サムライの涙

一条真也です。
ワールドカップ、日本はパラグアイに負けました。
延長を含めて120分を闘い抜いてのPK戦での敗退、本当に残念だったですね。
悲願のベスト8進出は夢と消えました。
選手たちもサポーターも、みな泣いていました。


                  日本、パラグアイに敗れる! 

                     選手も泣いた

                    サポーターも泣いた


おそらく、試合直後に日本中で交わされたメールには、(T_T) (´_`。) (ノ◇≦。) などの泣き顔文字が踊ったのではないでしょうか。
今回の日本チームは、青いユニフォームにあやかって「サムライブルー」と呼ばれていましたが、わたしはサムライたちの涙を美しいと感じました。
一般に大人の男は涙など流すものではないとされています。 
しかし、昔のサムライ、つまり武士はよく泣いたようです。
武田信玄の『甲陽軍艦』には、「たけき武士は、いづれも涙もろし」とあります。
戦に勝ったといっては泣き、仲間が生き残っていたといっては泣いたようですね。
偽りや飾りのきかない、掛け値なしの実力稼業。
それは、情緒、感動においてもむきだしのあるがままに生きることだったのでしょう。
時代は下って江戸時代の末期、つまり幕末の志士たちもよく泣いたようです。
吉田松陰なども泣き癖があったとされています。
松陰は、仲間と酒を飲み、酔って古今の人物を語るのを好みましたが、話題が忠臣義士のことにいたると、感激のあまりよく泣いたそうです。



司馬遼太郎によれば、坂本龍馬もよく泣いたようです。
小説『竜馬がゆく』に出てくる名場面ですが、かの薩長連合がまさに成立せんとしたとき、薩摩藩西郷隆盛を前にした桂小五郎が、長州藩の面子にこだわりを見せました。
その際に龍馬は、「まだその藩なるものの迷妄が醒めぬか。薩州がどうした、長州がなんじゃ。要は日本ではないか。小五郎」と、すさまじい声で呼び捨てにし、「われわれ土州人は血風惨雨・・・・・」とまで言って、絶句しました。
死んだ土佐の同志たちのことを思って、涙が声を吹き消したのです。
そして、次の有名な言葉はおそらく泣きじゃくりながら言い放たれました。
薩長の連合に身を挺しておるのは、たかが薩摩藩長州藩のためではないぞ。君にせよ西郷にせよ、しょせんは日本人にあらず、長州人・薩摩人なのか」
この時期の西郷と桂の本質を背骨まで突き刺した龍馬の名文句であり、事実上この時に薩長連合は成ったと言えるでしょう。
そして、西郷や桂を圧倒した龍馬の涙の力も大きかったのです。



龍馬をめぐるエピソードで涙に関するものがもう一つあります。
徳川幕府の最後の将軍、徳川慶喜が古い政治体制の終焉によって大きな混乱と犠牲が日本の社会に強いられることを避けようと大政奉還する決意をしたとき、それを後藤象二郎からの手紙によって知った龍馬は、顔を伏せて泣いたといいます。
龍馬が泣いていることに気づいた周りの志士たちは、無理もないとみな思いました。
この一事の成就のために、龍馬は骨身をけずるような苦心をしてきたことを一同は知っていたからです。
しかし、龍馬の感動は別のことだったのです。
やがて龍馬は、泣きながらこう言いました。
「大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」
龍馬はそう言いながら慶喜の自己犠牲の精神をたたえて、さらに涙を流したといいます。そのときの言葉と光景は、そこにいた中島作太郎や陸奥陽之助たちの生涯忘れえぬ記憶になっています。
龍馬が画策した革命の流れの中で、大方の革命に必然な血なまぐさい混乱を慶喜が自ら身を退くという犠牲によって回避したということを、革命の仕掛け人である龍馬こそが他の誰よりも評価したに違いありません。



