殺してからも、千里眼を持つ他の候補として長尾郁子や高橋貞子らを発掘した福来博士は、念写や透視の実験をくりかえし行った。
しかし彼女たちもまた、実験後に実験の不備を指摘されるというパターンで、メディアによる激しいバッシングの標的となった。
千里眼騒動で始まったメディアと超能力との関係は、斥力と引力とを常に滲ませながら、その後の歴史を綴ってゆく。特にテレビ時代が始まって以降、超能力にとってメディアは、生存のためのきわめて重要な環境因子のひとつとなった。だから相互に依存し合いながらも、結局のところ優位にあるのはメディアのほうだ」


   

「開幕」の最後には、清田さん以後にスプーン曲げで話題を呼んだ綾小路鶴太郎、その死後に登場したアキットらの能力についても触れられています。
わたしも彼らのスプーン曲げをテレビで観たことがありますが、スタッフが用意した硬いスプーンを、いともたやすく一瞬で湾曲させたりねじったりしていました。彼らのスプーン曲げは「長野曲げ」というそうですが、かのユリ・ゲラーのそれとも明らかに違います。
アキットは自身を「超能力者」ではなく「魔法使い」と名乗っていますが、そのスプーン曲げを著者と一緒に観察した秋山眞人さんは「きわめて効果的な腕力の使い方と超能力の融合と考えるべきでしょうね」と感想を述べたそうです。


「第1幕」では、恐山のイタコが取り上げられます。
「イタコ」は、多くの日本人にとって死者と会話する霊媒の代名詞とも言えるでしょう。
自ら恐山を訪れイタコとも面談した著者は、次のように書いています。
霊が降りてきてイタコに憑依するのではなく、降りてきた霊はイタコとまずは会話をして、それからイタコは霊の言葉を依頼者に伝えるという手順のようだ。つまりイタコは通訳のような役割なのだ。それが一般的な解釈なのかどうかはわからないけれど、少なくともこのタクシーの運転手は、そう断言した。
東北弁のマリリン・モンローが降りてきたなどとよく笑い話のように語られるけれど、その現象はこれで説明がつく。イタコは霊に自らの身体を提供して喋らせるのではなく、霊をまずは自らの内側に降ろして会話し、その会話の内容を依頼者に伝えるという手順なのだ。どうやってマリリン・モンローとコミュニケーションしたのかという謎は残るが、交わした会話の内容を人に伝えるときに、自分の母語(東北弁)に翻訳することは当然だ」



また、ブログ『恐山』でも紹介したように、彼らは恐山やその菩提寺などとは関係のない個人営業主のような存在です。そのイタコと仏教(恐山の場合は曹洞宗)との微妙な関係についても、著者は次のように書いています。
「宗派によって若干の違いはあるが、仏教の教義としては、死んだ人の魂は六道輪廻する。あるいは浄土に行く。宗祖である仏陀(釈迦)に至っては、死んだ人の魂や来世のことなど、一切口にしていない。基本の理念は無常と縁起なのだ。あらゆるものが移ろいゆく。魂だけが不変であるはずがない。宗教よりもむしろ哲学に近いとされる所以はここにある。ただし死後の世界を担保することは、最大の現世利益だ。死んで消えますでは布教ができない。だから仏教は伝播する過程で世俗化した。
成仏や供養などの概念を、釈迦入滅後に加算した。
加算はしたけれども教義的には(お盆の時期は別にして)、死んだ人たちに気軽に帰って来られたら困るのだ。だから寺としては、イタコの存在を肯定しづらい。しづらいというかできない。それは想像がつく。でも同時にイタコたちがいなければ、これほどに立派な宿坊を維持するほどの観光客が集まらないことも確かだ。片頬に曖昧な微笑の余韻を貼りつけながら、僧侶は困ったように首をかしげ続ける」



本書では、オカルトは、見たい者に対し時に現れて、認めない者が現れた途端に隠れるということが繰り返し述べられます。
心霊にしろ超能力にしろUFOにしろ、「絶対に間違いない」という目撃者が存在する一方で、その現象がきちんと記録されていないのです。
著者も、このジャンルには「よりによってそのときに」や「たまたまカメラが別の方向を」式の話法がとても多いことを認めています。
スプーン曲げなど超能力のデモンストレーションだけではありません。
「霊を見た」とか「雪男に遭遇した」などの体験談にしても、シャッターを切ったのにカメラには映っていなかったとか、足跡だけが確認できたなどのパターンが見られるのです。
この問題について、自身が映像作家でもある著者は次のように述べます。
「ジャンルそのものが意思を持つのか、大きな意思が人から隠そうとするのか、あるいは人が無意識に目を逸らそうとしてしまうのか、それとも所詮はトリックやイカサマばかりだからなのか、それは今のところわからない。
わからないけれど、そんな力が常に働いているともし仮定するならば、映像と音声メディアが誕生した20世紀以降、オカルトはその『隠れたい』(あるいは『隠したい』)との衝動をさらに激しく揺さぶられ、そして引き裂かれてきたはずだ。なぜなら発達したメディアは、隠されてきた何かにかつてとは比べものにならないほどの量の光を当てながら、やはりかつてとは比べものにならないほどの数の衆人の視線に晒そうとするのだから」



そして、サブタイトルにもなっている「現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」という本書のテーマについて、著者は述べます。
「オカルトは人目を避ける。でも同時に媚びる。その差異には選別があるとの仮説もある。ニューヨーク市立大学で心理学を教えていたガートルード・シュマイドラー教授は、ESPカードによる透視実験を行った際に、超能力を肯定する被験者グループによる正解率が存在を否定する被験者グループの正解率を少しだけ上回ることを発見し、これを『羊・山羊効果(Sheep−goateffect)』と命名した。
この場合における『羊』は超能力肯定派を、そして『山羊』は否定派を示している。つまり超能力を信じる者たち(羊)が被験者となる実験では、超能力の存在が照明されるかのような結果が出るのに対し、超能力に否定や懐疑の眼差しを向ける者たち(山羊)が被験者となる実験では、超能力を否定するかのような結果が出る現象が羊・山羊効果だ。
つまりどちらにせよ、現象が観察者に迎合する。媚びようとする。あるいは拒絶する」


この「羊・山羊効果」という言葉は、オカルトについて考える上でのキーワードになりますが、これについて秋山眞人さんも本書の中で次のように述べています。
「歴史をさかのぼって調べれば調べるほど、羊・山羊効果や見え隠れ的な側面を実感します。だからオカルトなんですね。つまり隠されたもの。カルタの語源との説もあります。伏せて隠すもの。もしかしたら解明してはいけないジャンルなのかもしれない。調べれば調べるほど、それを実感します。例えば現象の解明について画期的な証拠をつかんだ研究者が急に早死にしたりとか、認められそうになると不慮の事故が起きたりとか、そんな事例はとても多い。福来友吉博士の透視実験もそうです」


本書の中で特に興味深かったのは、著者がプロレスについて述べた部分です。
ノアの三沢光晴が試合中の事故で死亡した直後、著者は「プロレスのこれから」というテーマでインタビューを受けたのです。かつては東京ドームを満員にしたプロレス界も、総合格闘技ブームの影響などにより完全に衰退してしまいました。
まあ、現在ではその総合格闘技さえも衰退してしまったわけですが。
いずれにせよ、プロレスの人気は低下し、観客動員数は減り、テレビ放送は打ち切られ、選手たちは無理をし、ついには悲惨な事故が起こる・・・・・このような「負のスパイラル」に巻き込まれていったわけです。しかし、プロレスに関する著書もあり、基本的にプロレスの味方である著者は次のように述べます。
「実のところ、僕はこの状況を、それほど悲観的に捉えているわけではない。プロレスとはそもそもが日陰のジャンルだ。華々しいスポットライトを浴びるようなジャンルではない。カーニバルや場末の酒場に発祥した、不健全で隠微で薄暗いジャンルなのだ」
そして、プロレスについて話しながら、著者はオカルトのことを考えていたそうです。
ダーウィニズム(市場原理)の観点から考察すれば、オカルトは今、どのような位相にあるのだろう。誰が求めているのだろう。誰が嫌悪しているのだろう」と書いています。



プロレスとオカルトを結びつける著者の発想には強く共感しました。
なぜなら、わたしもよくこの2つのジャンルを関連づけて話すからです。
「フェイク」という言葉をご存知でしょうか。ニセモノという意味ですが、この言葉がよく使われるジャンルが2つあります。オカルトと格闘技です。
映画「トリック」を観てもわかるように、超能力者とか霊能力者というのは基本的にフェイクだらけです。わたしも、以前よくその類の人々に会った経験がありますが、はっきり言ってインチキばかりでした。でも、スウェデンボルグとか出口王仁三郎といった霊的巨人は本物であったと思っています。
わたしが実際に会った人物では、清田益章さんのスプーン曲げや東急エージェンシー時代のの先輩であるタカツカヒカルさんのヒーリング・パワーは今でも本物じゃないかと思っています。ですから、すべてがフェイクではなく、本当にごく少数ですが、なかには本物の能力者もいるのでしょう。



次に格闘技。わたしは子どものころから格闘エンターテインメントとしてのプロレスをこよなく愛し、猪木信者、つまりアントニオ猪木の熱狂的なファンでした。
でも、何千という猪木の試合のなかで、いわゆるセメント(真剣勝負)はかのモハメッド・アリ戦とパキスタンの英雄、アクラム・ペールワン戦の2回だけと言われています。
だから良いとか悪いとかではなく、それがプロレスなのです。
でも、わたしは逆にその2回に限りないロマンを抱きます。
また、力道山vs木村政彦前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント小川直也vs橋本真也といった試合は一方の掟破りでセメントになったとされ、今では伝説化しています。
やはりフェイクだらけの中にある少しの本物に魅せられる。
オカルトも格闘技もフェイクという大海のなかにリアルという小島があるわけです。
それらの世界に魅せられる人々は、小島をさがして大海を漂う小舟のようですね。



ついでに言えば、スナック、クラブ、キャバクラなどの水商売も同じです。
水商売の女性との心の交流は、はっきり言って、擬似恋愛であり、ホステスが演技をして恋人ごっこをしてくれるわけですが、時々、ホステスさんが本気で客と恋愛することがあります。この数少ないロマンを求めて、男たちは懲りもせず飲みに出かけるのですな。
つまり、「オカルト・プロレス・水商売」はオールフェイクではないのです!
それらのジャンルは限りなく胡散臭くて、基本的にウソで固めています。
しかしながら、中には紛れもない「リアル」が隠れている。
霊能力者もプロレスラーもホステスも、中にはガチンコの本物が実在する。
オカルトもプロレスも水商売も「リアルさがし」のゲームであり、冒険の旅であると考えるのなら、「ダマサレタ!」と腹も立たないのかもしれません。



でも、本書のテーマは「リアルさがし」のゲームではありません。
あくまでも、著者は本書で「リアルとは何か」を追求しています。
オカルトの本質を突き詰めるなら、やはり宗教にさかのぼります。
著者も、次のように述べています。
「最も初源的な宗教のアーキタイプは、自然界のすべての現象や物質に霊的な心象が宿ると考えるアニミズムだ。日本に仏教が伝来するはるか前の縄文時代から、人々は死んだ人の腕や足の関節を無理矢理に曲げて埋葬していた。いわゆる屈葬だ。その意味については諸説あるけれど、死後の魂が災いを為さないようにと考えたとする説が一般的だ。2007年にシリアで発見された世界最古(8500年前)の墓地から掘り出された遺骨のほとんども、やはり手足が折り曲げられていた。
つまりオカルトは、人類の歴史とともにある。
でもならば有史以降、あるいはメディア発達以降、オカルトは少しでも前に進んだのだろうか。あるいは後退したのだろうか。あるいは横にずれたのだろうか。
何も変わらない。見事なほどに。アニミズムやトーテミズムのころから、オカルトはこの社会において、同じ位置にあり続ける。しぶとく残り続ける。同じ形のまま。同じ量のまま。まるで存在することそのものが、存在する理由であるとでもいうかのように」


そして、340ページを超す本書の「終演」の終わりに、著者は次のように書いています。
「今こうしているあいだにも、オリオン座ベテルギウス超新星爆発を起こしているかもしれない。バルト海の深さ84メートルの海底で発見されて世界的なニュースになった巨大な円盤状の物体の正体が、判明しているかもしれない。理論上の存在で『神の粒子』と呼ばれたヒッグス粒子が、はっきりとその姿を現すかもしれない。2011年に東南アジアで発見された下顎に歯を持つカエルは、進化の過程で失われた身体的な構造は二度と復活しないとする『ドロの法則』(進化非可逆の法則)を覆すだろうと言われている。光を媒介するエーテルの存在は否定されたけれど、重力レンズ効果などの観測方法で、ダークマターの存在はほぼ証明された。パラダイムは決して固着しない。常に揺らいでいる。説明できないことや不思議なことはいくらでもある。確かにそのほとんどは、錯誤かトリックか統計の誤りだ。でも絶対にすべてではない。淡い領域がある。曖昧な部分がある。そこから目を逸らしたくない。見つめ続けたい」
ここで著者は、「理論上の存在で『神の粒子』と呼ばれたヒッグス粒子が、はっきりとその姿を現すかもしれない」と書いています。
この文章が書かれたのは、2012年3月ですが、それから4ヵ月後、現実にヒッグス粒子が発見されたことは記憶に新しいですね。
本当に、この世は何が起こるかわかりません。
たしかに、「羊・山羊効果」も存在するのでしょうが、いつかわたしたちの前に「隠れるモノ」が「現れるモノ」となる可能性はゼロではないのです。



それにしても、この文章はなんと格調高く、優しいことでしょうか。
著者の書いた本に『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(ちくま文庫)という名著がありますが、まさにそういった感じの文章です。
著者のルポは、いつも誠実な語り口によって書かれており、読んでいて安心できます。
本書でも、オカルトに関わる人々を軽蔑したりする悪意はまったく感じられません。
オカルト現象そのものに対しても、安易に信じることもしませんが、また一方的に否定もしません。本書にも、「世界」や「人」への根本的な愛情が流れているように感じました。わたしの書斎には、著者が監督したドキュメンタリー映画「A」「A2」、そして著書『A3』もあります。いつか、これらの作品も味わってみたいと考えています。


2012年8月15日 一条真也

『オカルト「超」入門』

一条真也です。

『オカルト「超」入門』原田実著(星海社新書)を読みました。
さまざまなジャンルのオカルトの歴史を作った重大事件について、その成り立ちと背景を歴史研究家の視点から解説した本です。


歴史と背景から学ぶ決定版!