NHKの「プロジェクトX」などにも、前例のないプロジェクトに見事成功し、立ち会ったスタッフ一同が手を握り合って喜びの涙を流したというエピソードがよく出てきました。
近代日本における最大のプロジェクトXこそ「明治維新」に他なりませんが、それを用意した「薩長連合」および「大政奉還」が成った際に流した龍馬の涙の濃さ、熱さを想うと、それだけで泣き虫の私は涙が出そうになります。
いつか、わたしも龍馬のように歴史に残る涙を流してみたいものです。
龍馬のエピソードは『竜馬がゆく』に詳しいですが、同じく司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読むと、西郷隆盛もよく泣いたことがわかります。
彼ら志士たちは、司馬の表現を借りれば、「巨大な感情量の持ち主」だったのでしょう。
人間は近代に入ると泣かなくなりました。
中世では人はよく泣きました。
中世よりもはるかに下って松陰や龍馬や西郷の時代ですら、人間の感情量は現代よりもはるかに豊かで、激すれば死をも怖れぬかわり、他人の悲話を聞いたり、国家の窮迫を憂えたりするときは、感情を抑止することができなかったようです。
日清・日露戦争当時の軍人や大臣といった人々でもそうでした。
日本海海戦に勝ったと言っては泣き、つらい任務を引き受けてくれると言っては泣き、それも相抱いて、おいおい泣いています。
とにかく昔の武士や軍人はよく泣きました。
ところが後世になるほど、そういう感激性がなくなって、泣かなくなってしまったのです。
今夜のサムライブルーの涙に、日本人の「こころ」のDNAを見たような気がしました。
そう、日本人、大いに泣くべきです。人間、大いに泣くべきです!
涙は世界で一番小さな海ですから、泣けば泣くほど川は大海に流れ込み、最終的には人類の「こころ」は一つになると思います。
サムライブルーのみなさん、そして岡田監督、本当にお疲れ様でした。
最後まであきらめずに死力を尽くして闘ったみなさんは、真のサムライでした。



                 岡田監督も、お疲れ様でした 


2010年6月30日 一条真也

『アホの壁』

一条真也です。

『アホの壁』筒井康隆著(新潮新書)を読みました。
著者は、言わずと知れた日本SF界の御大です。
それも、ハチャメチャな世界を描いた奇想天外なSFをたくさん書いています。
本書はSFではなく、エッセイの類ですが、いやぁ実に奇想天外な本でした。


               なぜ、ワールドカップに熱狂するのか?


まず、序章のタイトルがいきなり「なぜこんなアホな本を書いたか」です。
非常に人を喰った印象がありますね。(笑)
『アホの壁』という書名を聞いた人は、誰でも、「あ〜、『バカの壁』のパクリだな」と思うでしょう。でも、事情は少しばかり違うようです。
そもそも著者に本書の執筆依頼をしたのは、新潮社の石井昂という人です。
彼は新潮新書の担当重役であり、『バカの壁』『国家の品格』といった大ベストセラーを生み出した張本人なのです。
つまり、『バカの壁』の生みの親が、『アホの壁』を書いてくれと頼みに来たわけです。
最初そのタイトルは『アホの壁』ではなく、『人間の器量』というものでした。
それを聞いた著者は一笑にふし、即座に執筆の申し出を断ったそうです。
しかし、いろいろあって、著者は『アホの壁』というタイトルなら書いてもよいという気になりました。著者は、次のように述べています。
「小生が考えた『アホの壁』とは、養老さんの『バカの壁』のような人と人とのコミュニケーションを阻害する壁ではなく、人それぞれの、良識とアホの間に立ちはだかる壁のことである。文化的であり文明人である筈の現代人が、なぜ簡単に壁を乗り越えてアホの側に行ってしまうのか。人に良識を忘れさせアホの壁を乗り越えさせるものは何か。小生はそれを考えてみようと思ったのだ」



ということで、『アホの壁』はけっして『バカの壁』の便乗本ではないという説明が延々と続くのですが、新潮新書が誇るもう一つの大ベストセラーである『国家の品格』は、それを真似た「品格もの」をアホらしいほど大量発生させました。
もっとも、『女性の品格』(PHP新書)などは『国家の品格』を越える300万部を達成し、柳の下の2匹目のドジョウが1匹目より大きかったという珍しいケースになりました。
しかし、その後に出た品格本は、4年間でなんと百数十冊を数えたそうです。
たとえば、『離婚の品格』『遊びの品格』『男の品格』『教師の品格』『会社員の品格』『校長の品格』『横綱の品格』『名将の品格』『母の品格』『学生の品格』『地方の品格』『夫婦の品格』『銀行の品格』『病院の品格』『老いの品格』『老舗の品格』『後継者の品格』『親の品格』『子どもの品格』『男の子の品格』『女の子の品格』『花嫁の品格』『会社の品格』『猫の品格』・・・・・もうアホらしいので、このへんにしておきます。
著者は、「ここまでくると思考停止も甚だしく、もはやアホの行為と言って差支えなかろう」と断じています。たしかに、そうかもしれませんね。



本書では、全部で五つの章に分けて、「アホの壁」を論じています。次の通りです。
第一章 人はなぜアホなことを言うのか
第二章 人はなぜアホなことをするのか
第三章 人はなぜアホな喧嘩をするのか
第四章 人はなぜアホな計画を立てるか
第五章 人はなぜアホな戦争をするのか
その中身ですが、けっしてアホな内容ではなく、いたって真面目です。
フロイトの理論などをバンバン紹介しているので、驚きました。
なんだか心理学の啓蒙書みたいな感じで、けっこう高度な内容になっています。
でも、そこは著者一流の筆力で面白く読ませてくれます。