著者は、ブログ『もののけの正体』で紹介した本も書いています。
また、トンデモ本を批判的に楽しむ団体である「と学会」の会員でもあります。
本書の帯には、いわゆる「アダムスキー型・空飛ぶ円盤」の写真とともに「ソ連への恐怖がUFOを生み出した!」「歴史と背景から学ぶ決定版!」と書かれています。
カバーの折り返しには、次のような内容紹介があります。
「UFO、超能力、オーパーツ、UMA、心霊・・・・・オカルトは教養だ!」
「本書は、オカルト史を形作った“オカルト重大事件”について、その成り立ちと背景を歴史研究家の視点から解説したものだ。オカルトは好き者の道楽や雑学だと思われがちだが、歴史家の視点で見ると全く違った顔を見せる。実はオカルト世界の事件や遺物・文献などは、その時代を反映したものばかりなのだ。例えば1950年代以降に発生したUFO目撃現象には、冷戦下での米国民の不安が色濃く影を落としている。そう、オカルトとは単純に『信じる・信じない』の不思議な現象ではなく、その時代の社会背景をも取り込んだ『時代の産物』なのだ。そして、オカルトの世界を覗き見ることで、この世界を『異なる視点』で読み解くことができるようになる。さあ、教養としてのオカルトの世界へ旅立とう」



本書の「目次」は、以下のようになっています。
序文:オカルトが教養になるために
第1章:UFOと宇宙人
第2章:心霊と死後生存
第3章:超能力・超心理学
第4章:UMAと超地球人
第5章:超古代文明オーパーツ
第6章:フォーティアン現象
第7章:超科学
第8章:予言
第9章:陰謀論
終章:オカルトがわかれば世界がわかる



本書を一読して、わたしは「じつに、よく、まとめられているな」と思いました。
もののけの正体』のような雑駁さは、本書にはまったく見られません。
正直言って、「自分も、こんな本が書きたかったな」と思いました。
もし本書のテーマでわたしが書くなら、おそらく『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)のようなスタイルになると思います。
わたしは、これまでに著者の本を何冊か読んできました。
「と学会」の会員であることから、いわゆるオカルト否定派なのかと思われがちですが、どうも著者の場合はそうではありません。
オカルトを信奉するのではなく、かといってトンデモ論で一蹴したりもせず、さまざまなオカルト現象の背景にある社会情勢などを考えており、その姿勢には好感が持てます。


帯にも写真が掲載されていますが、「アダムスキー型」と呼ばれるUFOがあります。
ジョージ・アダムスキーという人物が遭遇したという空飛ぶ円盤です。空飛ぶ円盤に乗り込み、宇宙人とも会ったというアダムスキーは、いわゆる「コンタクトの先駆け」です。彼は天文台勤務者を自称していましたが、著者は彼は天文台に勤務していたのではなく、天文台の近くのハンバーガーショップで働いていたにすぎないと明かしています。でも、それをセンセーショナルに書くのではなく、あくまで淡々と書いています。
そんな著者ですが、どうしてオカルト現象の数々を検証しようとするのでしょうか。



著者は、序文「オカルトが教養になるために」で、「オカルトが好きだからこそ、検証」するとして、次のように述べています。
「オカルトの話題について、情報の真偽を問うたり仮説の検証を行なったりする人は、しばしばオカルト嫌いとみなされていまいがちだ。時には、無粋だと言われることもある。
しかし、人は本当に好きなもの、関心があるものに関しては、偽物や出来の悪い物をつかまされるのを拒むものである。エルメスのブランドマークらしきものが入ってさえいれば、どんな紛い物でも買うというエルメスのファンはいない。
ところが、オカルトに関しては、ファンなら内容にこだわらないはずないというおかしな認識が蔓延しているわけだ。それは多くの人に、『オカルトなどうさんくさいものだ』という思い込みがあるからかもしれない。
もともとうさんくさいものなのに、検証などしてどうなるのだというわけだが、考えてみれば、それこそオカルトに対して失礼な話である。
本当に不思議なものを求めるには、不思議とされているものの中から、実は不思議ではなかったものを丁寧によりわけていく作業が必要だろう。
その結果、ほとんどの事例が、不思議でもなんでもないということになるかもしれない。しかし、不思議なものに関心がある限り、この作業をやめるわけにはいかない。
世界のどこかに、未だ隠された、本当に不思議なものが転がっているに違いない――少なくとも、その可能性を否定はできないと思うからだ」
この著者の考え方、よくわかります。というより、共感しますね。


わたしも、子どもの頃から「不思議なもの」には人一倍関心があるほうなのですが、本書を読んで、いろいろと納得したことがありました。
たとえば、ネス湖ネッシーに代表される「湖の怪物」というものがあります。
ネッシーを筆頭に、カナダのオカナガン湖に棲むというオゴポコ、アフリカ大陸コンゴのテレ湖に棲むというもモケーレ・ムベンべといった世界の怪物たち、日本では北海道・屈斜路湖のクッシー、洞爺湖のトッシー、山梨県本栖湖のモッシー、鹿児島県・池田湖のイッシーなどが有名です。その正体については、恐竜や首長竜の生き残り、ウナギやチョウザメといった大型の魚、ナメクジのような軟体生物の巨大なもの、アザラシやジュゴンのような大型の水棲哺乳類といった説があります。
しかし、じつはこれらの説のいずれでも湖の怪物は説明できません。
このことを踏まえて、著者は次のように述べています。
「生物学者でUMA(未確認動物)にもくわしい佐久間誠氏が指摘していることだが、湖の水面では空気中の酸素が水に溶け込んでいるものの、それを下の方に運ぶ対流が起こりにくい。そのため、つねに潮流でかきまわされている海と違い、水深わずか数メートルくらいのところから無酸素の層が広がってしまう。
つまり、水中の酸素をえらで呼吸する魚や軟体動物にしても、肺で空気を直接呼吸する必要がある恐竜や大型哺乳類にしても、長い間、湖底に身を潜めることができないのだ。水面近くにいるところをしょちゅう目撃される動物なら、謎の怪物扱いはされないだろう。つまり湖の怪物は、ずっと湖底に身を潜めることができる既知の動物ではない異質の生物か、生物以外の何物かとしか言いようがないのである」
この説明、非常にわかりやすいと思いました。


また、マヤ暦に基づいて2012年前後に人類が滅亡するという有名な予言についても、著者は明快に解説します。まず、わたしたちの使っている暦は12年で1周し、さらに60年で還暦を迎えます。干支を用いているわけですが、これは古代中国で発祥し、日本や朝鮮半島ベトナムなどを含む漢字文化圏に広まったものです。循環する暦においては、暦の単位の始まりと終わりがあることは終末の到来を意味しません。
むしろ世界の永続性を保証する方向に働くのであり、このような時間概念の下では、個々の国が亡んだとしても、その滅亡は世界全体にまでは及びません。
それを踏まえて、著者は次のように書いています。
「日本で毎年、正月になるとあちこちで聞こえてくる唱歌『一月一日』(千家尊福作詞・上眞行作曲、1893念発表)の歌いだしには『年の始めのためしとて終なき世のめでたさよ』とあるが、このような観念は循環する暦を用いていることと無関係ではないだろう。
一方、ユダヤ教キリスト教イスラム教の共通の教典である『旧約聖書』は、世界が神による創造を起点として、あらかじめ予言された終末へと向かうという直線的時間観念を内包している。マヤの暦は中国や日本の干支と同様、循環的時間概念に基づいていた。2012年終末説なるものは、マヤの暦を誤読した結果、生じたものだったのである」
これまた、非常にわかりやすい説明ですね。
読者は、2012年に人類が滅亡しないという根拠を知り、安心します。


さらに、「陰謀論」についても、著者は次のように一刀両断に斬ります。
陰謀論は、この世界が明確な神の意志によって支配されているというユダヤキリスト教的世界観の粗悪なパロディである。聖書では、歴史は神の計画によって動くわけだが、陰謀論者の世界観では陰謀が神の計画に代わって歴史を動かしている。
陰謀論者の脳裏で、この世界の支配者である(あるいは支配者たらんとする)陰謀の黒幕が、全知全能に等しい力を持ってしまうのもおかしくはない。そして、その陰謀を見抜く自分は、その全知全能の力に迫っているわけである。逆説的だが、陰謀論者にとって、陰謀の黒幕と自らの関係は聖書における神と預言者の関係にも等しい。つまり、神が預言者にその計画を教え、民に広めさせるように、陰謀論者は陰謀の黒幕がもたらすメッセージを読み解き、その陰謀を世界に広めるのである。
あいにく彼(もしくは彼女)が明らかにした陰謀もその黒幕も、脳内にしか存在しないものだったりするわけだが」


カバラ」「グノーシス」「スーフィーズム」について書きました



著者の発想には、つねにユダヤキリスト教的世界観というものを背景にしていることが興味深いですね。考えてみれば、「オカルト」とは「隠されたもの」という意味であり、その反対に位置する「隠されていないもの」とは『聖書』に記された言葉に他なりません。
ユダヤ教キリスト教イスラム教は三大「一神教」と呼ばれますが、それぞれにオカルト的な神秘主義の要素を抱えています。それは、ユダヤ教において「カバラ」、キリスト教において「グノーシス」、イスラム教においては「スーフィーズム」と呼ばれます。
わたしは、かつて『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)を書いたときに、「カバラ」「グノーシス」「スーフィーズム」についても詳しく説明しました。
なお同書には、「UFO」の正体についてのわたしの自説も述べてあります。



これらの一神教の中でも、著者が特に重要視するのはキリスト教です。
終章「オカルトがわかれば世界がわかる」において、「オカルトは社会的に規定される」として、著者は次のように述べています。
キリスト教的自然観では、自然は神の被造物であり、両者は峻別されている(そして、人間は被造物に属する)。
中世ヨーロッパのスコラ哲学では、自然法則を学ぶことはそれを創造された神を讃えることに通じるという考え方が生まれ、それが自然科学への道を開いていく。
だが、一方でキリスト教は、自然法則に従わずに起きる現象の存在を認めていた。それは、神の意志によってなされるものであり、すなわち奇跡である。たとえば、キリストの死と復活などは奇跡の最たるものであり、それを自然科学の立場からありうるかどうか議論しても無駄ということになる。また、自然法則から外れた現象には、悪魔が人を惑わそうとして起こす奇跡のまねごともあるわけで、それは魔術として禁忌された。


自然法則から外れると「オカルト」になる!



わたしは、これらの文章を読んで、拙著『法則の法則』(三五館)を連想しました。
西洋のオカルティズムの源流には、ネオプラト二ズムの存在があるとされます。
「新プラトン主義」と訳されるネオプラト二ズムは、プラトン哲学にストア主義などを融合して3世紀以降に成立した、きわめて神秘主義的傾向の強い学派です。また、「法則」というものと非常に深い関わりがあり、同書でも紹介しています。同書では、ナチスヒトラーについても論じていますが、ここにもキリスト教の強い影響が見られます。つまり、『法則の法則』は「キリスト教」と「オカルト」の関係に言及した本でもありました。



キリスト教における「法則」について触れた後、著者は次のように述べます。
「つまり、キリスト強敵世界観では、この世界に起きる現象は自然現象、奇跡、魔術に峻別されることになる。ところが、地動説や進化論によって、伝統的なキリスト教的世界観に揺らぎが生じたため、それまで奇跡や魔術で説明されていた現象を、神や悪魔から切り離して説明しようとする動きが出てきた。そこで、従来の自然現象の範疇に入らないものを特に超自然現象=超常現象と呼ぶようになったわけだ。超常現象とされるものに聖書やキリスト教聖人伝説に出てくる奇跡や、魔術に似た話が多いのはそのためだ。また、聖書には、巨人や大魚など怪物に関する話も多く、それらを連想させるような生物の目撃証言も超常現象に加わった(つまりはUMAである)」
聖書に登場するエピソードというのは、キリスト教文化圏の人々にとってはユングのいう「元型」につながります。おそらくは「こころ」の中に潜む元型が表出して、さまざまなオカルト現象を目撃してしまうのかもしれません。



UFOにしろ、心霊にしろ、超能力にしろ、その他の怪奇現象にしろ、人間はオカルト的なものに関心を抱きながら生きています。たとえ、「そんなものは存在しない」という否定派であっても、占いや迷信に心を惑わされた経験はあるはずです。
本書の最後で、著者は人間とオカルトの関係について、次のように述べます。
「オカルトは人間の実際の経験から生まれたものである。その経験は、第三者からすれば錯覚や妄想、ペテンにひっかかっただけに見えるかもしれないが、当事者にとって自分の経験である以上、否定することはできない。
それらの経験は、いわば日常生活に入り込むノイズのようなものだ。
ノイズは、それ自体は意味を持たないし、気にしさえしなければ大した問題ではない。しかし、いったん気になってしまうと、ちょっとした音にすぎなくともそれに心とらわれてしまうというのは、誰しもありがちな経験である。ましてや、そのノイズが何かの不具合の予兆であはないか、などと考え出すと本気で対策を立てざるを得なくなる」
この「オカルトはノイズである」という著者の言葉は、至言であると思いました。


あらゆるオカルト現象の統一理論?

「と学会」会長が書いた凄い小説



本書は、多種多様なオカルト現象を見事に整理した好著です。
それにしても、オカルト現象の種類の多さには目を見張ります。UFO、エイリアン、悪魔祓い、ポルターガイスト、テレパシー、千里眼、念力、ネッシー、雪男、妖精、聖母出現、空から降るカエル、人体発火現象、アトランティス、ムー、地球空洞説・・・・・etc
すべてのオカルト現象を一貫して説明する統一理論の仮説はないのでしょうか。
わたしがこれまで読んできた本の中で、2冊にだけ、その理論が書かれていました。
1冊は、『神々の指紋』で世界的ベストセラー作家となったグラハム・ハンコックの『異次元の刻印』。日本では上・下巻に分かれてバジリコから翻訳出版されています。
もう1冊は、著者も会員である「と学会」の会長を務める山本弘氏のSF小説『神は沈黙せず』(角川書店)です。これはもう、読者の世界観が揺らぐほどの衝撃の名作です。
わたしも初めて読んだとき、頭がクラクラしてきました。とにかく、オカルト現象の謎がすべて解けた気がする凄い小説です。興味のある方は、ぜひ読んでみて下さい。


2012年8月14日 一条真也

『もののけの正体』

一条真也です。

もののけの正体』原田実著(新潮新書)を読みました。
著者は1961年生まれ、広島県出身。龍谷大学を卒業して、古神道や日本の霊学関係の専門出版社である八幡書店に勤務したこともある歴史研究家です。
また、トンデモ本を批判的に楽しむ団体である「と学会」の会員でもあります。