第五章で興味深い記述がありました。戦争とスポーツについての考察です。
著者は、日大医学部大学院教授である林成之博士の説として、戦争とスポーツの違いについての考え方を紹介しています。
それによれば、スポーツでは自己保存の遺伝子作用を越えた、反省というモジュレータ機能があり、これが戦争に向かおうとするような人間の弱さを克服する機能的システムなのだそうです。
スポーツは、ライバルと競い合う中で、相手をリスペクトするという人間性を育みます。
また、勝利の幸福感を味わうという体験によって、人生の困難を乗り越えようとする教育を可能にします。
しかし著者は、続けて次のように述べます。
「ところで人間は、自己保存や種の保存の本能と同時に、同種既存の遺伝子も持っている、と、林教授は言う。学校に入学するとその学校が好きになり、会社に入るとその会社を愛するようになり、日本に生まれると日本に対する愛国心が生まれるのである。これが同種既存の本能である。オリンピックやワールドカップでわれわれが誰に強制されぜとも自分の国のチームや選手を応援し、他国に勝ちたいという欲望を起こすのも、この同種既存の本能ゆえである」
なるほど、つい今朝まで、多くの日本人が熱狂的にワールドカップの日本代表を応援していた秘密がよくわかりますね。



しかし、これらの本能には、過剰反応を起しやすいという弱点もあるそうです。
これは免疫機能が過剰に働くと、細菌だけではなく自分の肉体まで攻撃してアレルギーや自己免疫疾患を起すのに似たメカニズムだとか。
ワールドカップなどの国際大会は、国の名誉や威信を賭けています。
よって、同種既存の衝動が過剰反応を起しやすいのです。
この過剰反応の最悪のケースが、いわゆるテロや戦争です。
それらは、敵に対する自己保存や同種既存の域を越えた行為なのです。
実際に、1969年のワールドカップ予選でエルサルバドルホンジュラスに負けたことによって本物の戦争にまで発展したという驚くべき例もあります。
熱狂的なファンだったエルサルバドルの女性が、なんとピストル自殺をしたのです。
この女性の葬儀には代表選手や大統領までが駆けつけた(わたしなど、そもそもここが間違っていると思うのですが)ことにより、ナショナリズムが異常に高まりました。
そして、ついには両国の外交関係断絶という事態になり、戦争が始まりました。
この戦争は、まるでサッカーの試合の延長みたいなもので、100時間あまりで終結しました。しかし、それでも数千人の死者を出したのです。
わたしは、ブログ「ワールドカップ」で、国際スポーツ試合の本質とは「戦争の代用品」であることを示しました。
それなのに、代用品に飽き足らず、本物の戦争を始めてしまう。
なんというアホな話でしょうか!
あと、今回のワールドカップ北朝鮮の選手が負けて国に帰ったら投獄されるとか、失点が続いたゴールキーパーが死刑になるのではないかなどと一部で囁かれていますが、もしこの噂が真実ならば、これほどアホな国はありませんね。



最後に、さまざまな「アホ」について情熱的に語ってくれた著者ですが、本書の最後には、「アホを貶めるようなことをさんざん書いてきたが、ここへきてアホが愛おしくなってきた」と書いています。そんなアホな!
著者は、もしこれらのアホがいなかったら、世の中が寒々しくなるのではないかというのです。アホとは、「良識ある人々の反面教師」というより「社会の潤滑油」ではないかというのです。時にはアホが世界を進歩させることだってあるかもしれないなどと考えながら、著者は次のように述べます。
「整然と進行する世界にあって、時には飛躍も必要であろう。そういう時にこそアホなことを言う人間の存在がものを言うのではないだろうか。言ってはいけないことを言うアホが社会の暗部を照らし出し、人びとに現実を認識させることもあろうではないか。それどころかアホなことばかり言うアホがなぜそんなにアホなことばかり言うのかと人びとに考えさせ、なぜこんなアホが発生したのかという重要な問題を人びとに想像させるということになると、つまりはアホの存在そのものが存在価値になることさえあるだろう」
なんと、ここまで天下の筒井康隆がアホを評価するとは!
とにかく、「アホ」という単語がこれほどまでに頻出する本は見たことがありません。
本書は、前代未聞の「アホ」を正面から取り上げた本であり、社会の暗部を照らし出し、人びとに現実を認識させ、重要な問題を人びとに想像させてくれます。
そう、本書は、きわめつけの「アホな本」なのです。


2010年6月30日 一条真也