怪談はこうして生まれた



わたしは、『もののけの正体』というタイトルよりも「怪談はこうして生まれた」というサブタイトルのほうに惹かれました。本書の帯には「鬼、天狗、見越し入道、水の精、コロボックル、キジムナー、アカマタ」「妖怪たちの誕生の秘密!」と書かれています。
また、カバーの折り返しには、次のような内容紹介があります。
「鬼に襲われた、天狗に出くわした、河童を目撃した・・・・・ほんの数十年前まで、多くの日本人が、妖怪や幽霊など『もののけ』の存在を信じ、体験や伝説を語り継いできた。もののけたちはどうやって生まれてきたのか。日本の怪談や奇談の数々から民俗学的な視点で、その起源の謎に迫る。日本古来の妖怪や魔物をはじめ、江戸時代の化物、琉球地方や蝦夷地のアイヌに伝わるもののけも多数紹介! 
日本人の恐怖の源泉を解き明かす」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「まえがき」
第一章:もののけはどこから来たか?
第二章:もののけ江戸百鬼夜行
第三章:『百物語』のもののけたち
第四章:恐怖の琉球――南国のもののけ奇談
第五章:もののけ天国・蝦夷地――アイヌもののけ
終章:もののけと日本人――なぜ怪を求めるのか?
「あとがき」
「主要参考文献一覧」


著者・原田実氏の書いた本



わたしは、これまで著書が書いた本を何冊か読んでいます。
その中でも、本書とテーマが重なる『日本化け物史講座』(楽工社)は妖怪や幽霊を網羅的に取り上げつつ、うまくカテゴライズしてまとめており、なかなかの好著でした。
本書の場合もさまざまな妖怪や幽霊が登場するのですが、その分類があまりにも雑駁というか、コンセプトが見えておらず、読後の満足は得られませんでした。
それと、とにかく引用部分が多過ぎて、読みにくかったです。
本書のテーマのような民俗学的な内容を書く場合、資料からの引用は避けられませんが、それにしても多過ぎます。本書のアマゾン・レビューに「コピペで一冊できました」というものがあり、「black bird」というレビュアーが次のように書いています。
「冒頭の鬼娘に関する一文から、他の書籍からの孫引きであり、続く内容の殆ども先行研究からの切りばりである。著者は他者の論考を、あたかも自分が考えたことのように文章化している。もちろん参考文献には一次資料が一切見当たらない」
もちろん、「コピペで一冊できました」とまではわたしは思いませんが、このレビュアーの言うことにも一理あります。



アマゾン・レビューといえば、なんと著者である原田実氏も実名で本書のレビューを投稿しています。著者本人がレビューを投稿するのは初めて見ました。ちょっと驚きましたが、レビューの内容は「週刊読書人」に掲載された原稿の転載だそうです。
そのセルフ・レビューの最後に、著者は「本書をつらぬくテーマを一言でいえば、だ、ということである。そして、妖怪が忌まれるのもファンシー化するのもその装置が異なる方向に機能した結果なのである。冒頭で示唆したように、妖怪という装置は現代もなお機能し続けている。本書が現代人と妖怪とのより良い付き合い方を考える上での一助となれば、著者として幸いそれに過ぎるものはない」と書いています。



この「妖怪とは人間が生きていく上で欠くべからざる文化的装置」という意見にはまったく賛成ですが、わたしは「幽霊も人間が生きていく上で欠くべからざる文化的装置」と考えています。本書のサブタイトルは「怪談はこうして生まれた」ですが、怪談の主役ともいえる幽霊についての記述の少なさは期待外れでした。
妖怪の正体にしても、海の妖怪「磯撫」の正体がシャチであるとか、熊の化け物である「鬼熊」の正体がヒグマであるとか、さらには「雷獣」の正体がイタチであるとか、先人の研究を紹介しつつ書いていますが、どうもパンチに欠けるというか、物足りません。


しかし、第四章「恐怖の琉球――南国のもののけ奇談」は、なかなか興味深い内容でした。沖縄には、「キジムナー」という古木の精の伝説があります。
キジムナーとは「木に憑く物」という意味で、地域や木の種類によっては「キムジン」「キムナー」「ブナガヤー」「ハンダンミー」とも呼ばれます。その姿は、赤い顔の子どものようだとも、全身が毛に覆われているともいわれています。
水辺を好むところから、本土でいるところの「河童」の一種だという説もあります。
この伝説のキジムナーが、1970年代半ばから沖縄で恐ろしい悪霊として語られるようになり、その原因が、アメリカ映画「エクソシスト」にあるというのです。


著者は、キジムナーのイメージの変容について、次のように述べます。
「かつての沖縄ではキジムナーは夜、寝ている人や夜道を歩く人に他愛のないいたずらをしかけるとされていた。言い換えると当時の人は寝床の中や夜道でなにか違和感を覚えた時に、それをキジムナーのしわざにしていたわけだ。キジムナーにいたずらされる、言い換えるとキジムナーに憑かれるというのはその時代の人にとってはよくある経験であり、過度に怖がる必要がないものだった。むしろ人懐こいキジムナーをイメージすることで、そうした違和感にとらわれてパニックに陥ることを防いでいたわけである。
ところが『エクソシスト』という映画は迫真の映像で、人間が姿なき何者か(映画の中での脈絡でいえば悪魔)に憑かれることの恐怖を描き出していた。
そのため、それまで大したこととみなされていなかった、キジムナーの憑依が新たな恐怖の対象になったわけである。『エクソシスト』のアメリカ公開は1973年12月、日本公開は74年7月のことである。米軍基地内では映画の公開はアメリカ本国に合わせた時期となるため、基地が多い沖縄では日本の他の地域での宣伝が本格化する前からこの作品の噂が広まっていた可能性もある」


ブログ「沖縄復帰40周年」にも書いたように、1972年5月15日、沖縄は占領国のアメリカから日本に復帰しました。それ以降、沖縄では県内の諸制度をアメリカ基準から日本基準に変更するための努力が重ねられましたが、それは簡単にできることではありませんでした。自動車がアメリカ式に右側走行から日本式の左側走行に改められたのが、やっと1978年7月30日だったというぐらい、制度の変更は難航したのです。
この事実を踏まえて、著者は次のように述べています。
「沖縄の人々にとって、それは単にうわべの制度だけでなく、沖縄の支配者がアメリカから日本政府に替わったということを心理的にも受け入れていく過程であった。アメリカも日本政府も、琉球時代以来のコミュ二ティからすれば外部の勢力に違いはない。その外部からの支配者の交替を受け入れ、それを帰属意識にも反映させていこうとしている時期、『エクソシスト』は封切られたのである。それはまさに外部の者の憑依で、人の意識が左右されてしまう現象を恐怖として描いた作品であった。外部の勢力からの影響に対する不安を強く感じていた沖縄の人が、日本の他の地域の人以上に強い影響を受けたとしてもおかしくはない。キジムナーに関する伝承や意識の変化は、そうした影響の1つとして解釈できる。いわばキジムナーは、沖縄の本土復帰のとばっちりを受けて、さほど罪のないいたずら者から、凶悪なもののけへと変身させられたわけである」



キジムナーに限らず、沖縄の習俗伝承には、憑き物系のもののけや来訪神に関わるものが多い。著者は、これを沖縄の社会事情と深く関連していると分析します。
沖縄では、ノロやユタといった神女たちがさまざまな祭祀を執り行い、庶民の生活に深く関わる存在となっていますが、これについて著者は次のように述べます。
「彼女たちの職掌というのはつまるところ来訪する神を迎え、憑き物を払うことなのである。彼女たちが人々の生活に深く関わっている以上、来訪神や憑き物は社会的・文化的に認知された存在であり続けるし、またそうしたものたちが認知されている以上、神女たちの職掌も必要とされ続けるのである」



本書の中で、この沖縄のキジムナーやノロ・ユタといった神女について書かれた第四章が最も興味深い内容でした。いっそ、江戸時代の妖怪話とか、『絵本百物語』の紹介など一切やめて、この沖縄のもののけ問題だけを取り上げて深く書き進めれば、きわめて知的好奇心に満ちた一冊になったのではないでしょうか。
とはいえ、新書出版の現場とは、著者の意向よりも版元や編集者の意向が何かと強いもの。そのへんはわたしもよく理解していますので、著者に同情する点も多々あります。


2012年8月13日 一条真也

『怪談文芸ハンドブック』

一条真也です。

『怪談文芸ハンドブック』東雅夫著(メディアファクトリー)を読みました。
ブログ『遠野物語と怪談の時代』ブログ『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』で紹介した本の著者による本格的な怪談入門書です。


愉しく読む、書く、蒐める



「愉しく読む、書く、蒐める」というサブタイトルがついています。
また帯には、以下のような言葉が並んでいます。
「怪談の定義を知る」「怪談とホラーの違いは?」「創作怪談と実話怪談は別物?」「長篇の書き方」「取材や蒐集のコツは?」「古今東西の名作会談の魅力とは・・・・・」
「これ一冊で怪談のすべてが分かる、史上初!の『即効性』入門ハンドブック」
「文芸の極意は怪談にありと見つけたり!?」



本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
第一部 怪談をめぐる七つのQ&A
Q1.怪談の定義とは?
Q2.怪談に特有の魅力とは?
Q3.ホラーと怪談の違いは?
Q4.なぜ今、ホラーではなく怪談なのか?
Q5.創作怪談と実話怪談
Q6.長い怪談と短い怪談
Q7.怪談の蒐集執筆のコツは?
第二部 怪談の歴史を知る
第一章:古代の文学と怪談と
第二章:欧米怪談文学史をたどる
第三章:日本における怪談文芸の系譜



最初に、著者は怪談の基本は「お化け話」であるとして、次のように怪談を定義します。
「お化け――すなわち幽霊や妖怪や怪物といった超自然の存在や、合理的な説明のつけられない不可思議な現象に遭遇したときに惹き起こされる、恐怖や驚愕、怪しみや不思議さを、文章や話芸を通じて、読み手(聞き手)にまざまざと体感せしめる物語が怪談である、というふうに規定してよいのではないかと思います」



怪談という広大なジャンルを整理・分類した人に、かの江戸川乱歩がいます。
乱歩は探偵雑誌「宝石」に連載し、後に評論集『幻影城』に収録された「怪談入門」という優れたエッセイを残しています。この「怪談入門」の中で乱歩は、文芸ジャンルとしての怪談について、2種類の「怪談分類表」を示しています。
1つは、イギリスの作家であるドロシイ・セイヤーズによる分類であり、もう1つはそれをもとに乱歩自身が試みた分類です。以下の通りになっています。



「ドロシイ・セイヤーズによる怪談分類表」
A.マクロコスモス(超自然怪談)
1.幽霊、化け物(例、ヒチェンズ「魅入られたギルデア教授」)
2.魔術的恐怖
a.妖魔(例、ジェイコブズ「猿の手」)
b.吸血鬼 (例、ベンスン「アムオース夫人」)
c.フランケンシュタインもの(例、ビアス「モクソンの主人」)
d.憑きもの、怨霊(例、スチヴンスン「スローン・ジャネット」)
e.運命の恐怖(例、レ・ファニュ「緑茶」)
B.ミクロコスモス(人間そのものの恐怖)
1.疾病、狂気(例、マイケル・アーレン「アメリカから来た紳士」)
2.血みどろ、残虐(例、ストーカー The Squaw)



江戸川乱歩による怪談分類表」
1.透明怪談(例、ウエルズ「透明人間」)
2.動物怪談(例、ブラックウッド「古き魔術」)
3.植物怪談(例、ホーソン「ラパッチニの娘」)
4.絵画彫刻の怪談(例、ベン・ヘクト「恋がたき」)
5.音の怪談(例、ラヴクラフト「エリヒ・ツァンの音楽」)
6.鏡と影の怪談(例、エーウェルス「プラーグの大学生」)
7.別世界怪談(例、ラヴクラフトアウトサイダー」)
8.疾病、死、死体の怪談(例、ホワイトLukundoo、フォークナー「エミリーの薔薇」)
9.二重人格と分身の怪談(例、ポー「ウイリアムウイルソン」)



乱歩の「怪談分類表」には例としてラヴクラフトの作品が2つ出てきます。
ブログ『クトゥルー神話全書』にも書いたように、H・P・ラヴクラフトは「20世紀最大の怪奇作家」とまで呼ばれたアメリカン・ホラー中興の祖です。
彼は、「恐怖」についての有名な以下のような言葉を残しています。
「人間の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である。その中でも、最も古く、最も強烈なのが未知のものに対する恐怖である。これは殆どの心理学者が認める事実であろう」(植松靖夫訳)




このラヴクラフトの名言を受けて、著者は次のように述べています。
「そもそも、人はなぜ恐怖するのでしょうか。
それは自分という存在が脅かされ、損なわれること――肉体や精神に傷を負ったり、苦痛を与えられたり、自由を奪われたり、果ては死に至るような危険な事態に陥ることへの警戒・防衛本能であるといわれます。激越な恐怖を感ずることによって、人は本能的に、我が身に迫り来るリスクを回避しようとするわけです。
モダンホラーの帝王と異名をとるスティーヴン・キングは、恐怖小説やホラー映画は、誰もがいずれは直面することになる『死』へのリハーサルなのだという意味のことを、その著『死の舞踏』(1981)の中で述べていますが、これまた傾聴に値する言葉でしょう」



さて本書には、わたしが最近注目している「gentle ghost」という言葉が紹介されています。これについて、著者は次のように述べています。
「『gentle ghost』とは、生者に祟ったり、むやみに脅かしたりする怨霊の類とは異なり、絶ちがたい未練や執着のあまり現世に留まっている心優しい幽霊といった意味合いの言葉で、日本とならぶ幽霊譚の本場英国では、古くから『ジェントル・ゴースト・ストーリー』と呼ばれる一分野を成しています。私はこれに『優霊物語』という訳語を充ててみたことがありますが、あまり流行らなかったようです・・・・・」



このジェントル・ゴースト・ストーリーは、英米だけでなく、日本にも見られる文芸ジャンルです。古くは『雨月物語』の「浅茅が宿」から、近くは山田太一の『異人たちとの夏』や浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』『あやし うらめし あな かなし』まで。
浅田次郎といえば、ブログ『降霊会の夜』で紹介した本や、著者・東雅夫氏が解説を書いているブログ『押入れのちよ』で紹介した荻原浩の作品なども典型的なジェントル・ゴースト・ストーリーであると言えるでしょう。
このように、日本でもじつに多種多様な優霊物語の名作が書かれています。
また著者は、『剪燈新話』や『聊斎志異』をはじめとする中国の怪談文芸にも、このジャンルに属する恋愛怪談の名作が多いことを指摘しています。



「なぜ今、ホラーではなく怪談なのか?」という問いに対しては、どうでしょうか。
著者は、「人間そのものの恐ろしさを描く」ことを主眼とするサイコ・ホラーが実は古くから存在していたとして、次のように述べています。
「ミステリーとホラーの両ジャンルから傍流扱いされていたサイコ・ホラーが、現代的なエンターテインメントの新分野として脚光を浴びるようになったのは戦後、ロバート・ブロックの長篇『サイコ』(1960)が、ヒッチコック監督による映画化で大きな反響を呼んだあたりからと考えてよいでしょう。やはりハリウッドで映画化されて日本でも大いに人口に膾炙したトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』(1988)であるとか、あるいは先にも触れた貴志祐介の『黒い家』(1997)など、傑出したサイコ・ホラー作品は、しばしば超自然系ホラーを凌駕する絶大なポピュラリテイを獲得するに至りました。なぜでしょうか?
やはり最大の要因は、サイコ系ホラーに描かれる恐怖が、超自然系ホラーのそれよりも身近で分かりやすく、誰でも容易に怖さを実感できる点に求められると思います。
死んだ人間の怨霊がテレビのモニターを通り抜けて襲いかかってくるような恐怖と、変質者やストーカーに執拗につきまとわれたり、隣の住人や自分の恋人が実は凶暴な殺人鬼だったと判明する恐怖――現代人にとって、どちらがよりリアルに感じられるかは明白でしょう」



そして、著者は「現代の怪談」としてのサイコ・ホラーについて次のように述べます。
「超自然の恐怖を描くホラーや怪談文芸は、書き手にとって挑戦し甲斐のある分野であり、『文学の極意は怪談である』(佐藤春夫)と云われる所以でもあるわけですが、実際問題として、日々量産されるエンターテインメント作品の多くに、そうしたハイレベルな達成をコンスタントに求めることは難しいでしょう。映画やテレビドラマに先導される形で日本の読書界に定着したサイコ系ホラーが、身近な日常にひそむリアルな恐怖を追求するエンターテインメントとして、ミステリー読者をも巻き込んで幅広く読まれ、超自然ホラーを駆逐しかねない勢いで浸透していったのも無理からぬところでした」



本書の第二部は、怪談の歴史を知るというテーマです。
古今東西の名作や名場面が紹介されており、怪談の歴史を俯瞰するには最適です。
怪談愛好家はもちろん、これから怪談を書こうという人にも、本書は必携のガイドとなるでしょう。わたしは、本書を読んで、ますます怪談が読みたくなりました。


わが書斎の怪談文芸コーナー


2012年8月12日 一条真也

『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』

一条真也です。

夏真っ盛りです。お盆も近く、怪談の季節ですね。
『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』東雅夫著(学研新書)を読みました。著者は当代一の「怪談スペシャリスト」で、ブログ『遠野物語と怪談の時代』でも紹介しました。


最新日本怪談入門



本書の帯には、「江戸から現代まで300年を見渡す 最新日本怪談入門」と書かれています。また、表紙カバーの折り返しには、次のように書かれています。
「なぜか日本では百年ごとに実話怪談が流行っている。
では、百年前、二百年前には何があったというのか? 
江戸の一大怪談ブームから、明治・大正の黄金期、
そして平成の実話怪談ムーブメントまで、
意外な視点でつづる新たな日本怪談文学史、誕生!」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
第一章:二つの震災の間で
第二章:怪談百年周期説
第三章:文化文政の怪談作家たち
第四章:明治大正の怪談作家たち
第五章:平成の怪談作家たち
「おわりに」
付録「日本怪談文芸年表」


 
「はじめに」で、著者は次のように述べています。
「まさに世は怪談全盛時代――実はこの現象、平成の現代ばかりでなく、戦前にも、さらには江戸時代にも、奇妙なことにピタリ1世紀、百年ごとに、非常によく似た時代が到来していたのである。
そこで私は考えた。それぞれの時代を代表する怪談作家たちと、かれらが生み出した名作佳品の数々を押さえていけば、日本が世界に誇るべき文化である『怪談』のもっとも良質な部分を、それこそピンポイントで堪能することができるのではないか。
さらには、怪談というものの本質にも迫ることができるのではないか。
以上のようなアイデアのもとに執筆されたのが、本書である」



第二章「怪談百年周期説」の冒頭では、平成の現在からちょうど1世紀ほど前、明治30年代から大正時代にかけて、著名な文化人たちのあいだで「怪談」が一大ブームとなりました。本書には、次のように書かれています。
泉鏡花はもとより、夏目漱石小泉八雲幸田露伴森鷗外芥川龍之介谷崎潤一郎等々、たとえ作品は読んだことがなくても名前くらいは誰でも知っているような文豪たち。鏑木清方小村雪岱、鰭崎英朋、岡田三郎助らの画家たち。
歌舞伎の尾上梅幸や新派の喜多村緑郎花柳章太郎などの役者たち。
柳田國男や井上圓了、平井金三、日夏耿之介といった学究たち。
平山蘆江松崎天民、鹿塩秋菊をはじめとするジャーナリストたち。
まさに文化の全領域にわたって、『おばけ好き』な名士たちが、こぞって怪談を書いたり、描いたり、演じたり、あるいは学問の対象として真剣に調査考察をしたり、夏ともなれば誘い合って百物語怪談会に興じたり・・・・・それこそ『怪談黄金時代』とでも呼びたくなるような光景が年々歳々、繰りひろげられていたのであった」
そして、そうした同時代の怪談ブームを直接の原動力として誕生したのが怪談実話集としての性格を持つ柳田國男の『遠野物語』(1910)だったのです。



「怪談百年周期説」という言葉からもわかるように、著者は1世紀ごとに怪談ブームが到来し、そこには大災害をはじめとして人々に大きなストレスを与える時代背景があったとしています。本書の記述をもとに、わたしが以下に整理してみました。
●300年前(元禄〜宝永年間)  
『伽婢子』(浅井了意)、『諸国百物語』(作者不詳)
西鶴諸国話』(井原西鶴)、『懐硯』(井原西鶴
『死霊解脱物語聞書』(残寿)、『怪談全書』(林羅山
・・・・・元禄地震(M8.1)、宝永地震(M8.7)、富士山の宝永大噴火

●200年前(文化文政年間)
雨月物語』(上田秋成)、 『雨月物語』(上田秋成)     
『桜姫全伝曙草紙』(山東京伝)、『近世会談霜夜星』(柳亭種彦)
稲生物怪録』『仙境異聞』『勝五郎再生記聞』(平田篤胤
南総里見八犬伝』(曲亭馬琴)、『東海道四谷怪談』(鶴屋南北
・・・・・幕藩体制の矛盾の露呈、財政の窮乏、諸外国からの圧力

●100年前(明治末〜大正時代)
『怪談』(小泉八雲)、『高野聖』(泉鏡花
夢十夜』(夏目漱石)、『遠野物語』(柳田國男
『百物語』(森鷗外)、 『妖怪百談』(井上円了
『人面疸』(谷崎潤一郎)、『金の輪』(小川未明
『妙な話』(芥川龍之介)、『冥途』(内田百輭
・・・・関東大震災(M7.9)、ハレー彗星来襲(1910年)



以上のリストを見ると、時代の幅が長すぎると思う人もいるかもしれませんが、たしかに1世紀ごとに怪談がブームになっていることがわかります。この流れで見ると、1995年の阪神・淡路大震災(M7.3)およびオウム真理教事件から2011年の東日本大震災(M9.0)へと至る現代が一大怪談ブームであると言えるかもしれません。
現在、日本の文芸界には「平成ホラー・ジャパネスク」と著者が名づけたムーブメントが見られます。そこでは、日本の風土に固有の恐怖や怪異の伝承世界を追い求めてやまない作家として、坂東眞砂子篠田節子恩田陸小野不由美の「新鋭女流ホラー四天王」をはじめ、小池真理子宮部みゆき、そして京極夏彦といった人々が本書でも紹介されています。このブログでも書評を書いてきた彼らの怪談はベストセラーとなり、いくつかは映像化もされてきました。
間違いなく、現代日本は怪談ブームのさなかにあるのです。
100年周期の怪談ブームは、民衆の無意識の不安の表れなのでしょうか。
ブームの期間が長すぎることは事実であり、たとえば200年前の怪談ブームの期間は約20年間、100年前のブームに至っては約30年間となっています。まあ、「怪談百年周期説」に関しては、参考意見程度にとどめておいたほうがいいかもしれません。



多くの怪談愛好家たちにスルーされがちな「怪談百年周期説」よりも、本書の白眉は、著者の考える怪談の本質にあります。
第五章「平成の怪談作家たち」で、著者は自身が編集長を務める「幽」を「怪談小説専門誌」ではなく「怪談専門誌」と銘打った理由を次のように述べています。
「およそ怪談くらい、その名を冠する諸ジャンル――怪談小説、怪談実話、怪談漫画、怪談映画、怪談芝居、怪談噺等々のジャンルが、相拮抗して存立してきた分野も珍しいと思うのだ。特にポイントとなるのが『実話』で、恋愛映画とかSF漫画とはいっても、恋愛実話、SF実話というものは、ジャンルとして想定しにくい。まあ、『犯罪』ならば、実話でも小説でも大丈夫だろうが、犯罪漫画とか犯罪芝居、犯罪噺というのは・・・・・」
そんなこんなで「幽」では「怪談小説」「怪談実話」「怪談漫画」を三本柱に据えることになったそうですが、ここには「怪談」というジャンルの特殊性が見事に語られています。



そして、誰でも知っているように、日本では昔から「怪談」は夏の風物詩として受容されてきたことを指摘しつつ、次のように述べます。
「心胆を寒からしめることで銷夏の一助とする。だから蒸し暑い夏場が怪談のシーズンなのだ――という解釈は、感覚的には得心させられるけれども、実のところ俗説である。むしろ注目すべきは、お盆の風習との関わりなのだ。
釈迦の弟子・目連尊者が、餓鬼道にあって苦しむ母親を救うための供養をしたという『盂蘭盆経』の伝承にもとづく盂蘭盆会は、日本古来の祖霊信仰と結びついて、近世にいたると精霊会、魂祭などの名称で民間に定着をみた。
陰暦の7月なかば(地方により時期に異同あり)、家々の門前で迎え火を焚き、精霊=祖先の霊や新仏、さらには無縁仏までをもお迎えし、供物を捧げて冥福を祈る。夜となれば寺社の境内や集落の広場で、慰霊のための舞踊がにぎやかに催される・・・・・今に続く盆踊りの行事には、踊りの輪の中に精霊を迎え入れ、生者と死者がもろともに歌舞に興ずるという祖霊供養の性格が色濃く認められるのであった」



ちなみに慰霊・鎮魂と舞踊といえば、中世以来の夢幻能が連想されます。
そう、世界にも稀な幽霊劇といえる夢幻能もまた、見えないモノとの交感に由来する芸能でした。また、歌舞伎の祖とされる出雲阿国は、京都で盆踊りの原型である踊り念仏を主宰と伝えられています。能にしろ歌舞伎にしろ、近世の芸能には、慰霊と鎮魂の宗教儀礼としての要素が秘められているのです。
さらには、「日本最初の怪談実話集」と呼んでも過言ではない仏教説話集『日本霊異記』も、近世における怪談文芸の最初の成果とされる仮名草子『伽婢子』も、いずれも著者は僧侶でした。近代において語りとしての怪談の担い手となった噺家や講釈師のルーツもまた、近世仏教の説教僧であったとされています。



これらの史実を踏まえて、著者は次のように述べます。
「要するに、われわれ日本人は、怪異や天変地異を筆録し、語り演じ舞い、あるいは読者や観客の立場で享受するという行為によって、非業の死者たちの物語を畏怖の念とともに共有し、それらをあまねく世に広めることで慰霊や鎮魂の手向けとなすという営為を、営々と続けてきたのであった。
たとえば、菅原道真の御霊伝説にせよ、あるいは四谷怪談にせよ、怪談というものは、総てを奪われ、ついには命まで落とした人たちの思いが、現実には何もできない、だからこそ現実を超えた物語として発動する・・・・・という構造を共通して抱え持っている。
しかも、そうして生まれた物語を、私たちは延々と繰り返し、演劇や映画の形で上演したり、物語として本に書いたり、さらには天神様のように神社を建ててお祀りしたりして、その出来事を延々と語り伝えてきているのだ。
仏教における回向の考え方と同様に、死者を忘れないこと、覚えていること――これこそが、怪談が死者に手向ける慰霊と鎮魂の営為であるということの要諦なのだろう」
そう、怪談の本質とは「慰霊と鎮魂の文学」なのです。



本書の最後で、著者は「ガレキの下から人の声」という奇妙な話を紹介しています。
これは、東日本大震災から16日が経過した2011年3月27日の朝、石巻市津波被災地で「ガレキの下から人の声が聞こえる」という情報が警察に寄せられ、自衛隊などによって大がかりな捜索が行われたというものでした。しかし100人態勢で捜索したにもかかわらず、結局のところ生存者も、遺体も、何も見つかりませんでした。
著者は、「これを怪談として捉えたら」と考えて、次のように述べています。
「大がかりな捜索がおこなわれたこと、多くの人たちが必死に探し求めてくれたこと。
それ自体が、せめてもの供養に、手向けになったとは考えられないだろうか。
現実には何もできない、してあげられない、だからこそ、せめて語り伝える物語の中で何とかしたい。何かをなしたい。そこにこそ、怪談という行為の原点があり、この世において果たすべき役割があるのだと、私には思えてならないのである」
そう、「慰霊と鎮魂の文学」としての怪談とは、残された人々の心を整理して癒すという「グリーフケア文学」もあるのです。



東日本大震災以来、被災地では幽霊の目撃談が相次いでいるそうです。
たとえば、2012年1月18日付のMSN産経ニュースでは、「『お化けや幽霊見える』心の傷深い被災者 宗教界が相談室」という記事が紹介されています。津波で多くの犠牲者を出した場所でタクシーの運転手が幽霊を乗車させたとか、深夜に三陸の海の上を無数の人間が歩いていたとかの噂が、津波の後に激増したというのです。
わたしは、被災地で霊的な現象が起きているというよりも、人間とは「幽霊を見るサル」であり、「死者を想うヒト」なのではないかと思います。
故人への思い、無念さが「幽霊」を作り出しているのではないでしょうか。
そして、幽霊の噂というのも一種のグリーフケアなのでしょう。
夢枕・心霊写真・降霊会といったものも、グリーフケアにつながります。
恐山のイタコや沖縄のユタも、まさにグリーフケア文化そのものです。そして、「怪談」こそは古代から存在するグリーフケアとしての文化装置ではないかと思います。
怪談とは、物語の力で死者の霊を慰め、魂を鎮め、死別の悲しみを癒すこと。
ならば、葬儀もまったく同じ機能を持っていることに気づきます。
葬儀で、そして怪談で、人類は物語の癒しによって「こころ」を守ってきたのでしょう。
本書を読み終えたわたしは、心の底から「怪談は必要!」と思いました。


2012年8月11日 一条真也